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第三章 「ドランクモンキー酔拳」
道場は静まり返っていた。窓からは外の熱気が流れ込み、「哲学の
森」から蝉の声が聞こえてくる。
耳元で蚊の羽音がする。すでに足を何箇所か食われていた。それで
もたとえどこを刺されようとも動くことは許されない。肇たち少林寺
拳法部員は、結跏趺坐で瞑目していたのである。練習前の鎮魂行であ
った。
じっと痒さに耐えて半眼で座る肇の前を、主将の大塚がゆっくりと
通り過ぎ道場正面に回った。そして手にした錫杖を床に立て、片膝を
床につくとそれを押し倒すようにして床を打った。
ばしんっ、という鋭い音と同時に部員たちが一斉に「おうっ」と気
合いを入れて立ち上がる。
前期最後の練習、「打ち上げ」が始まったのだ。二時間の練習は前
後一時間ずつに分けて行なわれる。その前半が「突き蹴り」等と筋力
トレーニングなどの基本練習。後半が剛・柔の技を養う応用練習であ
った。
一番苦しい前半の基本を、この「打ち上げ」の日だけは、幹部全員
が交代で行なった。
それぞれの幹部が自分の得意とするものを、部員たちととことん行
なうのである。
各種の「突き」「蹴り」「受け」等を、何人かの幹部が交代で行な
った。それぞれが自分の限界までやって次と交代する。
交代できない三年以下の部員は、この前半で大半の体力を消耗する。
残るのは「気合い」のみだ。
交代する幹部を一人二人と数えながら、肇は歯を食い縛ってついて
いった。さすがに三カ月にもなると、脱落するものは減っている。肇
も、ぶざまではあっても滅多に脱落はしなくなった。
部員の足元の床が流れた汗で光っている。突き蹴りを出すと道着の
袖から汗が飛んだ。突き蹴り前進の際には、床を濡らす汗で転倒する
ことさえあったほどだ。
最後の幹部は予想どおり松浦だった。彼は日頃から通常の練習以外
にウェートトレーニングなどをこなしているらしく、部員たちからは
「筋力トレーニングの鬼」と呼ばれていた。
「それでは自分の基本練習を始めます」
松浦はそう言うと部員たちを見渡し、「開足中断構え、構えて!」
と叫んだ。
気合いと同時に全員が構えた。
「屈伸蹴り、始め!」
松浦は数えながら屈伸蹴りを始めた。
これは膝を屈伸させ、その後に蹴りを出すという二つの動作を一セ
ットにしたものだ。ヒンズースクワットに蹴りをつけたものと考えて
よいだろう。とにかく恐ろしく疲れるメニューの一つだ。
四十回まで肇は楽についていった。
五十回で、あと何回か考えた。
六十回で、七十回では終わらないかもしれないと思った。
七十回で、九十回まで覚悟した。
その九十回でもうだめだと思った時、松浦が「ラスト十回」と叫ん
で、希望が見えた。とうとう百回までやり通すことができたのだ。
まさに幹部と下級生の根性比べである。
松浦は、お前たちについてこれるか、とでもいうように、その後
「腹筋」「拳立て伏せ」を挑んで基本を終了した。
打ち上げ練習の後半は、一年から三年までを二組に分けての乱捕練
習であった。
練習といっても完全な試合形式で行なわれる。肇にとってもこの形
式は初めてだった。
東海地区ではかつて試合中に死者が出たこともあり、数年前から大
会での試合は自粛されていたのだ。
実際の乱捕では、剣道に似た胴をはめ、股間にも金的用プロテクタ
ーを着けた。さらに両拳には十六オンスのグローブをはめ、顔面への
攻撃もパンチのみは許可されていた。
乱捕は拳士の性格が現われる。例えば、絶対に相手のペースに乗ら
ず、じっくり構えて一撃で一本を取るタイプ。逆に、ステップワーク
やフェイントを駆使して自分のペースに持ち込み、乱戦の中から勝機
を見つけるものなど。上級生の乱捕は見るべき点があった。 肇の順
番は都築の次だった。
都築の相手は二年の渡瀬。体格的にも互角の相手が選ばれていた。
お互いに軽いフェイントを混ぜながら上下・順逆といったオーソドッ
クスな攻防をしている。二人とも小柄だが、その分速かった。見てい
て驚いたのが都築だ。上達している。特に延びのある上段の回し蹴り
など、体の堅い肇にはうらやましいほどだ。
緊張に静まり返った道場の中、二人の気合いが響いた。わずか数ヶ
月でも技の相性というものがあるのだろう。都築は白蓮拳系統の速攻
が好きなようだ。
どちらも決定的な有効打が出ないまま時間が過ぎた。結局、渡瀬が
優勢で勝った。
「次!」
その声に「おうっ!」と気合いで応え、肇は立った。
道場の中央に進むと、相手と向かい合い合掌礼をした。膝のあたり
に力が入らない。緊張しているのだ。
相手は三年の藤山である。身長は肇より少し低いが、力・技・スピ
ードとバランスの取れた巧者であった。
「始め!」
二人は構えた。
藤山は左手を前に立て右拳を顎の下に入れた変則の左前待気構え、
相手の攻撃をカウンターで返そうという白蓮拳系統の速攻を得意とす
る藤山らしい構えだ。
一方、肇は左前の中段構えで、実戦用に拳を少し高めに構えたボク
シングに近い構えをとった。
軽くフットワークを使いながら、呼吸を読むようにして間合いを計
る。どうしても藤山を中心として円を描かされる形になるのは、三級
と二段という格の違いだろう。
藤山はさすがに隙がない。肇が放つ牽制の順突き(ジャブ)は、首
をスウェイするだけで軽々とよけられ、ほとんど同時にカウンターの
順突きが肇の顔面にびしびしと決まった。
口の中が切れて血の味が広がっていく。
一度でも殴られてしまうと不思議なもので恐怖心はなくなる。膝の
後ろに力がこもり、しっかりと踏ん張れるようになる。逃げ場がなく
なると人間の中の獣の部分が目を覚ますのであろう。
ところで動いている相手を殴る・蹴るということは、傍で見ている
ほど簡単なことではない。止っている標的を突いたり蹴ったりするだ
けでも大変なのだ。しかも、動いているのは当然相手だけではない。
自分も激しく動いているわけだ。
まだ数カ月の経験しかない一年生ではあったが、後ろへ下がること
は許されなかった。攻撃し続けねばならない。前へ出ては殴られるう
ちに、藤山の攻撃パターンが見えてきた。 前へ出ようとする肇の
「先の先」を読んで、牽制の蹴りが飛んでくる。それを受けてガード
が下段に下がったところへ、順・逆の突きが顔面に飛んでくるのだ。
蹴りを受けねば胴で一本を取られてしまう。しかし、肇の反応速度
では、蹴りを受ければ突きへの防御が後手に回るのである。攻撃に受
けが追い付かないのだ。
もっともそれがわかるというのは、目だけは動きに着いて行けるよ
うになったということだ。
肇はチャンスを待った。
(来た!)
予想をして待っていたためスローモーションのようによく見えた。
もっともそれに反応する自分の動きもスローモーションに見えるから
同じなのだが。
藤山の蹴りが胴に飛んでくる。左手で下受け、同時に藤山の順突き
が顔面に飛んでくる。次に備えて、その突きはあえて顔面で受ける。
歯を食い縛り、能振盪を起こさぬよう自分からぶつかるようにして左
頬で受けた。目は閉じない。こんな時、不思議と痛みは感じない。
藤山の逆突きのモーションがすでに中盤にさしかかっている。
(本当に速い)
無我夢中で逆突きをフック気味に出した。拳に相手の顔面を感じる
と同時に、自分も強烈な一発を顔面に食らった。
一瞬目の前が白くなる。
(クロスカウンターってやつか・・・)
「あしたのジョー」の一場面が頭に浮かんだ。思わず膝をつくと、
ふっと視界がもどってきた。
「時間、やめ」
藤山の優勢勝ちだった。
それでも一発返すことができた。藤山も口の中を切ったらしい。肇
を振り返ってにやりと笑うと、「ちょっと攻めが単調だったな。読ま
れちまったよ」と言った。
何とも言えぬ充実感がみなぎってきた。今まで感じたことのない感
覚だ。
(見えた)
そうだ。相手の攻撃を見極め、それに応じる攻撃が返せたのである。
これは、一つ壁を越えた喜びだ。
防具を外し、後続の者の応援にまわりながら、この感覚は悪くない、
と思った。
(俺も少しは強くなっているのだ)
「いいか、今回のコンパは前期打ち上げと同時にお前たち新入部
員の歓迎コンパでもある。先輩から注がれた酒はとにかく飲み干せ」
と水木が言った。
大学の正門前にある料亭魚勝の玄関前である。一階が居酒屋、二階
が座敷になっていた。
愛大生、特に体育会のよく利用する店で、一階の居酒屋には歴代体
育会幹部の寄せ書きが貼ってあった。
水木は二年のリーダー格で、自然に一年二年の統制を見るようにな
っていた。
「苦しくなっても幹部・準幹部の前では苦しそうな顔をするな。や
ばそうな奴は我々二年が適当な時期を見て休ませるから、安心して飲
むように。以上」
水木は話を終わると、各人を持ち場に配置した。
ほどなく、正門の方から幹部とOBたちがやってきた。
一年がかけより、「します!」と怒鳴りながら幹部の荷物を持った。
二年は同様にOBの接待だ。玄関に控えた一・二年がバトンタッチし
て彼らを二階の座敷に誘導する。
やがて開会五分前、玄関番の一人を除いて一・二年全員が座敷に集
まった。
座敷には幹部・OBを上座にして座が設けられ、体育会の硬派系各
部、主に武道部・援団・球技各部・ヨット・ボートなどから一人ずつ
幹部が招待されていた。まちがっても同好会などの姿はない。
酒は体育会の全クラブから届いており床の間に整然と並んでいる。
まるでボーリングのピンを思わせたが、総本数は当然十本を越えてい
る。もちろん三河の地酒「英勲」だ。
乾杯の前に新入部員の紹介があった。七人という「大量」の入部は
二年ぶりである。OBの間からは満足そうな声が聞こえてきた。
昨年は六人入部し、一人が家庭の事情で退部していたが、真実は練
習に耐えられなくてやめたということだ。
乾杯と同時に酒宴が始まったのだが、肇たち一年生には肴に箸をつ
ける余裕はなかった。ビール壜と徳利を持って幹部・OBらに挨拶に
回らねばならないのだ。結局、返杯を重ねて、酒だけで胃袋が膨れて
いく。
「二年水木、軍歌を歌います」という声が上がり、酒でやけくそに
なった歌が座敷に響いていった。
歌は演歌か軍歌が主である。軟弱な歌謡曲・ニューミュージックは
公式のコンパでは歌ってはいけなかった。当然この時代、カラオケは
まだない。
次々と酒が追加され、床の間の一生壜がみるみると姿を消していく。
そしてその酒も彼らの体内で次々と小便に変わっていくわけだ。
副将尾崎の前に座ると、隣には準幹部の加山がいた。すでにかなり
飲まされたようで顔が赤い。
尾崎は二人の前にどんぶりを二つ置くと、それに日本酒をなみなみ
と注いで、どっちが速いかな、と聞いた。
肇は加山を見た。苦しそうな加山の目が「飲め」と言っている。
二人は同時にどんぶりを持つと、一気に飲み干した。
「加山、一年に負けるなよ」と幹部たちが囃した。
速かったのは肇の方だ。二日酔の怖さを知らないだけにどれだけで
も飲めた。
(俺は強いのかもしれん)とも思った。
「栗山、お前強いな」と尾崎が言い、「褒美だ」と、もう一度どん
ぶりに酒を注いだ。「ごっつぁんです」と肇がまた飲み干すと、「見
事」と言って解放してくれた。
中原が交代で尾崎の前に座った。座敷を見渡すと、すでに市川と都
築は酔い潰れて戦線を離脱している。
加山が自分の席から手招きしていた。
「栗山、さっきは恥をかかせてくれたな」と言いながら、どんぶり
を差し出した。
とはいえ、その顔は半分笑っている。一気に飲み干そうとする肇に
「無理すんなよ」と声をかけてくれた。
一年生は事前に二年生からコンパの様子を聞かされていた。「酔わ
される」とは聞いていたが、それほどでもないなと思った。
肇は座が進むにつれ、先輩たちからその飲みっぷりを「化け物」な
どと言われて調子に乗った。
恐るべきことに(酒は極楽だ)とも思った。
少し飲み過ぎたかな、という気がしたあたりで記憶が曖昧になった。
強烈な眠気に目がふさがっていく。無理矢理目を開けると天井が回っ
ている。どうやら手と足を持たれて運ばれているようだ。
次に目を開けると、駐車場の砂利が間近に見えた。
「都築が車の中で吐いちゃったよ」という情けない声が聞こえた。
二年の浅間の声らしい。
ひどい頭痛と尿意で目が醒めた。道場の中である。他の一年も寝て
いるようだ。耳元で蚊の羽音がわんわんと響いた。身体中を食われて
いる。いつのまにか毛布を被っていた。事前に上級生が用意していた
ものだろう。
立ち上がると天井が揺れている。よろよろと外へ出ると、道場の横
にある大きな松の根本に放尿した。この松の木は、尿意を催して道場
からよろめきでる者に「ここでしなさい」といわんばかりの絶妙な場
所に立っているのだ。
この松の元気のない理由がわかったような気がした。折にふれ小便
をかけられていては、どんな木もいずれは枯れてしまおう。枯れてな
いだけこの木はまだ気合いが入っている。
自分の尿にこもる酒の匂いが吐き気を誘い、そのまま体を折るよう
にして吐いた。意外なほど量は少ない。すでに大半の酒が体に回って
しまったのだ。
(俺の気合いは今一つだな)
時計を見ると二時を過ぎていた。
道場横の水道で思い切り水を飲み、再び吐いた。それを何回か繰り
返すと少し楽になった。後は頭痛だけだ。
蒸し暑い道場に戻る気がしなくて、肇は砂利の上に腰を降ろした。
ひんやりとした砂利が気持ち良く、そのまま横になる。星が見えた。
学生服の前を開けて、夜風に肌をなぶらせながら星座を探している
と、がたりという音がした。
道場の戸が開き高御堂がよろめき出てきたのだ。やはり松の根本に
近寄ると、ごそごそと前を開けて放尿し、やがて吐いた。
「おおい」と呼ぶと、高御堂は怪訝そうに闇をすかし、「うん?お
前大丈夫か」と言いながらやってきた。
「気持ちいいぞ、ここ」と砂利を叩くと、「なんだ、俺はまたてっ
きりお前がここでくたばっているのかと思ったがや」と笑った。
肇の横に腰を降ろしながら、ああ気持ち悪い、とぼやいた。
「かなり飲んだか」と高御堂が聞くので、「量はおぼえておらん」
と答えた。
「俺はどんぶりで飲んでいたような気がする」
「ああ、お前もか」と肇。
「とにかく床の間の酒を全部消化したことは確かだ。俺が追加を頼
みに行かされた」と言いながら高御堂も横になった。
「星が回っていやがる」
「酒に関しては限界まで見たな」と肇。
「ああ、だが俺はもう見たくない」
「同感」
しんとしたキャンパスを風が吹き抜けていく。
「休みはどうする」
「板金工場で肉体労働だ」と肇は答えた。
「君は」
「俺も似たようなもんだ。集中講義が一つ入ってるがな」
そして、お互いにいかにもプロレタリアートなバイトをするんだな
と言って笑った。
「ところで市川たちは」と肇が聞くと、「死んだように寝とったが・・・、
見てこようか」と言うなり起き上がった。肇も一緒に立ち上がった。
道場に戻ると、三浦や中原たちが転がっている。
「死屍累累ってやつだな」と高御堂が言った。時々、寝言とも呻き
ともつかぬ「うーん」という声や、ごぼごぼという空えずきが聞こえ
てくる。酒の匂いは凄まじいものがあった。
「とても親には見せれんな」と肇。
「あれこそ、まさにそうだ」と高御堂が道場の一角を指差した。
見ると、都築と市川が相打ちといった格好で倒れていた。どちらが
吐いたものかも定かでない嘔吐物の大きな水たまりに、二人で顔を埋
めるようにして寝ている。見ようによっては、砂漠の放浪者が小さな
オアシスに辿り着き、泉に顔を突っ込んだまま息絶えたという趣でも
ある。
肇と高御堂は無言のまま表に出ると、再び松の根本へ急いだ。
胃液以外何も出ないことはわかっているが、それでも吐かずにはい
られない。
とにかく明日から夏休みだった。