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第二章 「ドラゴン怒りの鉄拳」
練習の後、着替えを終えた肇たち一年生に二年生から集合がかかっ
た。東海学生少林寺拳法大会を翌日に控えた夕方である。
道場前の砂利敷の広場に学生服で整列していると、二年生の渡瀬が
部室から大きな信玄袋を持ってきた。同じく二年の大田は黒い漆塗り
のポールを運んでいる。
水木が前に出た。
「明日の東海大会では、我々二年生以上は全員演武に出場する。よ
って、大部旗の掲揚と保守は、お前たち一年が行なう。今から旗手と
補助を指名するので名前を呼ばれた者は前に出ろ」
そう言った後、「栗山、旗手。高御堂、補助」と指名した。
「おう!」という気合いでそれに答えると二人は前に出た。
渡瀬が、信玄袋の中から茶色い革でできたプロテクターのようなも
のを出すと、肇に「着けろ」と言った。
大部旗のホルダーである。あの応援団が大団旗を持つときに使うも
のと同じやつだ。胸の部分には縦の革が上下に走り、腰の部分にはま
るで帯のように幅広い革が胴を取り巻いている。
(まるでハードロックバンドかヘルズエンジェルスだ)と肇は思っ
た。ちなみにヘビーメタルロックという名称は、この翌年、ブルーオ
イスターカルトだかカルテットだかが言いだすので、この時点ではハ
ードロックという言葉しかない。
ポールを入れるサックはちょうどその帯から垂れるようについてい
て、まるで革製のふんどしか金玉袋のようであった。
この他、旗手と補助は白手袋と学帽を着用する。学帽は、弊衣破帽
の「破帽」だ。文字どおりのぼろぼろで、ちゃんと破れていた。
今度は(まさに夕焼け番長だな)と思った。
黒い漆塗りのポールは四本に別れていて、真鍮の継ぎ手で組み立て
ると全部で六メーター以上の長さになる。大部旗の方は広げると十帖
近い大きさで、確かに補助がいるはずだった。
道場の前には元気のない松の木があり、よろよろと枝をのばしてい
た。また空には電線が何本も走っている。大部旗を掲揚する練習には
グランドまで運ぶ必要があった。
「絶対に地面につけるな」と水木が激を飛ばした。
そのため大部旗はポールに巻きつけられ一年生が全員でしずしずと
運んだ。
グランドに着くとすぐに掲揚にかかった。
足を踏ん張った肇のホルダーにポールの一番下の部分をセットする
と、二年生の「上げろ」の号令と同時に一年たちがポールを撥ね上げ
た。
ホルダーにずっしりと旗の重量がかかる。大きく足を広げ、中腰で
後ろに反るようにしながらぐいっと持ち上げた。
素早くポールを回して旗を広げた途端に、ぱん、という音を立てて
風をはらんだ大部旗に煽られて片足が浮きそうになった。さらに腰を
落とし、ふんっ!という含み気合いで何とか支えた。
風をはらんだ大部旗は重い。木製のポールは大きくしなって継ぎ手
の部分でぎしぎしと嫌な音を立てている。
それでも、自分の支えるポールの先で大きな旗が音を立てて翻る様
は爽快だ。
二年生も久しぶりに見る大部旗に満足そうだ。
(なかなかいい役じゃんか)と思った。
翌日は不幸にして風が強かった。特に愛知県体育館前の広場は風が
強い。
午前八時半、肇は不動の姿勢で大部旗を保持していた。全体重を利
用して、風の動きを読みながらバランスを取っている。大団旗を掲揚
する応援団旗手の苦労が偲ばれた。彼らは野球の試合中ずっと持って
いるからだ。
風が動く度に、股間に垂れた革ホルダーがきしんだ。
今朝気づいたのだが、ポールの一番下は黒いビニールテープが巻い
てある。
「これはなんでありましょうか」と聞くと、先輩は「何年か前に旗
の重さで折れたそうだ」と教えてくれた。折れてぎざぎさになった部
分で旗手が怪我をしないようにビニールテープが巻いてあるのだとい
う。もともと構造的に難があったのだろう。どおりで下のポールの下
一本だけが短いはずだ。以前はさらに長かったのである。
破帽の下から汗が滴り、鼻の横を通って顎から学ランの胸に落ちた。
隣の高御堂が時々ハンカチで汗を拭いてくれた。高御堂も破帽と白
手袋で、どうやらこの硬派ばりばりといったいでたちに、少なからぬ
満足感を感じているようだ。きっ、と前を向いたその横顔からもそれ
はうかがえた。
三年以下の部員は、大部旗のもと整列して幹部とOBの到着を待っ
ている。
愛知県体育館前の広場には各大学の掲げる部旗がいくつも翻り、そ
の旗のもと、肇たちと同様に三々五々部員が集合していた。
各大学に特色があった。私服で雑然と集合している公立大学がある
かと思うと、頭を剃っている私立大学がある。学ランの背中に般若心
経を縫い込んでいる者すらいた。
(ありゃやりすぎだな)と思った。
女子部もかなりある。特に中京女子大の少林寺はなかなかの美人ぞ
ろいで注目を集めていた。おまけにきびきびとしている。黒の支那服
もなかなか色っぽく、深尾は「友達になりたいなあ」と言った。高御
堂は「武人の妻はかくあるべし」と言ったし、肇は、ああいったしっ
かりした女の子の級長に「栗山君がんばって」と励まされる副級長・
高校二年生、文化祭の前日・・・といったシチュエーションが頭に浮
かび、心は瞬く間に別世界に飛んでいった。一方、三浦は単に「ええ
尻しとる」と言っただけだった。
どの大学にも共通しているのは部員不足らしい。ここ数年、学生は
軟派指向になっていて、体力的に苛酷なクラブや、印象の地味なクラ
ブ(つまりお洒落じゃないということだ)は学生から敬遠されている。
少林寺は苛酷な上に地味だったのだ。
すでに道着に着替えて、団体演部の練習に余念のない大学もある。
東海大会の上位入賞校は、秋に日本武道館で行なわれる全国大会へ
の出場権を得ることができた。毎年武道館へ行っている愛知大学にと
っては落とすことのできない大会で、そういう意味でプレッシャーが
きつかったのだ。
やがてOBと幹部が続々とやってきたが、大部旗を保持しているた
め肇と高御堂は動かずにすんだ。
肇が旗手になったのは体格のせいだと思っていたのだが、どうやら
それだけではなかった。肇を「OB接待」から遠ざけておくという意
味もあったのだろう。なにしろ、OBのタバコに火をつけようとすれ
ばマッチを折ってしまうし、近眼でOBを見失ったりと、およそ接待
には向いていなかったのだ。
「悪いことは言わん、お前は社会に出ても客商売はせんほうがええ」
と言っていた父親の言葉が思い出された。
いよいよ開会式が迫ってきた。
式は入場行進から始まる。五十音順で愛知大学が一番だ。
プラカードの次を大部旗の肇と高御堂が歩く、その後を出場拳士が
歩くのだ。
低い入り口をそのまま通ることはできないので、旗はポールに巻き
着けて構内に入り、旗手が構内に入ると同時に高御堂がポールを撥ね
上げることになっていた。
開会を告げるアナウンスの後、行進曲がかかった。先頭は地元女子
大学のバトン部、そしてプラカード嬢が続く。バトン嬢もプラカード
嬢も学生服だらけの真黒な会場に少々緊張しているようだ。それでも
彼女たちのフェロモンはたいしたもので、練習中に「あっ」と貧血で
倒れた彼女に肩を貸して保健室へ向かうというシチュエーションが頭
に浮かび、またしても肇は別世界に飛んでいきそうになる。
いよいよ愛知大学の入場だ。
バトン嬢のセクシーな後ろ姿から目を引き剥がして高御堂を見た。
「いくぞ!」と高御堂。
「おう!」と肇が答えた。
客席から見ていると、さぞかし異様だったのではないだろうか。愛
知大学のプラカードの後、しばらくは延々と横になったポールが出て
くるのだ。
ようやく肇が入り口を通ったところで、高御堂が「せいっ」とポー
ルを撥ね上げた。
歩きながら体重を後ろにかけ、素早くホルダーにポールをセットし
て持ち上げた。
途端に、ぶつりっ、という音がしてホルダーの「金玉袋」が落ちた。
革を繋ぐ鋲の穴がへたって延びてしまっていたのだ。
「あっ!」という高御堂の小さな叫びが聞こえた。上級生たちの間
に沈黙の緊張が走ったのが背中に感じられた。
肇は「ふんっ」という気合いを発して、ポールを持ち上げると、ホ
ルダーのウエスト帯と自分の学ランの間にそれをすべりこませた。
(いっ、痛い)
へそのあたりにポールの重みがぎりぎりと食い込んできたが、なん
とか旗は倒れずにすんだ。歩きながら位置を調整し、自分の太股の上
で安定させた。屋内で風のないことも幸いした。
(死んでもラッパを放しませんでした)という言葉が頭をかすめ、
あれはキグチコヘイだったっけ、と思った、
各大学の大部旗の中で愛知大学のものが抜きんでて高い位置に翻り、
かつ古かった。
副旗手がついているのも愛知大学だけだ。なにしろ大半の大学は軽
そうなアルミ金属製の伸縮式ポールに部旗を掲揚しているのだ。
(あれなら片手で持てるじゃんか)
肇は自分の掲げる大部旗に伝統と名誉の重みを感じた。文字どおり
の重さでもある。
大会とはいえ観客は関係者ばかりで、必然的に観客席は学生服の黒
一色に染まっていた。何とも地味な大会で、野球のように大学の同級
生が応援に来ることもなく、ましてや女の子などが応援に来ることは
まちがってもなかった。
肇たち一年は接待に追いまくられ、満足に他校の演武を見ることも
できなかった。
それでも無事に大会は終了し、愛知大学は優勝こそ逃したものの、
一応上位に入り全国大会への切符を手にすることができたのだった。
*
七月上旬、前期打ち上げ練習を間近に控えた土曜日の午後であった。
練習後の道場は、練習中とはまったく別の顔を見せる。しん、と静
まり、窓からさしこむ日差しの中、眠っているようにも見える。
その上級生のいなくなった道場に一年生が残っていた。ちょうどあ
とかたづけがが終わったところだ。
「おいみんな、シャワーへ行こうぜ」と中原が声をかけた。
振り返った肇の鼻の穴には捩じった脱脂綿が二本詰め込んである。
またしても乱捕で鼻血を出したのだ。
中原は「ぷっ」と笑って「バカボンのパパだな」と言った。
その中原も乱捕で口の中を切ったらしく、歩きながら時々、ぺっ、
と血の混じった唾を吐いている。
シャワー室はキャンパスの反対側にあった。道着を抱えて歩いてい
く一年生たちを解放感が包んでいた。明日は練習のない日曜日なので
ある。
前から短大部の女子学生たちが歩いてきた。十人ほどの集団で、鳥
がさえずるような歓声が聞こえてくる。
「へーなあ(ええなあ)」と肇が鼻の詰まった声で言った。
「うむ眩しい」と都築。
「俺は右から二番目がいいなあ」と三浦。彼は女に対してすぐ点を
つける癖があった。すれ違った後、一人で「八点」とか「惜しい、足
が細ければ十点」とか言うのだ。もっとも今日は単に「ええ乳しとる」
とつぶやいただけだった。
肇たちはどきどきとしながら歩いていく。当然、鼻の脱脂綿は手で
隠している。中原は唾を吐かずに飲み込んだ。
ところがお互いの距離が縮まると、彼女たちは少し声を落とし、目
を反らしながら、すっ、と左右に別れた。
それはあたかもモーゼの杖で紅海が割れるかのように。
紅海を割ったのは神の吹かせた東風だが、彼女達を左右に分けたの
は、どすの効いた学生服と坊主頭であろう。
すれ違った後、「あの目はやくざを見る一般人の目だ」と高御堂が
寂しげに言った。
彼は少林寺の一年にしては珍しく学業優秀で一番インテリである。
ところがそのごつい体格が災いして、外見は一番やくざっぽく見えた。
土曜日のキャンパスにはカップルが目立った。
「あっ」と三浦が声を出した。
「どうした」と市川。
「あいつらもう・・・」
溜息まじりにそう言った三浦に「やあ」と軽く挨拶しながら一組の
カップルが通り過ぎた。
ぴったりと寄り添った二人は、それ以上他人が話しかけるのを無言
で拒否している。
「同じクラスなんだ」と三浦は悲しげに見送った。どうやら娘の方
にまんざらでもなかったらしい。
「ええ女は、あっというまに、人の彼女だでかんわ。みんな青春を
謳歌しとるがや」と三浦。
「俺達とは違った青春やな」と都築が言った。
「俺達の青春はこれだ!」と言って、肇は鼻に詰めた脱脂綿を取る
と、もう遠くへ行ってしまった短大生の背中に向かって投げた。
そして、中原はまた、ぺっ、と唾を吐いた。
「俺たち、四年間に恋愛なんてできるんかな」と、しみじみ言った
のは深尾だった。
彼は男子校の出身だけに、女に対する免疫が誰よりも弱かったのだ。
それだけに彼の言葉には重みがある。
ぶつぶつ言いながら歩いていくと、プレハブ作りのバラックが見え
てきた。シャワー室だ。
肇がプロパンのボンベを開け、種火に点火すると、もう室内では水
の音がして「ひゃあ冷てえ」という深尾の声が聞こえてくる。
肇が裸になると、「ずいぶん締まったな」と言って都築が腹を殴っ
た。
「ふっふっ、入部以来六キロ痩せたぜ」と肇。
「そりゃもともと肥り過ぎてたんだよ」と市川。
個人差はあるものの、一年生たちの体は締まってきた。同時に、突
きと蹴りの「受け」でいつも打撃されている腕や臑は、青痣ですっか
り色が変わっていた。
全員が「ゼノール」という湿布薬を愛用していた。この薬、よく効
くのだが残念なことににおいがきつかった。なにしろ、クラスメート
からは「少林寺の一年は遠くにいても匂いでわかる」と言われるほど
だった。
練習中に気が抜けると事故も多かった。幹部が口をそろえて「気合
いを入れろ」と言うのもある意味で当然なのである。
この年も、練習中に一年生が過呼吸などの発作を起こして二回ほど
救急車を呼んでいた。
湯を浴びると生き返る思いがした。シャワーの音に混じって聞こえ
てくる「うーん」とか「極楽」とか妙に年よりめいた言葉は市川だろ
う。
「俺たちゃ、花のキャンパスライフとはもっとも遠いところにいる
大学生やろうな」と都築が言った。
誰も答えない。何を今さらというところだ。
「俺は頑張るぞ」と三浦が言った。
「俺もだ」と高御堂。
三浦は「恋愛」に頑張ろうと言ったのであるが、どうやら高御堂は
「武道」に頑張ろうと解釈したようだ。
(俺はどうなのだ)と肇は思った。何に頑張ればいいのだろう。
シャワーに打たれながら、肇は自問し続けた。
しかし、答えは出てこない。
(シャワーの爽快さの前に、思考とは何と無力なのだろう)
よし、俺は何か「頑張れるもの」を見つけるよう頑張ろうじゃない
か、と思った。きっとそれが見つかった時には、今練習で養っている
根性とか気合いが生きるんじゃないのか。そうとでも思わなければや
っていけねえぜ。
こうやって適当に思考を切り上げてしまうのも体育会系学生の特長
だった。おかげで内向的だった肇も、すべてのことに対して、かなり
ポジティブな見方が出きるようにはなったのである。
コップを空けると、隣の席の田中由美子が麦酒を注いでくれた。
肇は少なからず緊張していた。女の子と酒を飲むのは初めてのこと
だ。いや、真面目な高校生だった肇にとっては酒を飲むこと自体、ほ
とんど初めてである。
豊橋駅に近い魚定という料亭の二階座敷、クラスコンパであった。
「何故、少林寺なんか入ったんですか」と由美子が聞いた。
(少林寺なんかはないだろ、なんか、とは)と思った。
彼女の言葉に、武道系の学生に対する一般学生のイメージが集約さ
れているといってよいだろう。二年後、都築が卒論をまとめるときの
話なのだが、社会学科の彼は「大学体育会と縦社会」というテーマを
考えた。そこで教授から渡された参考図書の中にヤクザ社会
を扱った「病理集団の研究」という本があり、都築は「俺達は病理集
団か・・・」と嘆いたのである。この論文のために彼は学内体育会の
学生にアンケートを実施したのだが、意外にも好意的な意見が多かっ
た。どうやら少林寺四年の都築がやっているアンケートということで、
誰も本音を書かなかったらしいのだ。
さて、そうはいっても彼女に悪気はない。緊張を和らげようと会話
の糸口を切ってくれたのだ。
しかし、じっと見つめてくる大きな瞳がよけい緊張を与えてしまう。
(か、かわいい・・・)
もう慣れた筈なのだが、自分の着ている学生服と角刈り頭は、いか
にも時代錯誤であろうと思い恥ずかしくなった。
ただでさえ女性との会話にぎこちない肇にとって、このスタイルは
「追い撃ち」のようなものだ。
そして、この愛らしい同級生と自分との間にある距離が、実に大き
いものであることを感じずにはいられない。
「思い切り体を鍛えるのは、この四年間しかないと思ったんだ」
我ながらつまらない答えだった。それでもこれは、入部以来ほとん
ど毎日、体育会に籍を置く意味を問い続けて得た、自分なりの最も合
理的な答えなのである。あんなハードな練習は頭で納得させねば「や
ってられない」ともいえる。
そんなことより、彼女にもっと話さねばならないことがあるのでは
ないか。俺自身がどんな人間であるかとか、君はどんな人間なのかと
か・・・・。
「失敬」
そう言って肇は廊下に出た。手洗いへ立ったのだ。その間に話すこ
とを考えようと思った。
手洗いは混雑していた。初めて酒を飲んで吐いている奴、声高に話
しながら宴席の盛り上がりを便所まで引きずっている奴などが、うろ
うろとしている。魚定には他にも愛知大学のコンパが入っているよう
だ。時折、遠くの座敷から爆発するような笑いが聞こえてくる。
座敷へ戻ると、席はすっかり乱れていた。肇の席には平田が腰を落
ち着けている。由美子の耳に顔を寄せ、ぼそぼそとジョークを飛ばす
度に、彼女は頬を染めてはくすくすと笑っていた。女の子のあしらい
方が実に上手で嫌味がない。
戻ってきた肇を一瞥すると、「悪いな盛り上がっちまって」とは言
うものの、いっこうに動こうとする気配がなかった。
女と話もできない奴は、ここに座る資格はないぜ、とでも言ってい
るようだった。道理ではある。クラスの中でも特に可愛らしい由美子
の隣・・・、うかつに席を立った肇の負けだ。
雑誌から抜け出たような服を着た平田は、隣の由美子とよく似合っ
ていた。いかにも今風の「大学生のさわやかカップル」、少なくとも
肇の着ている学生服よりは明るく見えた。角刈りに許されるファッシ
ョンは学ラン以外にはジャージーのトレーニングウェアしかなかった
のだ!
肇は新しいグラスと麦酒を手に、空いた席へ移動した。席はいくつ
も空いている。
肇の在籍する法学部は女子学生が極めて少なかった。その少ない女
子の周辺に男子が集まってしまい、それ以外の席はすっかり空いてい
るのだ。
少し敗北感を感じていた。そして、そんなことに敗北感を感じる自
分が情けなかった。
「おいっ」と呼ぶ声に振り向くと、廊下に柔道部の武藤がいた。に
こやかに笑いながら入ってくると窓際にどっかとあぐらをかき、学生
服の襟を開いてせんすで風を送り始めた。そのバンカラな態度が肇を
少しほっとさせた。
肇は「よおっ」と近づくと隣に座った。
「何だかお前も浮き上がってるみたいだな」と武藤が笑った。
「みんな女には凄い情熱じゃないか」と肇は冷めたように言った。
冷めていたわけではないが、知らないうちにそんなポーズをとってい
た。
「うむ」とうなづくと、武藤は麦酒を注いだ。
そして「俺はそういうことは何だか面倒だ」と言い訳がましく言っ
た。どうやらバンカラも照れからくるポーズなのであろう。
武藤も肇も、練習直後に駆けつけてきたため、顔に疲労の色があり、
何やら情けないものがあった。
「きっと体育会じゃない奴はエネルギーが余っているんだ。人間の
エネルギーは総量が決まっているのかもしれん」と肇。
「何か後ろ向きだぞ、そういう考え」
「そうだな」と、肇が麦酒を注いだ。
お互いの部の話をすると、武藤も体育会の縦社会にうんざりしてい
るのがわかった。もっとも三カ月で二人ともそれを冗談のネタにでき
るほど慣れてはいた。
「知っとるか、援団に入った柘植の話」と武藤が笑いをこらえなが
ら言った。
「知らん」
「実はな、」といいながら武藤は笑いだした。
五月の連休に行なわれた応援団の新入生歓迎合宿の話だ。柘植たち
新入生は、事前に先輩たちから合宿の楽しさをとことん吹き込まれ、
あげくの果てに楽しみにすらしていたそうだ。ちなみに駅に集合した
とき柘植はギターと吊り竿を抱えていたという。
ところが合宿所に近づくにつれ、徐々に先輩達の言葉づかいが変わ
ってきた。そして合宿所に待っていたのは壮絶な練習としごきだった
のだ。
「結局、ギターも吊り竿も無駄になったわけだ」
「いや、幹部さんが喜んで使って下さったそうだ」と武藤。
今にいたるもギターを持参して合宿に参加した新入生は柘植だけで
ある。
盛り上がったままコンパは九時に終了した。しかし、肇には今一つ
乗り切れないものがあった。
魚定の表では、男子学生が由美子をはじめとする女子学生を取り巻
き、「二次会へ行こう、二次会」とか「車で送るよ、俺のマーク2」
などと、口々に誘いながら、お互いに見えない火花を散らしている。
平田は、にこにこと笑いながら、「彼女たちにも門限が」などと言
っている。すでにデートの約束を取りつけている余裕だろう。
彼らを適当にいなしながら、由美子たちは豊橋駅に歩いていく。
「じゃあ」という肇の挨拶にも誰も気づいていない。
その賑やかな一団を目で追いかけながら、由美子の姿を探している
自分に気づいた。
(俺には関係ない)
彼らに背を向けると、ゆっくりと自転車をこいで下宿に向かって走
りだした。
(あんなことはできん)と思った。
その半面、あそこまで自分を捨てて女にぶつかっていける彼らが、
うらやましくもあった。
国鉄東海道線の上に架かる跨線橋にさしかかった。歩行者・自転車
用の急な斜路になっている。半分ほど登ったところで自転車を降りて
押さねばならなかった。とても上までは駆け上がれない。
跨線橋の上で肇は足をとめた。再び、俺にはあんなことはできん、
と思った。
橋の上から駅の方を見たが、すでにクラスメートたちの姿はなかっ
た。街の灯だけが、妙に美しく目に映った。
ふいに入学早々、同じクラスの畑田の下宿へ行ったことを思い出し
た。学食で偶然出会い、そのまま近くの下宿へ誘われたのだ。
ひょろりと痩せた畑田は、肇同様一浪して入学してきた男だ。話術
が巧みで大人びた雰囲気を持っていた。いつも顔には皮肉な笑いを浮
かべている。それが他人と自分とを差別化するポーズなのだろう。
畑田の下宿は、下宿というよりむしろアパートといったほうがよい
造りだ。まだ四月だというのに、すでに一年以上暮らしているような
汚れ様だった。
八畳ほどの洋間で、ベッド・ステレオという三種の神器のうちの二
つが揃っていた。もう一つの神器・車は、免許を取りしだい中古のス
ポーツカーでも買いそうな男だった。
畑田は冷蔵庫を開けると、肇に麦酒を勧めながら聞いた。
「栗山君、彼女はできたかい」
「おいおい、入学してまだ一月も経ってないんだぜ」と肇は笑っ
た。
「何のんきなこと言ってんだよ。須藤なんかもう赤沢麗子とデート
してるぜ」
肇は驚いた。同じクラスの赤沢麗子は美人ではないが、なかなかセ
クシーな娘で、男子学生の注目の的だった。
須藤の方は、これといった印象もなく、まだ話したことがない。
「知らなかった」
「そりゃ君は毎日道場でエイヤーやってるから知るはずもないさ」
そう言った畑田の顔が嬉しそうに崩れ、急に自信たっぷりに見え始
めた。
「須藤を見直しちゃった」
そして、俺も早く彼女を作るつもりだ、と言った。
「昔の女とはなかなか会えないもんな」と畑田。
「ほう、故郷に恋人がいるのか」
「当然じゃないか」と言った畑田はますます自信たっぷりだ。
「君はいなかったのか、気の毒に」と微笑みながら、畑田は自分の
女性体験をとうとうと語り始めた。そして「女を落とす」様々なノウ
ハウの数々・・・。
その勝ち誇ったような表情に、肇は少々うんざりした。こいつの頭
の中には女のことしかないのだろうか。
だが同時に、自分と同じ年の男女が受験のさなかでさえ恋愛に対し
ていかに情熱を傾けていたのかを知り、愕然とした。
肇にとっての恋愛とかセックスとかは、小説や映画の中のできごと
であった。
畑田が大人びて見えるのは「女」を知っているからかもしれない。
と言うことは、少なくとも相手の女が身を委ねてもいいと思うほどに、
相手の心と面と向かったのであろう。
それに比べて自分はどうだ、と肇は自問した。
(俺はいつも自分自身としか対面していないのではないか)
ショックだった。
(俺は受験だけでなく、恋愛とか性に関しても落ちこぼれてしまっ
たのだ)
線路の彼方から灯が近づいてきた。
ふあーん、という間の抜けた音を立て電車が足の下を走り抜けてい
った。
今、こうして見つめている街の灯が、彼らの楽しげな青春の象徴の
ようにも見えた。
俺はそこから何と遠いところにいるんだろう。
突然、由美子の顔が心に浮かんだ。あの娘も、平田や畑田のような
奴と恋愛をするのだろうか。
畑田の「二回目のデートで部屋までくればしめたものさ」という言
葉が頭に浮かぶ。
(くそっ)
何とも言えぬもどかしさに、肇は「はっ」という含み気合いを発し
て思い切り夜空を蹴り上げた。そして橋の上から街の灯めがけて上段
突き・回し蹴り・足刀蹴りとやみくもに連攻を出した。
足がふらついて、慌ててもたれた自転車といっしょに、がっしゃん
と倒れた。
急速に酔いが回ったのだ。
倒れたまま見上げると、雲が低くたれこめて町の明かりにぼんやり
と照らされている。青春小説のように星などは出ていなかった。
(俺は何をしているんだ・・・)
届きもしない攻撃を繰り出して。
妙な疎外感を感じていた。
「女々しい」とつぶやいた。
彼らとの距離がどれだけあろうと、それは問題ではなかった。問題
なのは、こんなことで疎外感などを感じる自分の弱さだと思った。
自己嫌悪を感じていた。