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第一章      「燃えよドラゴン」

  栗山肇が滑り込むようにして愛知大学に入学したのは昭和五十二年
の春だった。一浪の果ての十九歳である。同年に母校の朝日高校から
愛知大学に入ったのは、どうやら肇を含めて数人であったらしい。
  おおかたの誤解のないように言っておくが、これは肇が優秀であっ
たということではない。高校二年以降、学業を放擲していた報いが来
たのである。
  なにしろ当時の愛知大学は、中部の私大の中では実に地味な存在で、
飛び抜けて人気のある大学とは言いがたかった。進学校として飛び抜
けていた当時の朝日から、愛知大学に入学するのは極めて稀なケース
だったのだ。
  もっとも朝日高校への入学自体が、学校群制度という新しい高校入
試制度のおかげである。この入試制度で入った肇は、大幅に母校の学
力レベルを下げたという自覚があった。その意味では「公立高校間の
学力格差を是正する」という新制度の目的を果たすのには大いに貢献
したわけだ。
  元来俺は凡庸な学生だったのだ、と最近の肇は納得していた。
  学業に関してはそれほどでもないが、学費に関する限り愛知大学は
飛び抜けていた。
  安かったのだ。
  国公立ほどではないが、それでも通常の私学の三分の一以下、公立
の倍程度と聞けば、その安さも想像できるだろう。おまけに大学のあ
る豊橋市は物価が安く、当然下宿代も安かった。
  肇のような赤貧学生には住みやすい街だったのだ。何より、大学側
によって、彼らの生きていく環境が整備されていた。
  例えば、愛大生の食事レベルを松竹梅の三段階で論じてみよう。ま
ず愛知大学には二種類の食堂があった。
  学食と呼ばれる学生食堂ではカレーライスが七十円で食べられた。
かつ丼ですら百七十円である。町中の喫茶店でコーヒーが二百円の時
代にだ。
  この食堂を松とすれば、竹に相当するのが寮食と呼ばれた学生寮の
食堂である。
  金額は学食の三割安、量は三割増し、味は問答無用という大雑把な
もので、寮生と一部の体育会系生徒以外はまったく利用しない、いわ
ば「幻の食堂」だった。
  キャンパス外れの寮内でひっそりと営業していたので、女子学生の
中には入学から卒業までその存在に気づかない者すらいたのである。
  ちなみに梅に相当するのは、食パンを買って食うというものだ。肇
の場合、副食として、近所の天ぷら屋から「もらった」天カスにソー
スをかけ、それをパンにはさんで食べるというのに一時凝ったことが
あった。
  そのころ、名古屋の私大の人気トップである南山大学にもやはり二
つの食堂があった。一つはカフェテリア形式の学生食堂であり、もう
一つは本格的なレストランであったという。
  小さなことではあるが、大学のブランドイメージはこういった小さ
な事実の積み重ねで定着していくのである。
  ちなみに当時、名古屋を中心とする中京圏で、私大文系コース受験
のシティ派高校生(勉学重視派)に人気のあるのは断然「南山」であ
ったし、シティ派高校生(遊び重視派)に人気のあったのは愛知学院
であった。

  「これで本日の練習を終了します」
  副将の合掌礼に応えて、部員全員が「ありがとうございました」と
合掌礼をする。そして副将小島だけでなく、すべての部員どおしが互
いに「ありがとうございました」と怒鳴るような大声で礼をした。
  部室へ着替えに向かう四年生(幹部)の後を、おしぼり、マッチ、
お茶を持った一年生が追いかける。このあたり、応援団の上下関係が
武道系の部に広がり、慣習として定着したものだろうと肇は推測して
いた。
  数年前に応援団を舞台にした漫画(どおくまんの「嗚呼、花の応援
団」だ)が流行したが、その中でギャグだと思っていた様々な慣習が、
実際に体育会に入ってみると驚いたことに実はまったくのリアリズム
であるということがわかった。
  さて道場と隣接した部室は、夏は暑く冬は寒いという六畳ほどのプ
レハブで、四十人近い部員が全員入ることは到底できなかった。その
ため幹部が着替えをしている間、三年生以下は道場で待っているのだ。
  道場では大きな鏡の前で突き蹴りのフォームをチェックする者や、
窓枠に腰を降ろして風に肌を冷ます者など、練習後の解放感に浸りな
がら、皆が思い思いに寛いでいる。
  着替えを終えた四年生が、一年生に「準幹部を呼んでこい」と言っ
た。
  準幹部とは三年生部員のことだ。一般には四年が幹部、三年が準幹
部、二年以下が部員となっているのだが、体育会、それも応援団や武
道系のサークルでは一年がゴミ、二年が奴隷、三年が人間で、四年が
神様などと称されていた。
  準幹部の呼ばれた部室の外で、「また括入れかな」と二年の浅野が
言った。
  「けっ、たまらんな」とつぶやいたのは、同じく二年の朽木であっ
た。
  肇たち七人の一年生は、嫌な予感におびえながら立っている。
  「括入れ」とは文字どおり「括」を入れることだ。練習に際して、
手を抜く者、歯を見せる者などがいると、全員が「気合いが足りない」
ということで絞られるわけだ。まれにではあったがビンタなどもある。
  つまり旧日本軍のような慣習が残っているのだ。
  四年生が部室から出てきた。
  「した!」という怒号にも似た挨拶に送られて、潮が引くように帰
っていく。
  彼らの挨拶はいつも大声が基本だ。先輩の姿を見つけた場合は、た
とえそれが町中であれ、合掌礼とともにこの大声を出さねばならない。
もしそれを忘れた場合は、「礼を欠いた」ということになるわけだ。
「した!」とは「ありがとうございました」とか「失礼しました」の略
である。「こんにちは」の略が「ちわ!」、「失礼します、お願いし
ます」などの略が「します!」となる。それぞれ「!」がついている
のは前述のように大声だからだ。こういった挨拶の略語は武道の種類、
大学などによってまちまちで、例えば応援団・空手などは「おす」だ
し、その「おす」にしても「おーす」であったり「うぃっす」に近か
ったりと差があった。
  当然、一般の人々からは奇異なものを見る目で見られた。まず大声
自体が異様であるのに加えて、合掌礼そのものがやはり珍しい。
  それはそうだろう。第一、坊主頭で学ランを着たむさくるしい男た
ちが大声を出すこと自体、(平穏な社会の中では一種の「暴力的行為」
に該当する)のではないかと肇は思っている。カッコで括ったのは、
最近、講義で判例などを読む機会が多いため、肇の頭の中が、法的な
文体に侵されているせいだ。
  当初、この挨拶をするのにはずいぶんと抵抗があったのだが、どう
やら挨拶される上級生も時と場所によっては大いに閉口しているらし
いとわかった。同期の三浦などは、卒業を控えて髪を延ばしはじめ、
短大部の女子学生とにこやかに話している四年生を見るや、「チャン
ス!」とばかりに、ことさら大きな声であいさつしているぐらいだ。
一種の復讐だろう。

  部室から、三年生が帰っていく。
  どうやら「括入れ」ではないらしいと二年生が噂をしていると、部
室から三年生の近藤が出てきた。
  一年生に集合をかけると、ついてこい、と言って後も見ずに歩きだ
す。
  何か新しい「括入れ」であろうかと、後に続く一年生の表情は硬く
なった。
  後から知ることになるが、この「括入れ」は三年から一年というよ
うに学年を飛び越すことは絶対になかった。一年は常に二年から「括」
を入れられたのだ。
  「このあたりでいいだろう」と言って近藤が立ちどまったのは、道
場から五十メーターほど離れた芝生の上だった。
  ちょうど大学の本部棟が目の前に建っている。明治四十二年に建て
られた建物は、かつて陸軍第十五師団の司令部だった物だ。古めかし
い木造瓦ぶきの洋風二階建で、白いペンキの壁が緑の多いキャンパス
によく似合っていた。
  愛知大学は戦後すぐに設立された大学なのだが、この本部棟のおか
げで、あたかも戦前からの伝統校のようなムードを学内に漂わせてい
た。大学の設立じたいも学制切り替えの直前に滑り込んだので、わず
か三年だけとはいえ、愛知大学の前身は旧制大学予科、つまり旧制高
校なのだった。
  じっとその校舎を眺めていた近藤は、振り向くと肇たちを横一列に
並ばせた。
  「お前たち、寮歌を知ってるか」
  「いいえ知りません」と中原が代表して答えた。もちろん一年生の
誰もそんな歌を知るはずがない。
  確か、入学式でもらったおびただしい書類の中に学生歌のソノシー
トが入っていたように思われたが、そのB面にでも入っていたかもし
れない。もっとも今の時代にそんなものを聞く学生はいないだろうし、
ましてや肇はそれを聞こうにも生まれてこのかたステレオとかテープ
レコーダーとかを持っていなかったからだ。もっともラジオだけは、
この春に買っていた。
  近藤は道着の懐から紙を出すと一年生に渡した。手書きの原紙から
青焼きコピーを起こしたもので、寮歌の歌詞が書かれていた。
  「俺が歌うからよく聞いて覚えてくれ。寮歌ぐらい覚えとくもんだ」
  近藤はそう言うと腕を組み、半ば目を閉じるようにして歌いだした。

  月影砕くる東海に
  秋色深く星辰は
  古哲の愛知偲ばせて
  熱情燃ゆる男の児らの
  詩興は翔りて恋ひ慕ふ
  魂の故郷さまよはん

  硝煙の香消え失せて
  欧亜の山河に春来れど
  ローマアテネに比ぶべき
  ロゴスの憧憬涸れ果てて
  濁れる黄河の水を汲む
  たたずむ遊子に愁ひ濃し

  享楽の嵐吹き荒び
  怒涛にただよふああ故国
  ・・・・

  夕方である。帰宅を急ぐ学生たちが、もの珍しそうに振り返って
いく。
  そんな視線をいっこうに頓着せず、近藤は朗朗と歌った。
  (かっこいい・・・)と思った。
  歌もなかなか良かったが、それ以上に人目を気にせず堂々と歌う
近藤が凛凛しくてかっこよかった。
  (こんな「凛凛しさ」を俺も持つことができるだろうか)
  そう思いながら「凛凛しさ」という言葉も今では死語だなと感じ
た。
  木造校舎に夕陽が映えて、かつての青春映画の中の一シーンを思
わせた。
  歌い終わると近藤は「お前ら、つらいことがあったらこの歌を歌
えばいい。体育会には理不尽な面も多いと思うが、四年間馬鹿にな
ってやってみてくれ」と言った。
  「こんなことは嫌でも四年間しかできん」

  自転車が長い坂を下っていく。
  肇の自転車の隣には少し遅れて都築の自転車が並んでいた。肇の
自転車は、実に頑丈な作りである。フレームは鉄で、その上ブレー
キはワイヤーではなかった。サイクルといえばスポーツとか青春と
かをイメージするのだが、このサイクルは正に自転車と呼ぶのが相
応しく、むしろ寿司とかラーメンをイメージさせるのだ。
  みんなから出前自転車などと馬鹿にはされていたが、重い上に変
速ギアがないだけに下り坂は速かった。
  この「出前号」は、下宿生活の足として入学時に両親から買って
もらったものだ。本当は倍ほどの値段のスポーツ車が欲しかった。
フレームの材質はクロームモリブデンで重量も半分以下。ドロップ
ハンドルもスポーティーな十二段変速というやつだ。しかし親の期
待に反して公立大学に落ちた身でもあり、肇はその自転車で我慢し
ていたのだ。
  「常に願望は程々にしておく」という性格、肇自身はこれを長男
根性と頭の中で命名していたが、それが身についてしまっていた。
  友人たちから出前号と言われる度に、そんな自分の一面を指摘さ
れるようで嫌な気分になった。
  今では、四年間この自転車で通してやる、という歪んだ決意さえ
抱いている。これもやはり長男根性かもしれない。
  下り坂は長かった。
  愛知大学のあるのは高師が原と呼ばれる高台で、そこから豊橋駅
のある町の中心に向かって長い下りになっていたのだ。
  これが登りであったなら、二人は練習後の疲れた体で駅に向かう
ことなどできなかったであろう。
  ちなみに駅と反対に向かうと、やはりなだらかな下りになって伊
古部という浜にぶつかり太平洋を臨むことができた。
  坂を下ると、チカダというお好み焼き屋がある。二人は自転車を
止めるとその中に入った。
  入るなり、おばちゃんが「いらっしゃい」と言った。肇も都築も
常連である。
  「肉玉の大」と肇。
  「俺も」と言いながら、都築はクーラーボックスからジュースを
二本出し、一本を肇の前に置くともう一本の栓を開けぐいっと飲み
干した。そして腰を降ろしながら少年マガジンを取り「空手バカ一
代」のページを捜しはじめる。
  毎日来ているだけに、それらがすでに淀みのない一連の動作とな
っていた。
  「どれだけでも飲めそうや」と都築。
  「深尾はこの間、コーラを一リッター壜で飲んだらしい」と肇が
言った。
  「そういう手があったか」
  「体中の水分が全部汗で出ちまった」
  そう言って肇は、壁際の椅子に腰を降ろすと体をずらして壁に背
をあずけた。見るからにへばっている。
  都築は高校時代、スポーツ部をやっていなかった。肇も同様で、
おまけに浪人までしていた。
  体力の無さでは、新入部員の中で一・二を争っている二人だった
のだ。
  「最近勉強してるか」と肇が聞いた。
  「馬鹿なこと聞くな、俺達は体育会だぞ、帰って寝るだけに決ま
っとるやろ。いや帰る前にもう寝とるか・・・。この間は名鉄を乗り越
して岡崎まで行っちまったでな」
  お前はどうなんだ、という都築の問いに、肇は「やっとらん」と
答えた。むしろ「やれない」というのが本当だろう。
  もっとも、二人とも口に出すほどは気にしてはいない。受験生と
しての生活はこの三月で終わっていたし、就職などの将来はまだ四
年先のことだ。
  「俺達どんどん馬鹿になるな」
  「疑問を抱き始めたらきりないぞ」
  先輩たちを見ろ、考えることを放棄して練習に打ち込んでいる、
と都築が言った。
  「うむ、そうだ」と二人は納得したように己に言い聞かせた。
  ちょうどお好み焼きが出てきたのだ。二人はすでに割りばしを手
にしている。
  こんなことで議論を中断して納得してしまうあたり、二人はまち
がいなく体育会系への一歩を踏み出していた。
  「兄さんたち、愛大の学生さんやろ」と、おばちゃんが聞いた。
このおばちゃん、屋号から想像して、多分、近田さんなんだろうが、
肇も都築も単に「おばちゃん」ですましている。
  「やっ、よくわかりますねえ」と都築が嬉しそうに言った。
  小柄な都築はよく高校生と間違われ、まれにではあるが中学生と
間違われたこともあったからだ。坊主頭で学生服を着ていれば、そ
れも無理からぬことである。大学生と言われた都築の顔に嬉しそう
な色が浮かぶわけだ。
  「そりゃあ兄さんは若く見えるけど、そちらの兄さんの方は大学
生にしか見えんもんねえ」
  おばちゃんはそう言って肇を見た。
  都築は笑い、肇は憮然とし、「まいったな」と頭をかいた。
  肇は年の割に老けて見えるのだ。都築の場合とは逆に、学生服に
よってかろうじて大学生だとわかるのである。
  「やっぱりスポーツやってる学生さんはいいねえ」
  「そう言ってくれるのは、おばちゃんだけやね。若い娘どもに聞
かせてやりたい」と都築。
  「体育会はね、もてんのですわ」と肇。
  「いや違うな、武道系がもてないんだ」
  「もてないというより怖いんだろうよ」
  「そりゃそうだ、俺だって援団や空手部の幹部は怖いぜ」
  「いわんや女子学生にとっては・・・」
  二人は溜息をついた。
  ここ数年の新入学生は、厳しい部を敬遠して楽しい同好会・サー
クルなどに集中する傾向にあった。おりしも平凡社から「ポパイ」
が創刊された年なのである。
  軽佻浮薄の八十年代は目と鼻の先まで来ていたのだ。
  体育会の部、ましてや武団連合などと総称される応援団・武道部
は、新入部員獲得期の四月に出遅れると、一握りの部員すら獲得す
ることはできなかったのである。
  そのため新入部員の獲得競争は熾烈を極めた。その手連手管の数
々は、今で言う霊感商法にも通じるものがあった。
  少林寺拳法部も四月当初は、大人で知的で優しい先輩が集まって
いるように「見えた」のであった。
  先輩達は勧誘の時、肇たち新入生を「君たち」と呼び、仏教用語
を駆使して少林寺拳法の素晴らしさを説き、ブルース・リーも青ざ
めるような演武を披露して新入生達を魅了した。
  部室のスケジュール表には、「短大テニス部と合同コンパ」とか、
「**女子短大少林寺拳法部指導」などといった美味しそうな予定
がぎっしりとならんでいた。
  それが入部後は「てめえら」と呼ばれ、「理屈より根性」と言わ
れ、スケジュール表は空白になった。今では「短大テニス部との合
コン」より「一九九九年に空から大魔王が降臨する」方が現実味が
感じられるくらいだ。
  ちなみに今年の新入部員の入部動機はざっと以下のようなもので
ある。
  肇は勧誘に際しての華麗な演武に魅せられて入部、その後辞める
ことなどできないということを知り、諦めて部にいるような状態で
ある。本当はマンガ研究会か映画研究会に入りたかったのだが、当
時の愛知大学にはまだそんなサークルは存在しなかったのだ。高校
時代は天文部であった。
  都築は熱狂的なカンフー映画マニアである。ただ、入部した後、
「見ること」と実際に修行することとはまったくの別物であること
を知り落胆した。練習は、苦しい、痛い、恐ろしいといった要素に
満ちており、映画やドラマに不可欠のそういった要素も、普通の人
間なら日常生活ではできれば遠ざけておきたいものである。
  三浦は、少林寺拳法短大部の美人部員に勧誘を受け、その場で入
部を決意した。入部後、短大部とは練習もコンパも合宿もまったく
別であることを知り愕然としている。体操部出身。
  中原は、辺境の地・鳥取県で空手の通信教育を受けていたという
根っからの格闘技マニア。格闘技の情報に対する飢餓感が冷静な判
断力を雲らせてしまったのだ。大学にはちゃんと格闘技マニアの同
好会も存在したのであった。野球部出身。
  高御堂は剣道二段という唯一の武道経験者である。ドラマ「俺は
男だ」で森田健作に影響されて中学時代に剣道を始め、「燃えよド
ラゴン」のブルース・リーに影響されて大学では拳法を始めるのだ。
げに恐ろしきはマスコミの影響力である。
  市川は、都築と同じ文学部であったが「俺一人がつらい思いをす
るのは嫌だ」というまことに身勝手な理由で都築によって勧誘され
た。都築はまさに屠殺場へ仲間を誘う黒い羊である。
  深尾は先に仮入部した応援団から退団するために、やむおえず少
林寺拳法部へ入ったといういきさつがあった。少林寺だから応援団
も文句が言えないわけだ。もし正式入部の先が少林寺拳法でなけれ
ば今ごろ深尾は・・・、おお恐ろしい。
  学校もスポーツ歴もばらばらの七人だが、共通することが一点だ
けあった。彼ら全員が映画「燃えよドラゴン」を四回以上見ていた
のである。ちなみに最高は都築の十四回。まだビデオデッキの普及
する前の話だから、彼のこの記録はすべて劇場に通うことによって
達成されたものだ。
  思えば、このブルース・リーの映画によって、何人の少年たちが
自分の人生を踏み誤ったことであろうか。なんとも罪作りな映画で
ある。

  豊橋駅へと向かう都築と別れて、肇は狭い路地の続く町へと入っ
ていった。
  軽自動車がかろうじて通れる一方通行の道の両側に木造の家がび
っしりと並び、玄関先から植木や盆栽がはみ出している。夏には浴
衣のじいさんやアッパッパーの婆さんがはみ出してきてスイカを食
べたりうちわで身体をあおっていたりする、いわゆる下町である。
  少年時代をコンクリートの公団住宅で過ごし、思春期を建て売り
の分譲住宅で過ごした肇には「異国情緒」を感じる町であった。ま
さに国鉄(まだJRではない)のCMでいうところのエキゾチック
ジャパンである。
  雑貨屋を改装したスーパーや、昔ながらの銭湯を横目に、路地を
奥まで入っていくと、少し傾きかけた古い日本家屋の前に自転車を
とめた。肇の世話になっている下宿である。
  「少し」傾いていると言ったが、それは言葉の上の形容ではなく、
文字どおり本当に傾いていた。しかも肉眼でわかる程度にだ。
  「ただいま帰りましたっ!」と大声で挨拶しながら戸を開けた。
  傾いて平行四辺形になっている入り口では、引戸を開けるのにも
全力を要したので、挨拶も自然に気合いのような大声になりがちだ
った。
  玄関から廊下をまっすぐ奥まで進むと、食事を取る八畳間があっ
た。大屋さんの家族の茶の間でもある。下宿生は夕方六時ぐらいか
ら九時までの間、随時ここで食事をするのだ。
  下宿生は、肇を含めて一年二人、二年一人、三年二人、四年一人
の六人であった。
  すでに四年の大石と三年の難波が食事を済ませていた。大屋の息
子の小学生とテレビを見ながら、食後の一服を楽しんでいる。
  彼らは大半の単位を取り終えており、今はアルバイトに精を出し
ていた。
  大石は夜間部から昼間部へ転じた今どき珍しい苦学生、難波は下
宿より山にいるときの方が長い、いわゆる「山屋」であった。
  「ただいま帰りました」
  そう言ってちゃぶ台につくと、下宿のおばさんが御飯をよそって
くれた。おばさんとはいえ、若いころは伊東ゆかりに似ていたろう
と思われるなかなかの美人。おまけに学生たちには優しくて、食事
から洗濯まで世話をしてくれる、文字どおりの母親代わりであった。
  「栗山君、少し痩せたんじゃない」とおばさん。
  「いやあ、絞まったと言って下さい」と、肇は箸を休めずに答え
たが、実に嬉しそうである。浪人中にだいぶ肥っていたからだ。
  「そうだよな、そんなに食っているんだから」と、難波が笑った。
  お好み焼きを食べた後でも、御飯はあっというまに二杯目になっ
ていた。
  「すっかり体育会だな」と大石が呆れたように言った。
  これだけ食べていても、入学以来三キロ以上体重が落ちていた。
それだけ汗を流していたのだ。
  食事を終えると、肇は二階へ向かう階段を這い上がった。階段は
はしごのように急なもので、練習後の張り切った太股では、手の補
助なしでは登りづらかった。
  二階は、二十畳ほどの広間をベニヤで仕切って六間にしてある。
必然的に学生一人のスペースは三畳から四畳だ。ただし肇の部屋だ
けは、床の間と違い棚があり、実質は七畳の広さであった。やはり
エキゾチックジャパンな部屋だ。この部屋が空いた時、大石と難波
が移転を狙っていたのだが、その隙をついて肇が借りてしまったの
だ。
  この部屋はその広さ故、「奥の院」と呼ばれていた。奥の院には、
肇が持ってきた座り机のほかにめぼしい家具は入っていない。その
机の前に座り込むと、勢い良く後ろに寝ころんだ。それだけでもう
起き上がる気が失せてしまう。
  薯虫が脱皮するようにして寝ころんだまま学生服を脱ぐと、大き
く欠伸が出た。
  机の上には開いたテキストが置いてある。もう二週間も同じペー
ジを開いたままほこりを被っていた。その横には、同じようにほこ
りを被ったケント紙と、先の錆びたペンが転がっている。紙の上の
描きかけのマンガは墨汁が乾いてひび割れかけていた。受験の合間
ですら描き続けていたマンガだが、ここ最近は描く気力が失せてい
たのだ。
  肇は、万年床から枕を引き寄せると頭を乗せ、右手を延ばして畳
の上に落ちている薄っぺらな雑誌を取った。「ヘビーメタル」とい
う米国のコミック雑誌である。「メタルユルラン」というフランス
のコミック雑誌の米国版だった。
  カラーをふんだんに使って紙質も上等、通販の広告にはスタート
レックのグッズが揃って楽しそうだ。しかも執筆陣が豪華だった。
メビウス、アレックス・ニーニョ、エステバン・マロート、初めて
本屋で手にした時、肇は思わず息を飲んだ。
  特に気に入っていたのが、リチャード・コーベンの「DEN」だ
った。エアブラシの魔人という異名のとおり、その筆致はシュール
でありながらリアリティがあり、誰も真似のできない独自の世界を
描いていた。特に色使いが抜群。
  巻頭カラーを見ながら「やっぱりコーベンは凄い」とつぶやいた。
やがて肇はコーベンの作品を求めて「1984」とか「イーリー」
「クリーピー」といった雑誌まで買うようになるのだが、それはま
だ一年ほど先の話だ。
  こんな世界を描けれればな・・・と思いながら目を閉じた。
  うとうとと眠りかけた肇の耳に「栗山、風呂だぞ」という難波の
声が聞こえてくるが、どうしても起き上がることができなかった。
  これでまた風呂に入りそびれた。