幕 臣




役職変遷

杉浦梅潭
松本良順
中島三郎助
榎本武揚
岡部長常
 


松本良順

松本良順と長崎伝習所

 父佐藤泰然は江戸で蘭医学を学び、天保六年から九年の四年間にわたり長崎へ留学し、ニーマンのもとで学ぶ。留学当時、次男良順は四歳だった。
 留学後は江戸薬研堀にて医者を開業。
 天保十三年、堀田正睦に見込まれ佐倉藩の医師として佐倉へ移住。蘭医塾、順天堂を開く。
 良順は泰然が佐倉へ移住したあと、しばらく江戸薬研堀で姉の嫁ぎ先である、林家のもので育てられ、のち順天堂の父の元で蘭医学を学んだ。
 父泰然の親友である幕医松本良甫が跡継ぎを求めているところ、泰然は弟子の尚仲を推薦するが成らず、次男の良順が迎えられることとなった。後に尚仲は佐藤家に養子として迎え入れられ、明治後東京で順天堂を開くこととなる。
 良順が幕医を継嗣するにあたっては、彼が蘭医師であることから奥医師の多くが異を唱えたため、異例の試験を受けることとなった。にわか勉強にもかかわらず良順は難なく合格した。
 安政四年。長崎の海軍伝習所でオランダの教授による海軍伝習がはじまった頃、当時は蘭学禁制であったため、外国人による実地の学習がかなわないことを憂いていた良順は、長崎から江戸に帰ってきたばかりの目付永井尚志宅を訪れ、長崎で蘭医学を学べるよう願い出た。
 この話を聞いた永井が早速老中の堀田備中守に相談したところ、「長崎の海軍伝習生として行けばよい。長崎で伝習生が分科として何を学ぶかは当人の勝手である」という寛容な返事があった。
 しかし、このことが漢方医らに知られれば不可能になるかもしれないので、内々に秘すようにとも言われるが、忽ち知られてしまう。漢方医らは良順の長崎行きを阻もうと謀り、将軍の内命として長崎行きを取り消させようとするが、永井はその命を実行させず、良順に1日も早く江戸を発つように告げた。
 良順はこのとき結膜炎を患っていたが、指示に従いすぐに長崎に出立した。

 長崎で彼を迎えたのは、永井が江戸に発ったあと、一時的に伝習所を取り仕切り、木村喜毅が正式に伝習所の総督の任についた後、長崎奉行に就任した岡部長常だった。
 この岡部と松本良順は意気投合し、医療事業に関する様々な改革を行っている。

 医学伝習の教授は蘭医ポンペ・ファン・メーデルフォールトで、オランダ側伝習所総督であるカッティンディーケの長崎派遣にともない、医師として同行してきていた。
 ポンペの長崎での回想録によると、松本はポンペの意見を良く理解し、授業を行いやすいよう生徒の監督も含めろいろいろと助けていた。また、ポンペは、生徒としての良順を次のように述べている。
 「彼はその階級と言い家柄といい、門弟中筆頭の人物であった。その上、彼が長崎医学校退任の時は、最も技術堪能の人となっていた。数々の才能を持っている人でもあった。この才能をたゆまない熱意をもって極度に発揚したので、同職中の第一位となった」
 また、長崎奉行として海軍伝習所と関わっていた岡部に関しては、次のように述べている。
「岡部駿河守に何時も支持され。彼こそ誠の文化人で、とにかく立派な働き者の日本人、それが母国日本の発展と繁栄になることであれば、なんでも大胆にやった。日本はこの行政長官に最大の恩誼がある。沢山の話にならぬ悪弊は彼によって打破された」『長崎ことにその医学校に関する知見報告』より

 安政六年の二月、突然伝習の中止命令が下された。
 以下はその直後、前月江戸へ帰っていた勝海舟へ送った良順の手紙よりの抜粋。
 
 この度の伝習相止め候につき、小生は尚留り居り候ても然るべくやのよし。玄蕃(永井尚志)よりも好意ミブリーフ参り候よし、鎮台も殊の外嘆息の様子にて、小子一人だけでも留まり候ようにと、御本屋連名の伺書出で候よし、半信半疑、兢々まかり在り候。御序も御座候わば然るべく御一挙手の労願い奉り候。
 『勝海舟全集』剄草書房版

 当時永井は外国奉行、軍艦奉行として直接は長崎の伝習に関わっていないのですが、江戸において幕閣にたいし伝習所の便宜を図っていたと思われます。そして、松本良順のことも、大変気にかけていたことがこの手紙からわかります。
 伝習所の閉鎖命令を受け、解剖と生理の講義しか受けていないことを憂いた松本良順は、ポンペ、オランダ公使ドンケル・クルチウスに謀ったところ、ポンペは引き続き留まることになった。
 そして、良順だけでも引き続き講義が受けられるよう、クルチウスが長崎奉行に願い出たところ、奉行は井伊大老に懇請した。
 井伊大老からの返信は、長崎奉行岡部への私信として密かに送られ、その内容は意外なほどに寛大で粋なはからいといえるものでした。
 
「公使及び教師の好意黙視すべきにあらず。然れども一旦発せし公命は取り消すべからず、故に、願意は公許せず、速やかに帰府すべしと下命せん。その時奉行より再願すべし。その願書は我が筺中に蔵し何年を経るもその成業に至るまでは忘れたる如くにして問わざるべし。もし業を卒うるに至らば、さらに帰府を命ずべし。安心して修行すべし。大老の職が医生一人の処置を忘れたりとて、法において何の不可となることかあらん。留学費その他一切なお、従来の如くせよ」
 松本良順はその自伝で、「井伊は真に大老の器というべし。おしいかな、水府中納言と議かなわず、中道にして命をおとすに至」と記している。
  
 ポンペが日本に滞在した五年間に、三百名ほどが長崎で西洋医学を学びましたが、そのなかから明治後著名な医師として活躍する人物が多く現れています。佐倉順天堂の佐藤尚仲はポンペが外科医として一番優秀であると評価した人物で、良順の義理の兄にあたり、のち順天堂を東京に開きます。福井の橋本綱常は橋本左内の実弟に当たり、明治後には日本赤十字病院の草創期に活躍した人物です。
 ポンペは文久元年に帰国。翌二年松本良順も江戸へ帰り、その年奥医師に就任しました。

 良順は長崎での伝習に関し以下のように自伝で述べています。

 奉行岡部はすこぶる才識ありて信頼すべき人物なりし。
 思うに西洋医方の我が国に入りしは、永井玄蕃、岡部駿河守等与りて力ありと云うべし。

 



中島三郎助

 文政三年(1820)生まれる。
 嘉永六年(1853)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に入港したとき、浦賀奉行所与力をつとめていた三郎助は、奉行次席として、通詞堀達之助を伴って小舟に乗り、ペリーにたいし退去命令の直談判をした。この時三郎助は三十四才であった。
 ペリーは日記に「その男は小柄であるが、長い刀を帯び、顔は日に焼けて黒く、精悍な風貌の侍であった。」と記している。
 嘉永七年、浦賀で英国船をもとに帆船が造られたとき、工事主任を勤めた。
 安政二年(1855)長崎海軍伝習所の第一期伝習生として、勝海舟らと共に長崎へ赴く。このとき、三郎助は造船術を主に学ぶ。
 安政六年には江戸の軍艦操練所の教授方となり、後に頭取を務める。
 元治元年十一月、富士見宝藏番格軍艦頭取出役となる。
 慶應四年、榎本らとともに蝦夷へ脱走する。
 
 中島三郎助父子の最後はよく知られていますが、函館戦記からその最後を抜粋します。
 
 [明治二年五月]十六日暁第四時、敵、軍を潜めて、我嚮に降りし兵を嚮導として千代ヶ岡の壘[とりで](もと津軽氏の陣屋跡にして要害固からず)に殺入す。大鳥圭介及び戍兵(守兵)伝習仕官隊[瀧川充太郎]士艦隊[澁澤成一郎]陸軍隊[和田傳兵衛兵卒は昨夜已(すで)に脱走して仕官僅か数人残れり]等俄かに起って是と血戦。尤烈し。岡本新之丞、荒田幸之助、野村鑄之助、武田太郎、飯塚吉太郎等を始め斃るゝ者數人。又戍将中島三郎助永胤[歩兵頭並]は始めより敵の夜襲するを見ると雖(いえども)更に驚かず。自から霰弾を敵中へ発射し數人を殪(たお)すと雖、彼れ已(すで)に我降参の兵をして四方の壁を越へて乱入しければ、終に奮戦弾に當りて斃る。

 中島は元浦賀五十子の騎士にして性剛毅潜直の人なり。初め二月中この戍(千代ヶ丘の守)を諾してより、常に云う。爰(ここ)は我が墳墓の地なりと。意の儘(まま)に壁を築き、即今に至り数度の防戦に尽力し、又一本木進撃の時、腹に丸を蒙りしかども、痛みを忍んで病院に入らず今敵の逼(せま)るに及んで奮戦言を食まずして死す。年五十七。(五十歳の誤り)

 其のニ子、恒太郎[年二十二]房次郎[年十九]父の死するを見て大に怒り刀を揮(ふる)って敵中に躍り入り、敵数人を斬り相互に刺して死し、朝比奈三郎、近藤房吉も福西國太郎等の少年[皆中島部下]又乱軍に斬り死にす。

 十八日、榎本軍は降伏した。

 霊山歴史館紀要、第七号によると、中島三郎助は天保五年天然理心流師範桑原永助に入門。目録を受けている。
 中島三郎助父子は壮絶な戦死を遂げたが、当時清水に残されていた妻は三郎助の子を産んでいる。その遺児、与曽八は後、海軍機関中将となり海軍の近代化につくしたという。

 補足  以下の内容はペリー艦隊大航海記(大江志乃夫 著  立風書房)を参考にしました。
 
 嘉永七年、下田で英国線を模した帆船「鳳凰丸」を建造されていたとき、三郎助は造船に携わっていた。
 とのとき、桂小五郎が造船技術を三郎助の元で学びたいと申し込んできた。さっそく三郎助は快く引き受け、納屋に床を張り、桂小五郎を迎え入れる。当時長州藩の東条英庵浦賀で蘭学兵学を学んでいて、そのつてで中島に紹介されたのだった。
 しかし、安政二年に長崎で海軍伝習所が開設されることとなり、中島三郎助は派遣されることとなった。桂小五郎は中島に同行することを希望したが、藩命によりそのまま下田に残り、スクーナー号の建設に携わる。そしてよく知られているようにこの後、齋藤弥九郎のもとで剣術を学び、のちに塾頭となり、多くの藩士と交流をもち、やがて長州藩の外交を担っていくこととなった。
 
 中島三郎助には遺児、一男一女があった。
 男子、与曾八は榎本、大鳥らが養育に責任を持ち、成長して、海軍で船の機関技術に貢献し、海軍機関中将まで進む。
 女子は桂小五郎(木戸孝允)が引き取り養育したという。
 「中島は傍にあれば気分の爽快になるように覚ゆる人物なりし。」木戸孝允談
 
 中島三郎助の人柄とエピソード
 「中島という人は誠に強い人でありましたが、始終冗談ばかり言って人を笑わせる人でございました」
 「中島三郎助は大砲に弾薬を五発分も詰め込み、そのうちに敵を引き寄せておいてこれを暴発せしめ鏖殺にいたし、自分も共に爆死する覚悟で゛砲身に打ち跨り幾度か点火してもどうした訳かそれが出来損ない遂に暴発しなかったためにとうとう斬り死にをいたしました」
 高松凌雲談
 
 三郎助の狂歌
 君がため我もえぞ地に行くぞかし
 にしんといわば恨なりけり
 
 辞世の句
 ほととぎす 我も血を吐く思ひ哉

 補足その二 以下の内容は 「浦賀与力 中島三郎助の生涯」かなしん出版を参考にしました

 中島三郎助と吉田松陰
 桂小五郎が中島三郎助の元で造船を学ぶこととなった所以は、吉田松陰から勧められたことによるもので、松蔭は嘉永七年の一月、宮部鼎蔵とともに三郎助に会っていたのでした。このとき、吉田松蔭は三郎助の父清司にもあっています。
 中島三郎助の父、清司は与力として、弘化二年に浦賀に入港してきた米マンハッタン号との交渉にあたった経験があり、親子二代にわたり、米国船との交渉を経験しています。
 松蔭は中島親子にから、造船、海軍に関する考えを聞き、高く評価し、信頼したのでした。
 
 余談ですが、嘉永七年の一月といえば、吉田松陰が黒船に密航しようと企てたのが三月ですから直前の出来事となります。最近、実はペリーを切り伏せる目的であったという説も出ましたが、前年三郎助はペリーと交渉にあたった日本人役人の一人であり、黒船に実際に乗艦し貴重な経験をしている彼から聞いた話がどれほど貴重な物であったか、また、その二ヶ月後に実行に移した強い動機となったのかもしれないと考えてしまいます。また、松蔭の渡航事件を三郎助はどう思ったのでしょうか。

 吉田松蔭はのち、三郎助と勝海舟の確執を心配した言葉を桂小五郎への手紙に書いています。「勝も三郎助も得難い才能の持ち主であるが、お互いが犬のようにかみつきあう状態では天下国家にとって残念なことである。二人が本当に国を憂えているのなら相互に協力して、国威を張り夷狄わずらいをなくしてほしい」
 中島と勝は、長崎の海軍伝習所で同時期に学んでいるのですが、当初から確執があったようです。
 松蔭が勝海舟を知っていたということは意外に感じますが、ともに佐久間象山の弟子であり、二人が江戸で出会っていたということは、当然考えられます。しかし、二人に関する逸話が聞かれないのは残念なことです。もしかすれば、実際に面識は無かったとしても、師の佐久間象山から話を聞かされていたため、人物はよく知っていたということでしょうか。
 

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榎本武揚

  榎本武揚の父箱田良助は、伊能忠敬の内弟子として随伴し、全国を測量し地図を完成させた一人であった。文政元年に幕臣榎本家の株を買い、榎本家へ養子として入る。
 榎本武揚は天保七年八月二十五日榎本円兵衛の次男として江戸三味線堀に生まれた。
 昌平校に入学後は熱心に学問に励んだといわれるが、試験の結果が振るわず幕府の役人にはなれなかった。
 ちょうどこのころ、中浜万次郎の元で英語を学び、海外への関心が強まり学問の志向が変わっていったといわれる。
 嘉永五年、箱舘奉行、堀織部正の小姓として箱舘へ渡り、樺太を探検する。
 
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄余談になりますが、この堀の箱舘奉行時代に五稜郭の建設が計画されました。堀に従属し箱舘に滞在した榎本が後年五稜郭を訪れたとき、胸に去来した思いはどんなものだったのでしょうか。_____
 
 安政二年頃江戸に戻った榎本は長崎に海軍伝習所が作られ、生徒を募集している事を知り願い出るが、昌平黌での成績が良くなかったため選抜されなかった。しかし、大目付伊沢美作守に何度も頼み込み、ついに聴講生として参加することが許された。
 伝習所では多くの知己を得る。永井尚志、勝海舟、木村介舟、荒木郁之助、松本良順、松岡盤吉、甲賀源吾、赤松大次郎・・・など。
 榎本が長崎に滞在している間、江戸では安政の大獄が起こる。
 その後、長崎海軍伝習所は経費がかかりすぎることや江戸から遠いことなどを理由に閉鎖することとなる。それにより榎本ら伝習生は江戸に帰った。榎本は成績が大変優秀であったことから、築地の海軍操練所教授に抜擢され、旗本の次男であったが、このときようやく幕府の役職につくことができた。 
 文久二年、幕府留学生は、当初計画のアメリカからオランダへ変更し出航する。榎本も乗船。 この洋行には裏話があり、榎本の父は洋行を許さなかったたが、父が死去した後であったため、実現したという。
 オランダまでの航海は遭難し船を乗り換えるなど苦難の連続だった。奇跡的にオランダに到着。
 榎本はオランダの留学中国際法、化学、蒸気機関など多くを学び、開陽丸に乗り慶應三年三月二十六日横浜に帰航した。
 その後、開陽丸船将、軍艦頭並などをつとめ、慶應四年一月には海軍副総裁となる。

_____ 榎本は帰国したが、幕府の瓦解は迫っていました。幕臣の次男のため部屋済みの身でありながら、幕府の海軍伝習所と海外留学により才能を開化させ、役職につくことも果たした榎本武揚が、幕府瓦解を受け入れ、勝海舟のように恭順をしめしながらあらたな生き方を探すことを考えなかったのは当然かもしれません。
_____

 大政奉還後、幕臣主導型の新しい新体制を模索していこうとしていたなか、薩摩は朝廷に働きかけ、王政復古を宣言されることとなった。これにより徳川家は天領地も返納しなくてはならなくなり、幕臣の収入が途絶えてしまう事態となった。これ以降、幕臣の間では騒然とした状況がますます募っていく。
 当時、幕府内部が混乱していたことを物語るエピソードがある。二条城の警衛をめぐり新選組の近藤勇と水戸藩の長谷川が話しあった時、話をまったく取り合わない長谷川にたいし、榎本対馬が近藤に代わり説得したが結局決裂したという。
 この事件は、大政奉還後の混乱した時期、新選組は幕府閣老から、水戸は将軍慶喜からそれぞれ二条城の警備を任され、互いが主張して譲らなかったため、新選組と水戸の間が険悪な状況となったもので、その仲裁に入ったのが永井だった。この件について慶喜に直接意見を糺すため永井は大坂へ向かうがその時新選組も同道した。
 
 鳥羽伏見の戦いの当時、榎本が家族へ宛た手紙では、三日で片づけることができると書いているほど勝利を疑っていなかったが、結果は惨敗であった。この戦いで、旧幕派は朝敵の汚名まで被ってしまうこととなる。
 
 一月にはいり徳川慶喜が密かに大坂城から江戸に帰ったとき、乗艦した船は開陽丸であった。その艦長は榎本武揚であったが、彼は乗艦していなかった。その後大坂城では慶喜の脱走がわかり、大混乱となった中、榎本は城の古金や書類などを富士山艦に積んだという。
 その後、無事富士山艦で江戸へ向かった。この船には近藤勇をはじめとした新選組も多数乗艦していた。
 
 江戸帰還後の徳川家の新体制の中で、唯一主戦派の榎本が海軍副総裁となったことはのちの脱走につながった。

 榎本は四月に政府軍への軍艦引渡を拒否し、一部は残すことを約束され、江戸湾に戻ってくる。蟠竜、開陽、回天、千代田形の四隻が手元に残った。
 このころ、榎本は勝に箱舘行きの事を相談している。しかし、徳川家の最終的な処分が決まっていない状況であるため、絶対実行しないよう勝から止められたと考えられる。
 八月にはいり、徳川家と旧幕臣の多くが駿府に移ったことや奥羽の戦況の変化もあり、フランス軍事教官ブリュネーらを乗せ仙台へ向かった。勝海舟は予想していた事ながら、受けた衝撃は大きく、早速大久保に対し詫び状を送っている。
 寄港した当時、すでに仙台藩は恭順しその他の藩も敗色が強まっていた。そこで榎本軍は多くの旧幕臣、抗戦派の兵をあらたに乗艦させ、箱舘へ向かった。
 
 蝦夷に上陸後は松前城を落とし、共和国として外国と交渉にあたることになる。箱舘に寄港している諸外国は中立の立場をとっていたため、この政府を承認していた。
 新政府が何故脱走軍をすぐに追撃しなかったのかといえば、冬の蝦夷で闘うことは困難であると判断したことと、当時榎本らが所有していた開陽に匹敵する軍艦を所持していなかったため、甲鉄艦を購入しようとしていたからという。しかし、開陽艦は江差沖で座礁し、榎本はオランダからの帰航以来ずっと乗艦しつづけたこの船を失ってしまった。この痛手から、翌年三月、新政府軍の甲鉄艦を奪うため宮古湾へ乗り込むが、天候が悪く計画通り奇襲を果たしたのは回天のみであった。しかし、甲賀をはじめ多くの戦死者を出し、奪還は成らなかった。

 四月にはいり、新政府軍は本格的に榎本軍を追撃しはじめる。まず江差から松前に攻め、木古内へと追い込んでいった。途中榎本軍にはあらたに脱走兵が加わったこともあり、一時的に新政府側は苦境に立ったが、矢不来は新政府軍の軍艦からの砲撃により後退、それにより二股口で好戦していた土方隊も退くこととなった。
 五月二日、フランス軍事顧問、ブリュネらが戦線を離脱。箱舘沖に停泊していた自国船によりフランスへ帰国した。
 翌三日には弁天台場の砲台に釘が打ち込まれ、打撃を受ける。
 八日、榎本は彰義隊、伝習隊、見国隊らを率い大川へ出陣するが、大敗する。
 十日にはじまった新政府軍の総攻撃により、榎本軍は残った二隻の軍艦を失い、弁天台場が孤立して攻撃を受けることになる。その状況のなかで翌日土方歳三は戦死した。
 十ニ日、参謀の黒田清隆は使者を箱舘病院へ送り、恭順をすすめる。
 十三日に箱舘病院院長の高松凌雲と小野権之丞の連盟で、五稜郭へ恭順を勧告書を送る。この時の返書で榎本は、如何様の厳罰も受けいれるし、また同盟の者一同も共に枕を同じくして死ぬ覚悟であると書いてる。
 またその追伸では自分がオランダ留学中苦心して学んだ、海上の国際法について書かれた海律全書が兵火により失うのが惜しまれるのでと黒田に託すように依頼している。
 十五日、孤立し食料、弾薬が尽いていた弁天台場では、永井、松岡らが恭順を受けいれる決定を出す。
 後年榎本は、永井に台場を守らせたが、土方歳三に任せればよかったと語ったという。
 十六日に黒田は再度使者を五稜郭に送り、五稜郭への戦闘開始時間を問い合わせたという。そのとき、弾薬や兵量が不足していれば送っても良いと申し出た。

___しかし、こんな申し出はあまりに不自然ではないかと思うのですが・・・・。海律全書を受け取った黒田が感激したからとも言われますが、この榎本軍追討の参謀になったときからすでに黒田は榎本らを殺さないよう決めていたといいます。なぜかというと、すでに黒田は以前榎本と出会っており、そのときから榎本に心酔していたからだといいます。榎本武揚は数々のエピソードなどから想像するに、情緒的で、人の情に通じ、衆望を集めるに足る大変魅力的な人物だったようです。_______

 十六日、海律の御礼にと黒田から送られた酒樽を開き、一同に酒をふるまった後、榎本は切腹をはたそうとする。しかし、小姓の大塚らに止められる。そして榎本は自決をあきらめ、新政府側の裁きを受けることを決意した。
 _____________「函館戦史」では、辨天台場の恭順を知った榎本は、憤然として自刃したと書かれている。_____

 十八日、榎本軍降伏。

 榎本軍幹部は江戸へ送られたあと、二年以上牢獄に入る。この間、榎本は黒田の計らいもあり、獄中で研究をしていたという。
 この当時から、遠縁にあたる福沢諭吉が榎本とその家族のために奔走した。福沢の真意は、縁続きであったからではなく榎本の反骨精神を気に入ったからだった。
 その頃黒田は、福沢に「海律」の本訳を依頼した。それにたいし、福沢は四ページほどを翻訳し、この本は重要であり、この本を訳せるのは榎本しかいないし、それが実現しないのは大変残念なことである、と申し出た。
 
 しかし、廟堂での会議は長州閥が極刑を主張して決裂、西郷に意見を聞くことになる。西郷は徳川の恩誼を忘れない情と義のある人物をいつまでも牢に入れておくのは政府の失態である。一日も早く優遇し、重用すれば、必ず国の為に尽くす人間になる、一日も早く釈放せよ。と答えた。これにより、榎本の赦免が決定した。
 
 釈放後、黒田のもとで開拓史四等として出仕。北海道に赴き、石炭層を発見するなど開発開拓に尽力する。
 あまり知られてはいないが、榎本は化学、鉱物学の専門知識を備えていた。
 
 明治七年、特命全権公使としてロシア公使館に勤務、千島樺太交換条約を締結。その後榎本は長く明治政府内にあり、数々の大臣を歴任する。
 後、福沢諭吉に「痩せ我慢の説」で批判されることになるが、その地位に反し榎本は財産を築くことはなかったという。後年、頼ってきたかつての部下にたいし、大金をきまえよく援助し、時には保証人となり、莫大な借財を肩代わりすることもたびたびであったという。

  榎本武揚は明治41年10月26日亡くなる。享年73才だった。

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 数多くの専門知識と研究心、そして数カ国語を理解する語学力を持っていた榎本にとって、明治政府で果たした職務の多くは天職でもあったのかもしれません。残されたエピソードから、榎本武揚は情に厚く、知的で外面内面ともに魅力的な人物だったと思われます。また脱走時の書簡や上奏文などを読むと激しい一面もうかがえます。
 また、多くの著述物があり、その中には学術的に大変評価されているものもあるのですが、生前これらのものを発表することはなかったそうです。これが、榎本武揚といえば旧幕府軍を脱走させた首謀者というイメージしかない原因であるといいます。なぜ発表されなかったかといえば、榎本自身、生前その地位とは逆に、自分自身の功績を公にすることを好まなかったからでした。
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「榎本武揚」加茂儀一著 中公文庫 を主として参考にしました。


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岡部長常
 


岡部駿河守長常の略歴

文政八年生まれる(1825〜1867)
生国武蔵。実父は太田運八
安政二年九月より長崎海軍伝習所の目付として長崎に赴任。
永井が伝習所を去ったあと、後身の木村介舟が伝習所の総責任者に就任するまでの間代わりに務めた。
安政四年から文久元年十一月まで長崎奉行を勤める。就任中日蘭通商条約の締結交渉にあたる。
また、製鉄所建設推進、踏み絵の廃止、蘭医ポンペ、松本良順らの解剖、病院の設立など医療にも便宜を図る。
長崎在任中は多大の功績があった。
文久元年十一月外国奉行に就任。
文久二年六月に大目付に就任。
松平春嶽の政治総裁職就任に尽力した。
文久三年十二月作事奉行となり元治元年十一月神奈川奉行、翌十二月鎗奉行、慶應元年閏五月軍艦奉行、七月清水小普請組支配。
翌八月辞す。
慶應二年十二月死去。享年四十二才


 雑誌「旧幕府」の小伝には
目付として長崎に在りしとき、海軍の最も急務なるを知り、伝習の事に対して頗る力を盡所ありしといへり。
 とあります。この長崎滞在中、伝習所の総監督を務めていた永井岩之丞(尚志)とともに協力して海軍の伝習に尽力したのでした。永井が長崎を去った後一時的に監督をつとめ木村介舟が長崎に着き引き継いだあとは江戸に帰るものの、再び長崎奉行として赴任。製鉄所建設推進、踏み絵の廃止、蘭医ポンペ、松本良順らの解剖、病院の設立など医療にも便宜を図る等、多くの業績を残しました。
 蘭医ポンペは岡部を「日本人中における文明人」と評したといいます。
 
 岡部は文久二年六月に大目付に就任し、その翌月、松平春嶽が政治総裁となっていますが、そのいきさつに以下のようなエピソードがあります。
 春嶽の謀臣であった中根雪江が岡部に面会し、家門筆頭である福井藩主が他大名と同格の大老に就任するというのは受けがたいと申し出たところ、その日閣老の会議により、政治総裁職への就任を要請され、春嶽はこれを受けることとなったのでした。
 
 このような背景もあり、文久二年の七月頃から春嶽の日記にも度々登場することとなったのですが、時を同じくして、安政の大獄で蟄居していた永井の名も再び登場するようになります。
 内容は江戸の薩摩潘邸焼き討ち事件が内部の犯行であるといった情報を春嶽に進言しているんですが、この直後の八月に永井は京都町奉行に就任しています。
 
 この薩摩藩の焼き討ち事件の顛末は、永井にとって復帰のきっかけとなったと考えられる重要な事件です。
 この顛末は、島津久光が長州藩が航海遠略策によって藩力を強めつつあることに危機感を持ち、江戸へ行く口実を作るため堀小太郎に密命を出し、堀は文久元年十二月に実行し、久光は希望通り江戸に参勤することができたという事件でした。
 
 史料から抜粋します。


以下御政治総裁録より

七月二十七日
岡部駿河守江逢ひ、嶋津淡路守内願一條承候處、此義に就ては、早々譯合有之、委細之噺有之、此段は老中へも不申聞候由申候故、内々刑部卿殿へ御逢、荒増申上置之。
七月二十八日
岡部駿河守へ逢ひ、昨日之一件咄之。尚又今夕永井介堂屋敷へ罷出候様申通、不快ニ付腹潟相願早退出四ツ時壹寸廻り。
今夜永井介堂罷出、薩摩之一條、堀小太郎奸計一條等巨細咄承之候。別紙ニあり。


以下再夢記事より

七月二十八日
夜に入り此頃より被相願し永井介堂殿罷出御逢有之處薩州堀小太郎悪事一件申上

____去る十九日被召出て、御雇被仰付たり先年御懇意なりし御因みを以て出身以来御使等を被遣たり。此度薩州の敕使に倶して東下し暴威を振い幕府に抵抗するを慨嘆の折柄謀主たる小太郎か悪事露顕之次第密訴の者有之ニより幸ひに元兇を挫ひて勢焔を撲滅せんとの忠憤に出たるなり。


以下逸事史補より

幕府老中始め、薩摩を悪む□最甚し。三郎(島津久光)を悪むも亦甚し。三郎(島津久光)従者の内、堀小太郎を芟除せん事を謀る。島津三郎随従の内何某といへる者あり、幕史に懇意の者ありて、頻りに小太郎を取除ける事を周旋せり。幕議決て大目付何某を薩邸に遣はして、三郎へ此芟除ノ事件を談す。三郎承諾して小太郎を免す。幕史一同喜悦す。


事件の張本人である三郎(島津久光)が、小太郎の仕業とし免ずることを受け入れた理由は、幕府の機嫌を損ねないためだったのでしょうか。
また、幕府側にとっても当時朝廷の勅使大原を伴い、幕府に難題を持ち出す久光は疎ましい存在であり、しかし久光を退けることができないため、せめて牽制しようとした苦肉の策だったのかもしれません。
そして皮肉な事に、この直後の八月、京へ上る途上久光一行は生麦事件を起こします。


 御政治総裁録によると、七月二十七日に春嶽は島津淡路守の内願について岡部から何らかの結果を聞くはずが、訳が有り引き延ばされ、その翌日岡部から永井より話があると聞かされ、永井に罷り出るように伝え、その夜春嶽の元を訪れた永井から堀小太郎の一件について詳細を聞かされています。
 
 が逸事史補に書かれている、久光に随従していた何某と、その懇意であった幕吏とはいったい誰と誰だったのでしょうか。
 幕吏が永井でなかったとしたら、岡部が永井にお膳立てをたてたとも考えられます。
 
 この一件は久光を疎んじていた幕府閣老らにとって快哉する出来事だったようです。
 そしてこの直後八月七日に永井は政局に復帰し京都町奉行に任命されています。
 また十日には、幕府首脳の評議により、永井は會津藩主松平容保の京都守護職就任の説得のため會津藩重役との会談を命令されています。
 その夜、永井は茶屋で会津の重臣らとの三者会談の上、未決であった三条、諸浪士の件、御上洛の件、所司代の件を決定させました。

 永井がどのような説得をしたのかは不明ですが、今後永井も京の政局に当たることになるため、會津藩を補佐する事も内談に含まれていたのではないかと想像するのですが・・・。

 岡部は文久二年から三年にかけ、幕府政治の中心で活躍していくのですが、三年の七月、病気を理由に大目付を辞任します。
 以降は作事奉行、神奈川奉行などをつとめ、慶應一年八月病気により小普請組支配を辞任し、翌年の十二月に病気で亡くなりました。享年四十二歳でした。
 
 

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