1999年3月下旬のコーカイ日誌



  ●転ばない自転車練習。 (1999/3/31)
 春休みを利用して5才の娘が自転車に乗る練習をしました。以前息子も5才の時に乗れるようになったので(春ではなく夏休みでしたが)、娘もけしかけてみたら「やってみる」と鼻を膨らませて意気込むので、早速補助輪を外して練習です。

 ところで誰でも覚えがあると思うのですが、自転車の練習というと、大抵父親が後ろから支えていて「手を放しちゃダメだよ」「大丈夫、ちゃんと支えているから」なんて言いながら、実際には適当なところで手を放して一人で走らせる、というのが定番だと思います。それで何回か転んで膝や肘に擦り傷を作って乗れるようになるものでした。4年前、息子の自転車の練習の時にも同じようなことをして、彼は3回ほど転びましたが、それで乗れるようになりました。

 しかし今回はちょっとやり方を変えました。最初はペダルを漕がずに、サドルに座ったら両足で地面を蹴って進むことを繰り返しやらせます。足で蹴りながらとにかく二輪で走るバランスを取る感覚を覚えさせるのです。両足とも地面に着いていますから、転ぶことはないので怖くもありませんし、一人でずっと練習できますから、後ろから走る父親の息が上がることもありません。止まるときはブレーキをかけながら足をつく、ということも自然に身に付きます。

 20〜30分もこれをやっていると、すっかり二輪でバランスを取ることを覚えますから、次にそこからペダルを踏んで漕ぎながら走る練習をします。最初こそ少し進んでは足をついてしまいますが、倒れそうになったらブレーキ、そして足をつけば大丈夫ということを知っていますから、それほど怖がらずに練習ができます。この方法で娘は一度も転ぶことなく小一時間で自転車に乗れるようになりました。

 ちょっとしたコツさえ覚えられれば簡単に上達することがあります。優秀なコーチというのは、そのコツの伝授の仕方が的確なんでしょう。自転車は転んで覚えるもんだ、というのは、もはや古い根性論に過ぎません。でも似たような根性論が相変わらずいろいろな分野、場面で幅を利かせているのが現実。例えばテニスだってどんどん理論は新しくなっているのに、自分たちが学んだやり方をそのまま若い人に押しつけている場合が結構あります。勉強不足は自分だけではなく周りにまで不幸を及ぼしますからね。体で覚えろ、と言っても、それに至る理屈がバックにないと説得力がない時代になりました。 <
●ジェネレーション・ギャップは何才差か。 (1999/3/30)
 最近会社の若い連中、またサークルの若い連中と話をしていると、なんとなく(じゃないな、はっきりと)世代の差があるなぁ、と感じることがあります。だいたい相手は20代前半。25才くらいが境目で、それ以上の年齢だとあまりギャップは感じません。

 学生時代は1学年上または下の連中とは先輩後輩とは言え仲良く遊べたものでしたが、2年差があるともう全然違うという気がしたものです。社会に出るとその幅がぐっと広がって、だいたい4〜5年くらい上下までは結構友達感覚で付き合えるという感じでした。でもさすがに10年以上違う先輩に対しては、ちょっと畏れ多いというか、よほど気が合う人でない限りは敬して遠ざけてしまいがちでした。

 そして気がつけば僕ももう30代後半。いつの間にか若い頃自分が敬遠していた先輩たちの年齢になっていました。そして今までは遠慮なく後輩と付き合えた気がしていたのに、これまた若い頃に自分がしていたように、何となく20代前半の連中に他人行儀にされて(そりゃ他人なんですけど)寂しい思いをする時があります。一緒にいて楽なのは、やはり同世代だよなぁ、なんてちょっと弱気になったりして、結構情けないです。

 干支ひとまわりで12年。よく昔の人は考えたものだと思います。この干支がひとまわりするくらいの年齢差が、仲良く付き合える限界だという感じがしますね。僕の場合なら現在26才〜50才くらい。その年齢内の人となら、結構気楽に話ができますが、そこから外れると個人的に特に気が合うという人を除けば、やはり何となく壁があります。こんなこと言っていると、なかなか女子大生とはお友達になれないんでダメなんですけどね。
●好きだから上手になりたい。 (1999/3/29)
 とある若手サッカー選手のインタビューで「サッカーが好きだから、もっと上手になりたいんです」という言葉がありました。インタビューした人間は特に変わったことを言ったとは思わなかったのでしょう、そのまま記事中ではあっさりと通り過ぎていました。しかし、僕はこれは昔から諺にある「好きこそものの上手なれ」と似ていて、実はちょっと違うんじゃないか、と思っています。

 この諺は好きな道なら熱中できるから苦もなく自然に上達していく、という意味だと思いますが、このサッカー選手の言葉は少しニュアンスが違います。好きなだけでは本当は上達しない、もっとサッカーを好きになるため、楽しむためには努力をして上達したい、という意味です。

 世の中にはどんな道であれ、好きなだけ、楽しむだけで、それ以上の努力はしたくない、という人がたくさんいます。そういう人のために「下手の横好き」という諺まで用意されています。それはそれで楽しんでいるのだから横からとやかく口を出すべきことではないのかも知れません。実際、そういう人を見ていると微笑ましいこともしばしばです。ただ本当に奥深く楽しみたいのなら、やはり入り口からちょっと入ったあたりでゴチャゴチャやっているよりも、上達してもっと高いところにまで登った方がいいだろうと思います。このサッカー選手も若いけれどもそれがわかっているからこそ、冒頭のような言葉になったのでしょう。

 昨日書いた、ちょこちょこと軽く入り口だけの趣味を楽しんでいるだけの人には、その奥深い楽しみや喜びがわからないことでしょう。囓っただけでわかったつもりになってモノを言うと、底の浅さが露呈します。やるなら、とことん。中途半端はしたくない。うーん、ちょっと凝り性の自分を正当化したくて言ってるところもありますけどね。
趣味人よりも道楽者。 (1999/3/28)
 例えばトレッキングなんて言って春秋の気候の良い時に、そのあたりの丘をポヨポヨ歩いている人は趣味。仕事も辞めて全財産はたいてヒマラヤを目指すような後先見ない人が道楽。流行りに乗って庭先でお洒落にガーデニングを楽しむような人は趣味。一日たりともほっておけないからと、どこにも出かけずに精魂込めて毎日盆栽の手入れをして、農林水産大臣賞を取るような人が道楽。つまり普通の生活の範囲内で楽しめるように、ほどほどにやるのが趣味で、仕事も家庭も時には財産も生命も犠牲にしても良いくらいのつもりで、全てをなげうって打ち込むのが道楽という定義だと僕は思っています。

 で、どうも僕は趣味の人よりも道楽の人の方が好きなようです。これは自分が道楽の人だからと言うわけではなく、どちらかというとほどほどにしておこう、と思ってしまうタイプなので、逆に徹底的に入れ込んでしまうような人に憧れるのかも知れません。「そこまでやるか」「大丈夫なの」と思うくらいの人の話というのは、聞いていてもエンターテイメントです。それが人に誇れるような類のものではなく、単なる女好きだとしても、その傾倒ぶりだけでも十分に話のネタになります。それにほどほどの人と違って、やはりのめり込んでいるだけに滅多に知り得ない深い話も聞くことができますしね。

 ところが残念なことに最近「趣味人」はいても「道楽者」がなかなかいないんです。これも景気が悪いせいか、それとも世の中の人はみんなスマートに生きようとしているのかわかりませんが、少々寂しいなと思っています。血も流さずにほどほどにやってる趣味なんて、そんな生ぬるいこと言ってちゃ人生楽しくないでしょ、って人には言う自分は無責任な傍観者に過ぎないんですけどね。
●軍拡的コート取り戦争。 (1999/3/27)
 いつもテニスをしている公営コートは往復ハガキで申し込んで抽選です。以前はハガキを3〜4枚出すと1枚当たるくらいの確率でしたが、最近はどうも倍率が高くなったようで、今回など100枚出して16枚当選。16%の当選率と言うことは、6枚強で1枚しか当たらないということです。

 最近突如としてテニスブームが訪れたわけでもないのに、どうしてこんなことになってしまったのか?どこかよそのサークルがコートを独占しようとでもしているのか?うーん、よくわかんないなぁ、とにかく次回はもっとハガキを余計に出さなきゃな、なんて思っていて閃きました。実は原因は僕たち自身にあったのです。

 つまり昨年はじめから我々のサークルは人数が増えたので、コートの面数を多く確保しようとハガキを多めに出すようになりました。もちろん増やしたのですから、それで当たる枚数も増えました。ところが昨年後半から最初に書いたように徐々に当たらなくなってきたのです。恐らくそれは僕たちが多くコートを取ってしまい、同じ時間帯に活動している他のサークルが外れるようになったからです。仕方なく他サークルもハガキをたくさん出すようになります。負けじと僕たちもさらに増やす、向こうも増やす。そうやって限られた面数しかないコートを取り合うために、競争が激化していったのではないかと気づいたのです。

 相手がたくさん出すからこちらも出す、これを繰り返していると際限がありません。冷戦時に米ソが軍拡競争を繰り広げたのと同じようなものです。解決するには米ソ首脳会談のごとく、トップ同士が話し合うしかないと思いますが、そうは言ってもお互い普段交流があるわけではありません。単に毎週来てるなぁ、なんて思っているだけです。それがいきなりコート確保のための談合を始めるのは難しいでしょう。しかもレギュラーで活動しているサークルは僕たち以外に2つあるのです。お互い知らない3サークルで談合するのは、かなり高度な調整能力が求められます。僕にできるのは「談合三兄弟」というギャグくらいですかね。
●センバツが開幕したけれど。 (1999/3/26)
 春の甲子園、選抜高校野球が始まりました。去年の横浜高校のようなダントツの本命がいないぶん、今年は混戦が予想されています。一応優勝候補にはPL学園、明徳義塾、東邦などの名門校と、昨秋の神宮野球大会で優勝した日南学園あたりが挙げられているようですが、なにせ高校生のやることですし、どこでどう転ぶかもわかりません。思いもよらないような高校が勢いに乗って勝ち進むのを見るのも甲子園の楽しさ。まだ優勝旗を持って帰ったことがないような地域の高校が頑張ったりするのを期待したいですね。

 しかし、僕が楽しみにしている割には、最近の若者は高校野球に全然興味がなさそうでかえって驚いてしまうくらいです。それも高校野球だではなく、野球そのものに興味がないようです。ある調査によると、プロ野球中継の視聴者層と「水戸黄門」の視聴者層はかなりかぶるとか。つまり野球ファンと言うのはもう中年以降という認識なんですね。そう思うと高校生が野球する姿が受けているのも、同世代の高校生ではなく中年層、高校生たちの親世代なんですね。

 しかしこのままの状況が今後も進んでいくとしたら、野球界は本当にやばいことになるかも知れません。そもそも少子化で子どもの数自体が減っている上に、若年層の間では野球がサッカーに人気で負けているよう現状では、極端なことを言えば、いつか甲子園での野球大会そのものができなくなる可能性だってあります。そうならないように高野連も生き残りをかけてもう少し他の野球団体(特にプロ野球)とも連携するとか考えた方がいいでしょうね。IOCほど変わってしまうのも問題ですが、いつまでもアナクロの頭では、ますます時代とかけ離れてしまうと思いますが。
●角界に君臨する「故障山」。 (1999/3/25)
 とうとう相撲協会にとって非常事態が生じてしまいました。看板の3横綱に目玉の新大関が揃って故障で休場という前代未聞とも言うべき(実際に3横綱時に揃って休んだのは1950年以来約50年ぶりだそうです)出来事に、これでは興行として成り立たないのでは、という危惧すら抱いてしまいます。後は雅山と千代天山の新鋭2人の活躍に期待するしかないのでしょうが、その前にこれだけ休んでしまうと終盤戦の取り組みをどう組むのかさえ頭が痛くなってしまうところだと思います。なにせ3横綱3大関による星の潰し合いのはずが、実際に組むことができるのは武蔵丸-貴ノ浪戦だけ。それが千秋楽結びの一番ならば、14日目まで全然上位直接対決はなく、その穴を平幕中位〜下位の力士がかり出されて埋めることになるのでしょう。

 こういう事態になるには、数年前から若手力士に頻発していた故障に対し、これまで手をこまぬいていただけの協会の責任も大きいと思います。今回千代大海の昇進がこれほどの大騒ぎになったのも、5年間も新大関の誕生がなかったからです。そしてその一番の原因はやはり故障。武双山も魁皇も怪我さえなければとっくに大関になっていたことでしょうし、栃東や出島も怪我に泣いて足踏みしています。実力十分の力士に立ちふさがる最大の敵は横綱でも大関でもなく故障山だったのです。

 どうしてこれほど故障者が次々と出るのか?その現場にいるわけでもない僕には推測からの意見しか言えません。力士が大型化したからか、基礎体力がないからか、相撲から八百長が少なくなってガチンコ勝負が増えたせいか、それとも力士たちがずるくなって、ちょっと成績が芳しくない時にはさっさと休場してしまうせいか。いずれにせよ協会にとってこの故障山の活躍は相当の痛手のはずです。本気で対策を講じないと、そのうち「そして誰もいなくなった」状態になってしまいそうですね。
●伊比恵子32才。 (1999/3/24)
 女性の年齢を話題にするというのは失礼だ、という話はおいといて、オスカーを獲得した伊比恵子がまだ32才ということには驚きました。中継を見ている時に登場した彼女を見て、僕はてっきり40才くらいだと思ったんです。それはオスカーを貰うような映画を作ることができるという実力に目を眩まされたというよりも、やはりなによりも彼女の見た目でそう思いこんでしまいました。

 最近の日本の女の子は以前にも増して若い、というより幼く見えます。それは日本女性が苦労知らずでぼんやりしているということもあるかも知れませんが、それよりも幼く見えることを一種の魅力として捉えているからでしょうね。日本社会では何も知らない無垢で純真な女性の振りをしている方が一般に受けがいいのです。僕の知り合いで30代半ばにもなって、やたらと子どもっぽく見えるし、またそう振る舞う女性がいます。その彼女を見てほとんどの女性が「彼女はいつまでも可愛いから良いよね」と半分嫉妬混じりに言いますし、男性の中にも「あれは詐欺だな」と良いながらも目尻を下げている者が結構います。

 でも本当にそんなに幼い女性が魅力的なのでしょうか?30才になっても誰かに頼らなくては生きていけないような、精神的にも経済的にも自立できていない女性のどこがいいと言うのでしょう?人はやはり年齢に応じた魅力があると思います。幼さが可愛いのは子どものうちだけ。それに幼さと若さもまた違います。若さは見た目ではなく、柔軟な発想や挑戦する気持ちといった心の問題のはずです。それをはき違えているねじ曲がった若さ信仰が、今の幼く見える、また幼く見せようとする日本女性を大量発生させているのでしょう。

 伊比恵子がまだ32才であの風格を備えているのは、元ミス日本という肩書きに頼らず単身アメリカに渡って映画作りに挑戦し続けてきた、そのキャリアが容姿に自然と表れているのでしょう。またアメリカでは日本のように幼い女の子である必要もないですしね。アメリカにいる日本人を見て改めて日本のいびつさを知るなんていうのも今さらという気がしなくはないですが、多分渡米によって(もしくはもともとの素養が大きいのかも知れませんが)幼さとは自然に訣別したであろう伊比恵子の、今の日本での評価軸とは違う美しさに感動しました。
●第71回アカデミー賞生中継。 (1999/3/23)
 最近はテレビでアカデミー賞を生中継していることは知っていましたが、現地時間で日曜日の夜、ということは、日本では月曜日の昼間のために、今まで一度も見たことがありませんでした。知り合いの映画フリークには会社を休んで毎年これを見ている人がいますが、さすがに僕はそこまでしたことはありません。今回は祝日ということで初めてゆっくり見ることができましたが、いやぁ、なかなかやっぱり見せますね。

 何と言っても進行役のウーピー・ゴールドバーグ(ちょっと衣装に凝りすぎて本人のパフォーマンスは物足りなかった感もありましたが)をはじめ、出てくるプレゼンターたちの豪華さ、そして彼らの洒落っ気が圧倒的です。残念ながら、どこかの国で真似してはじめた同名の映画賞の授賞式とは大違い。また選ばれる作品や人物も、異論はあるかも知れませんが、ひとつの定見のもとに選択されているという信頼感がきちんと演出されていますし、なによりも参加している映画人たちが、この賞を心から愛していて、みんなで盛り上げていこうという気持ちが伝わってきて、それがこのアカデミー賞をいつまでも映画界最高の栄誉たらしめているのでしょう。

 今回最も印象に残ったのは、日本人的には伊比恵子の短編ドキュメンタリー賞の受賞でしょうが、僕的には名誉賞のエリア・カザンでした。彼は『エデンの東』『欲望という名の電車』などを撮った名監督ですから、これまで名誉賞を受賞したディズニーやチャップリン、黒沢明らと比べても遜色ない実績を誇る人物です。しかし彼はまた過去に共産党員であり、その後の「赤狩り」の時に転向して同じ仲間の映画人を内通して当局に売った人物でもあるのです。そのために長年映画界ではカザンは裏切り者呼ばわりされていたわけで、今回の彼の受賞はアカデミーからの名誉回復という側面もあるわけです。

 とは言え、やはり今でも彼に対して批判的な声も多いようで、受賞シーンに拍手もせず腕組みしている映画人も多数いました。しかし、カザン自身は悪びれもせず堂々としていて、その態度は太々しいと言えば言えなくもありませんが、僕には信念を貫いた筋の通った男、という感じに見受けられました。日本なら過去のことは水に流して、こういう場では儀礼的に拍手で迎えるのでしょうし、当の本人も決まり悪そうにしていたりすると思うのですが(その前にこの手の政治的な問題は避けるかも知れませんがね)このあたり良くも悪くもアメリカという国を表している気がしましたね。
●大学生がバカになってきている? (1999/3/22)
 一口に頭が良いとか悪いとか言っても、実はいろいろな基準があって、お勉強ができることイコール頭の良さではないことは重々承知しています。特に社会に出てからは、なまじ学校の成績がずっと良かったりした子は適応力に欠けることもしばしばで「東大(以外の有名大学でも可)出ているのにね」などと、しばしば陰口の対象になったりもします。

 しかしまた、やはり勉強のできる子は全般に優れている子が多いのも事実です。何をやらせても飲み込みが早かったり、努力することに慣れていたり、負けず嫌いだったりするためです。だからこそ、人は当たり外れがあることもわかっていながら、やはり学歴である程度その人物を評価してしまうのでしょう。

 ところが最近、どうも新入社員とか現役の大学生を見ていると、単純な頭の良さ(と言う表現が適切かどうかわかりませんが)、すなわち学力そのものが落ちてきているような気がしてなりません。漢字や言葉を知らない、歴史や地理を知らない、中学程度の数学の問題がわからない、なんて若い奴らにしばしば出逢います。それがまた偏差値が高いはずの国立大や有名私大の学生・卒業生なのです。どうやってそれで大学受験をパスできたの?と思うようなひどさに、しばしば暗澹たる思いがします。

 これは僕が年を取ってきて「最近の若い奴らは」という年寄りの繰り言を偉そうに言う年齢になってきたからかと思いきや、「週刊朝日」に「東大、京大生も学力崩壊」という記事が載っていて、まさにその内容は僕の実感を裏付けるものでした。記事をここで再録しても仕方ないので、興味ある人は雑誌を読んでもらえばいいのですが、要は東大をはじめ全国の大学で学生の著しい学力低下が認められる(本当にテストの点とか比べてもかなりひどいらしいです)、それは学生が昔に比べて勉強しなくなった(調査結果からもハッキリ勉強時間が短くなってきているとか)からで、原因としては勉強への動機付けが薄れた、すなわちバブル崩壊後は学歴信仰も崩れ、しかも少子化で大学は入りやすくなったし、大学の受験科目も減った、そこにもってきて文部省の「ゆとり教育」が拍車をかけている、ということだそうです。

 自分も受験当時は「こんなこと覚えて一体なんの役に立つんだ」と思ったものでした。「ゆとり教育」でそういう瑣末な知識の詰め込みをしなくて済むようになったとしたら、確かにそれは良いことだと思いますが、結局そこで空いた時間とエネルギーを学生たちが何に費やしているか、ということが問題ですよね。テレビを見てゲームをしてカラオケ歌っているだけでは瑣末な知識でも詰め込んでおいた方がまだましかも知れません。

 そしてなにより、瑣末な知識と思っていたことが、将来の専門教育の基礎になっている場合もあることが問題です。記事にもありましたが、東大理科3類(医学部に進むところです)の学生のうち約4割が高校時代に生物を全く履修していないそうです。高校の生物の知識もない連中がまともな医者になれるんでしょうか。そして、同じようなことが他の分野でも進んでいるのです。日本の経済発展は高い教育レベルに支えられてきた、というのが定説ですが、こりゃあ21世紀はいよいよ日本もマジで危ないかも知れませんね。
●春の嵐。 (1999/3/21)
 ここのところ暖かくて、もう衣替えをしなければなんて思っていたら、いきなり3連休に入った途端に冬に逆戻りしたかのような天気になってしまいました。本当なら暖かい春風の中、気持ちよくテニスをするはずだったのに、みぞれ混じりの雨が降るは、嵐のような強い風は吹き荒れるは、もうとてもじゃないけど外に出るのさえはばかられるような様相を呈してきたので、家にこもりっきりになって過ごしました。

 で、久しぶりにのんびり相撲など見ていたのですが、こちらも春の嵐が吹き荒れている感じですね。春場所7日目にしてようやく横綱大関陣が全員勝ちましたが、これはなんと去年の九州場所10日目以来とか。そう言えば先場所もずっと上位陣がコロコロ負けていました。長年盤石を誇ってきた現在の横綱大関陣も揃って20代後半になって、ようやく下位との実力が詰まってきたのでしょう。世代交代の時期が近づいてきている証拠だと思います。

 春の嵐、世代交代と言う意味では、現在の日本経済界もまたそうです。厳しい不況の中、思い切ったリストラ(首切りではなく、本来の意味の構造改革)を果たせるかどうかで、いち早くこのどん底からはい上がってくる企業へと変身を果たせるのでしょう。仕事柄、いろいろな会社に行って話を聞きますが、小手先だけの不況対策をしている会社と、本気でこの不況こそチャンスだと頑張っている会社では、やはり流れる空気そのものが違います。

 一番最悪なのは、リストラを単なる首切りと思って雇用に手をつけ、社員の著しいモラルダウンを引き起こしている会社ですね。みんなが頑張ることよりも、どうやって沈む船から逃げるかを考えているようにしか感じられません。バブルの時に浮かれるだけ浮かれた会社ほど、不況になったら安易な首切りをしているようにも見えます。経営者がバカだった、と言ってしまえばそれだけのことなんですがね。


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