1998年11月中旬のコーカイ日誌



  分かる授業と薄っぺらな授業は違う。(98/11/20)
 文部省が2002年度からの新学習指導要領を発表しました。最近問題になっている「学級崩壊」なども視野に入れて、とにかく「分かる授業」を強調した内容になっていますが、具体的には内容を3割削減と薄っぺらにして(スリム化、なんて言っていますが、こういうところで言葉を飾ってはいけません)、「総合学習の時間」を新設、学校が自由にカリキュラムを編成できる部分を広げて「知識詰め込み型教育」からの転換を図る、というものです。

 なんだかこれだけ読んだだけでも「そんなことで変わるのかなぁ」と思いませんか?単にお題目を並べ立てただけで具体的で実効のある施策とはとても言えないと思います。本当の改革とは、もっとシステムそのもの、もっと言えば思想そのものを変えなくては実現しません。僕がずっと言い続けている少人数学級すら実現させないで、どうして「分かる授業」ができるのでしょう。「知識詰め込み型教育」を否定するのなら、入試制度そのものも根底から変えていかなくてはなりません。最終的な評価である入試自体が知識を競うことになっている現状を変えないで、授業内容だけを薄っぺらにすれば、私立の中高一貫教育校には到底受験で勝てるはずもありません。評価の基準を変えない限り(つまり教育思想そのものを変えない限り)、この新学習指導要領も絵に描いた餅で終わることは明白です。

 それに「分かる授業」というのは、単に内容を減らせば実現するものなのでしょうか?内容を少なくしたって興味を持てない子には、やはり「分かる」日はこないと思います。今の子どもたちがテレビゲームをやっている様子を見ればそれがよくわかります。彼らはかなり複雑なルールや雑多なモンスターの知識なども、ゲームであればアッという間に理解します。うちの息子などポケモン151匹の名前はもちろんタイプ・身長・体重・進化などを見事に諳んじています。大人から見ればそれよりずっと簡単に思える授業内容(例えば漢字の書き取りとか)はちっとも覚えられないくせにです。そう、「分かる」ために一番大切なことは「興味を持たせる」ことなのです。その視点を持たないで単に内容を3割減らしたところで「分からない」のは当たり前だと思います。

 そう考えると、まず授業内容を変えることよりも、つまらない教え方しかできない教師を変えることを考えた方がいいでしょうね。自分が学校に通っていた頃を思い出しても、良い先生に巡り会えれば科目に関係なくその授業内容もよく理解できたし、その科目を好きになれものです。今の教師が「教えること」について、どれだけプロ意識を持って技術の熟練に励んでいることでしょうか。ぬるま湯に浸かりっぱなしの教師に「ガツン」と言ってやってくださいよ、誰か。
流星群は花火じゃないんだけど。(98/11/19)
 ふだん星のことなんか興味がないような顔をしている人たちまで巻き込んだ今回の「しし座流星群」。結果は期待はずれ(特に東海地方では雲が出てしまったので)に終わったのですが、それは以前の流星群騒ぎの時にもあったことなので、ある意味予想通りで特に驚きませんが、それよりも早起きして朝4時頃から空を見ていた、という人が周りに何人もいたことにビックリしました。なんか突如沸いてでたサッカーファンやベイスターズファンと似ています。

 朝4時なんて、会社勤めをしている人にしてみたら随分と辛い時間です。それでも起きて寒空を眺めるという不明な情熱。しかもたかが流れ星ですよ。それほど珍しいことではありません。33年に一度、という言葉に踊らされてしまったのかも、とは思いますが(今回の流星群の原因になった彗星は33年に一度しかきませんよ、確かに。でも流星群自体はいろいろあるんだから、生きているうちにこれが最後とか思うのは甚だしい勘違いです)、これほど多くの人が寝不足を我慢してまで見ようとしたこと自体が不思議です。

 まあ大半の人は天文学に特に興味があるとも思えませんから、多分花火大会でも見るような気持ちだったのでしょう。「流星雨」なんて言っていたし。まあそう考えれば、最近の花火大会の人出からして、流星群を見ようという人がたくさんいたのも理解できなくはないですね。もっともそれで「期待はずれ」とか文句言われて困ります。花火師が空にいるわけじゃないんだからさぁ。

 今回の流星群ブーム、面白かったのはいきなりガーンと盛り上がったことですよね。急にブームになったから儲かった企業とかも少なそうだし、マスコミも準備不足のまま突入した感じでした。多分楽しみにしていた人は実は多かったのに、マスコミがそれを読み切れていなかったということでしょうね。世の中いよいよ自然回帰ブームが本格化しているのかも。これで次回からは天文ショーは商売になる、と踏んだところも多いと思います。広告代理店とテレビ局が組んで、スポンサー集めれば結構ネタとしては美味しいぞ、ってなところです。次の華やかで一般受けする天文学的事件はないか、今頃懸命に調べているんじゃないでしょうかね。もっとも天文ネタは、今回のような空振りも多いんでリスキーですけどね。雨なんか降ったら全てがパーだし。とりあえず次は来年7月のアンゴルモア来襲(笑)かな。もっともこのネタはすでに使い古しで、もう商売にはならないような気もしますが。
後天性幹事完全症候群。(98/11/18)
 テニスサークルの幹事をやって13年。独裁型の幹事なので、独断専行で全て決める代わりに、あらゆる雑務をひとりでこなしています。一時期、別のテニスサークルの幹事を平日夜にやっていて、さすがに2つ掛け持ちで運営するのはしんどかった覚えがあります。小学校・中学校の同窓会があると、まず間違いなく幹事です。仲間内での飲み会や旅行の幹事は数知れず。最近大変なのは、会社の局のイベント幹事を1年間やらされていること。そもそも一昨年に1年間やったばかりなのに、何の巡り合わせか、また今年度もずっと幹事です。年間数回ある数十人の人数のパーティを毎回仕切るのは本当に厄介です。50人くらいは入れる店を探して、出欠を確認し、毎回企画を立てて、当日司会をする。最近名古屋のパーティできるお店に随分詳しくなりました。

 こういうことをずっとやっていると、どうも世の中の人は僕が仕切り好きだとか世話焼きだとか勝手に思うようですが、実は全然そんなことはありません。どちらかというと面倒なことは人にやらせて、自分はコソコソと楽したいタイプです。好きな人とだけ仲良くして、それ以外の人とは関わらずにいたいんですが、どうも最近やっていることは逆なんですよね。こういうことしているとストレスがたまるような気がして仕方ありません。

 どうしてこうなるのか、いろいろ考えたのですが、結局仕切り下手な人を見ているとイライラして、つい手出し口出ししてしまうからなんですよね。仕事でも遊びでもそうですが、無駄が多くて効率が悪いのが大嫌いなんですよ。気が短いのか、精神的にケチなのか、とにかく上手にやればもっと楽しめるのに、と思ってイライラしてきます。だからそれくらいなら、自分でやった方が精神衛生上いいや、と思ってしまうんです。挙げ句に幹事ばかりやっていると愚痴ってストレスをためているんですから、どうにもなりません。

 本当は世話好きでもなんでもないのに、結局幹事をやってしまう、しかもやればやるほど否が応でも上手くなるために、ますます人がやっているのを見るとイライラしてしまうという悪循環。特に今のように個人的事情で忙しい時に、人のために幹事なんかやっている自分自身がつくづくイヤになります。世の中には僕のような幹事ばかりやらされている人がいると思うのですが、そういう人たちはどういう経緯でそうなったのか、何を思ってやっているのか教えて欲しいですね。先天性の人はともかく、後天性幹事完全症候群は辛いです、ほんと。
個人の犠牲になり立つ老人介護。(98/11/17)
 僕は介護の問題について、実はこれまであまり深く考えたことがありませんでした。どうも考えれば考えるほど暗くなりそうだし、現実問題として直面しているわけでもないのに、わざわざそんなことを考えなくても、もっと楽しいことがあるでしょ、なんて気分でした。もちろん、現実には自分の両親、妻の両親がいて、彼らが刻々と年老いているのも十分わかっていましたが、あえて「考えてもどうなるもんでもなし」なんて目をつぶってきたのです。

 義母は10年前に脳溢血で倒れて以来、右半身が不自由で義父が毎日介護をしています。義弟は東京で気ままな一人暮らし。義父にもしものことがあったら、一気にパニックになることは目に見えていましたが、今までは「考えても仕方ない」と敢えて、深く考えることをやめていました。ところが今週からそれが「義父のギックリ腰」という一撃で、いきなり現実の差し迫った問題として我が家の前にたちふさがってきたのです。義父が起きあがれないのですから、当然寝たきり老人2人を誰かが面倒みなくてはなりません。

 もちろん娘である妻が早速実家に戻っていろいろ世話を焼いてきたようですが、ギックリ腰が良くなるまでは泊まり込みです。そうなると父子家庭となる我が家では、当然子どもたちは誰かが面倒を見なくてはなりません。もちろん誰かとは僕のことですが(うちの親はクルマなら小一時間のところに住んでいるが、クルマを持っていない。電車で来るとなるとかなり遠い)いきなりクレイマー・クレイマーです。飲み会の予定もキャンセル、テニスの予定も今のままではどうなることやら、という状況になってしまいました。もちろん残業なんてやってられません(笑)。

 義父がちょっとギックリ腰になっただけでパニックなんですから、これが両方の両親が同時にバッタリ倒れたら、もうお手上げです。妻1人ではとても面倒みきれません。女性が介護のためだけに人生を費やすことがないように、もっと政府は介護問題を考えて欲しいものだよね、なんて急に偉そうなことを言ったりして。目の前にエサをぶら下げられたら誰でも本気になるもんですから、って例えがちょっとおかしいぞ。
できちゃった再婚。(98/11/16)
 なんだかよくわからないけど面白かったのが石橋貴明と鈴木保奈美の電撃入籍。しどろもどろの会見で言葉を慎重に選んでいる2人を見ていると、いったい裏にどういう事情があったのか、ついつい余計な詮索したくなります。ま、簡単に言えば「できちゃった結婚」なのですが、特に鈴木保奈美が引退をにおわす発言をしているのが気になります。所属事務所のホリプロにしたら、ドル箱女優ですからとんでもないことでしょう。

 もっとも鈴木保奈美の場合は、前夫・川井ちゃんと離婚した時には「仕事がしたいから」と言っていたはずなので、穿った見方をすれば、これは独立するための布石なのでは、とも考えられます。結婚-引退-離婚-独立-カムバックという長期戦略(と言っても2年もあれば大丈夫でしょう)ではないのでしょうか。しかも離婚の時(どうせ石橋の浮気が理由になると思います)には慰謝料つきです。まあそう考えると悪くない選択ですね。

 石橋は、なんと言っても相棒・木梨憲武に対する見栄でしょう。トレンディ女優・安田成美をしっかりと妻にしている木梨に対して、石橋もそれに負けないだけの相手じゃなければと思っていたはずです。その点、鈴木保奈美なら十分対抗できます。キョンキョンは永瀬に取られてしまいましたしね。

 それにしてもお笑いタレントは女優にもてますね。明石家さんまは大竹しのぶと結婚していました。ビートたけしは宮沢りえと不倫していたし、松本人志も常磐貴子と噂がありました。結婚しているのも、とんねるずの2人以外に、そのまんま東とかとうかずこ、TAKE2深沢と田中美佐子など、人気女優がお笑いタレントにひっかけられた例は枚挙に暇がありません。人気女優の周りには同業のトレンディ俳優や歌手、スポーツ選手、青年実業家、ギョーカイ人などがうようよしています。その厳しい競争の中で、お笑いタレントが頑張っているということは、顔が悪くても、口が達者でユーモアがあって話題が豊富で気が利いてマメなら美人を口説き落とせる、という証明です。もっともそれはそれでとっても難しいんですけどね。簡単にできれば誰も苦労はしませんって。
盛り上がらないバレーボール。(98/11/15)
 バレーボールが盛り上がりません。今年は長野五輪に始まって、サッカーW杯があって、最後にこのバレーボール世界選手権で締めるはずだったのに、締めるどころか湿ってしまいました。

 原因はなんなのでしょう?バレーボールの人気がないから?いや、確かに世界的にはさほどメジャーでないとは言え、こと日本においては東京五輪以来の人気を誇るスポーツですし、サッカーのサポーター以上に熱狂的なファンを持っています。なにせ「ニッポン、チャチャチャ」ですから。では日本が弱いから?確かに長野五輪は戦前の期待以上に日本勢が活躍してヒートアップしましたが、W杯は3連敗でもちゃんとみんな盛り上がりました。要は演出、盛り上げ方の問題なのです。

 今回独占中継しているTBSがいかにも下手くそです。せっかくSPEEDを起用しながら、ほとんど活かしていませんし、フジや日本テレビなら、絶対にもっとしつこく徹底的にあらゆる番組内で宣伝しまくるのに、それも随分控え目でした。なにより、日本チームを始め、各国の選手や監督の情報があまりにも乏しかったのが敗因でしょう。キャラクターがきちんと把握されていれば、選手や監督の発言や行動もそれなりに引き立つものなのです。ジャンプの原田の涙の意味をみんな知っていました。ギリギリで代表から外されたカズの過去の言動・キャリアを把握しているからこそ、あれだけ論議になるのです。

 そもそもバレーボールと言えばフジテレビというイメージが強すぎますよね。バボちゃんは?V6は?って思ってしまいますもの。ドラマでもバラエティでも凋落著しいTBSが、またやっちゃったよ、というところですかね。
●「なる」ことと「ある」こと。(98/11/14)
 夏に教えたコピーライター養成講座の子たちと一緒に飲みに行きました。20人以上が集まり、なかなかに楽しい会だったのですが、ここでの話題は当たり前ですが、相変わらず「どうしたらコピーライターになれるのか」ということ。難問ですから、聞かれた方も結構困ってしまう質問です。

 そもそもコピーライターは資格もなにもいらない職業です。誰でも今日から「コピーライター」という肩書きをつけた名刺を作って配ればコピーライターになれるのです。小説家とかマンガ家、画家とかと同じですよね。ただ名乗ればいいんですから、とても「なる」のは簡単です。

 ただ本当に難しいのは「なる」ことではなく「ある」ことです。コピーライターとしてちゃんとゴハンが食べていける、そうあり続けるのは結構難しいものです。バブル期なら、なんやかやと仕事はありました。しかし、当時雨後の筍の如く現れた人たちの多くはすっかりこの不況で淘汰されてしまい、現在残っているのはしっかりと実力を培った人たちばかりです。「なる」のは簡単なだけに、余計「ある」ことが厳しいという感じがしますね。養成講座を受けて転職を考えている彼らは、この逆境の中「なろう」と努力していますが、もし念願叶っても、その後の「ある」ことの厳しさを忘れずにいて欲しいと思います。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。(98/11/13)
 淀川長治が逝きました。黒沢明の死去に際して「自分もすぐ行くから」と言っていた、その言葉通りに2ヶ月後に逝ってしまいました。89才。天寿を全うしたのですから、ある意味めでたいと言ってもいいくらいの見事な散り方ではありましたが、それでも「惜しい」と思ってしまうのは、彼の後を継ぐべき人材が見当たらないからです。

 「日曜洋画劇場」で見る淀川長治は本当の淀川ではない、とよく言われます。ベタホメするだけではなく、本当は手厳しい意見も言う人なんだから、と。しかし淀川が淀川たり得ていたのは、やはりどんな映画にも良いところを見つけて誉める、その映画に対する底なしの愛情ゆえでしょう。凡百の映画評論家をイヤらしいと感じるのは、映画のアラ探しをしケチをつけることで、自分の映画に対する知識や見識をひけらかそうとしているように感じるからです。僕は映画は芸術ではなく大衆娯楽だと思っています。少なくとも僕はそう接しています。その時に、つまらない評論家の小難しい芸術論や、重箱の隅を突っつくような映画論は、邪魔なだけで何の役にも立ちません。理屈をこねくり回して映画を見るのは、好きでやっている本人は楽しいかも知れませんが、それを押しつけられたら周りは大迷惑です。

 その点、淀川長治はアラ探しをしませんでした。理屈をふりかざしませんでした。素直で感性的な楽しいわかりやすい映画案内を僕たちにしてくれたのです。そういう意味では、彼は映画「評論家」ではなく映画の「伝道師」だったと思います。自分が好きで良いと思っているものを、素直に他の人にも薦めている、その姿はまさに伝道師でなくてなんだというのでしょう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ、という名セリフを残して去っていった淀川長治に、ひとこと、こちらからもサヨナラを言いたいと思います。
学歴コンプレックス、あるなぁ。(98/11/12)
 この夏にコピーライター養成講座の講師をした時、レジュメに講師プロフィールを書きました。僕はせっかくの名古屋教室なのだからと、名古屋で生まれ育ち、名古屋でずっと仕事をしていくことのメリットデメリットなどを話そうと、プロフィールにも出身高校・出身大学(名古屋の学校です)なども加えました。ところがその原稿を見たある女性から「自慢しているみたい。生徒さんにプレッシャーになるんじゃない」と言われてしまったのです。

 僕は思わず唸ってしまいました。自分としてはコピーライターと言っても、東京の華やかな有名私大なんて出ていなくても大丈夫、地元で生まれ育ったことを武器にすることもできるんだよ、というつもりだったのです。ところが逆に有名高校・有名大学(あくまでも名古屋では、ですが)を出ていないとなれないのか、なんて受け取られてしまうと言われたのです。

 学歴の話というのはここが微妙なんですよね。僕が入社した時、周りの同期のクリエーターは大半が東大・早稲田・慶応など東京の有名大学の卒業生でした。地方の国立大、というのはどちらかと言うと軽んじられる立場だったのです。だからこそ、これからコピーライターを目指そうという名古屋の若者たちに、東京を知らなくても大丈夫だよと励ますつもりだったのですが、学歴についての人の思いはもっと微妙で、少し視点の軸を変えると卑下が自慢になってしまうこともあるのです。

 かつての名作ドラマ『ふぞろいの林檎たち』の第1回が「学校どこですか?」だったのを思い出します。ドラマの主人公たちの設定と同い年の僕には、あのドラマはかなり身近で切実でした。確かに僕は地元の名門国立大学に入りました。名古屋にいる限りは誉められます。でも、内心では東京の有名大学に進んだ高校の友人たちを羨ましく思っていました。華やかな大学生活は東京で一人暮らしをしてこそ、と当時は思っていました。ダサイと言われる自分の大学が嫌いでした。そのコンプレックスが20年経った今でも心のどこかに残っていて、先日のコピーライター養成講座で思わぬカタチで表れてしまったような気がするのです。

 学歴はその人の全てではありませんが、その人の属性のひとつであることも確かです。学歴なんか関係ない、本当の実力は全く別物だ、という主張は決して間違っていませんが、あまりそこに拘泥すると、それもまた学歴コンプレックスだと思われかねません。またそういう人に限って別の属性(会社だったり収入だったり家柄だったり、時には乗っているクルマや住んでいる地域だったり)に頼って人を値踏みしていたりする場合も多いです。全ての属性をデータとして冷静に眺め、最終的には自分の目でその人を評価できれば良いのですが、それは現実には理想論に過ぎない場合がほとんどです。

 そもそも人のことをそう評価する必要があるのかどうか、という議論もありますしね。他人のことを気にし過ぎじゃないかと。ま、どうやら東京有名私大コンプレックスが残っているらしい僕には、学歴に関してあまり偉そうなことを言うことはできません。これを読んで早慶出身の人からは「僻んでるな」と思われるかも知れないし。うーん、まあせいぜい無自覚に他人を刺激しないようにと気をつかうばかりですが、人のコンプレックスまでそう気をつかっていられないしねぇ、というのも本音だしなぁ。普段はこんなことあまり考えていないから。当たり前か。
魁皇怒濤の快進撃、だけど。(98/11/11)
 この九州場所は場所前、特に話題のない寂しい場所でした。綱取り、大関取りもないし、話題の新鋭もなし。曙は休場するし、若貴兄弟も先場所ほど不仲が喧伝されていません。このままでは大相撲はいよいよJリーグ同様人気は鮭の川下り状態かと思わせた時に、突如ご当地力士魁皇の快進撃が始まりました。

 初日貴ノ浪、2日目貴乃花、3日目若乃花と二子山部屋が誇る横綱大関陣を一蹴。若乃花が言ったとおりの「ゴリラ」並みのパワーを見せつけています。もともとはその地力からして大関候補一番手だったのに、いつの間にやら並みの三役力士になっていた魁皇。かつてのライバル武双山、土佐の海の低迷と、栃東、出島、千代大海ら新世代の台頭も手伝って、最近ではすっかり影が薄くなっていました。しかし今場所のパワーを見る限り、相変わらず力は十分大関クラス。後は安定感さえ身に付けば、すぐにでも上へいける実力者であることを証明してみせています。

 しかし、いくら魁皇が快調でも彼一人では相撲人気の下降を食い止めることはできないでしょう。そもそも現在の相撲界には、ハッとするような新しいスターがいません。かつての大鵬、初代貴ノ花、北の湖、そして若貴兄弟のように、幕下十両時代から注目を集めながら、そのプレッシャーをものともせずに一気に上位まで上りつめてくるような鮮烈なスターがいないのです。現在の番付上位は、年齢も近く若くして現在の地位を築いた盤石の横綱大関陣です。彼らに対して真っ向からぶち当たり、その壁を打ち破るような新しいスターをファンは欲しているのです。魁皇は確かに実力的には上位を打ち破るものを持っていますが、彼は今やニュースターではなく単なる実力者に過ぎません。

 時に魁皇がこうして活躍するのもいいでしょう。またこのまま大関へと昇進していくのも、ちょっとしたカンフル剤にはなるかも知れません。しかし、本当の意味での21世紀の相撲界をリードする力士は、多分まだ三段目あたりにいるのだと思います。貴乃花が健在なうちに早く上がってきてくれないでしょうかね。ま、世代交代のドラマにはまだちょっと早いのですが。


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