クレーシュ3 〜ジュール・ド・ラン(元旦)の奇跡〜 1788年12月31日(水) 「オスカル、自分に正直になることも時には必要よ。 私の言いたいことがわかる?」 一足先に領地から戻ってきた私達に遅れて、屋敷に戻ってきた長姉の アンヌ・マリーが、年末の夜のレヴェイヨン(祝いの夜食)の席で、 私に意味ありげに囁いてきた。 夜通しの食事の前には、陽気に皆で大騒ぎをして楽しむ。 その目的は“老女”(年は仏語では女性形)を、つまり、過ぎ去る年を 追い払うことにあるからだ。 そんな家族の騒ぎをよそに、私はぼんやりとアンドレが給仕などで 動き回るのを見つめていた。 私のそんな姿が、姉の目には元気なく映ったのだろうか? 「あなたは、昔から何事をするにもお父様をはじめとして周りの 皆に気を使っていたわ。でも、たまにはあなた自身の気持ちを 優先させてもいいのよ。結婚話のように自分で決断しなければね。オスカル」 姉の言葉が示すのは、私の彼への気持ちであることはわかるのだが。 「姉上、心配かけてすいません。別に悩んでいるというわけではないのです。 ただ、どうしたらいいのか…わからないのです。」 「おばかさんね、難しく考えすぎよ。いいことを教えてあげるわ。 ほんの少し微笑んで、愛していると正直に告白すればいいのよ。簡単でしょ?」 「でも…でも、彼には迷惑かも…私の正式な夫にもなれないのに… それに、父上や母上が知ったら、困惑なさるかもしれない。」 我ながら、愚にもつかないことを並べたてて、姉に訴えた。 「本当にそんなことを心配しているの?父上は結婚を無理強いしなかった。 あなたの考えを…生き方を尊重してくださったでしょ。 家族の皆があなたの幸せを望んでいるのよ。あなたも親になればわかるわ。 あなたの望みは、彼がそばにいてくれることでしょ。自分からも行動しなさい。 私があとほんの少しの勇気をあげるわ。」 姉は、私の頬にくちづけして優しく微笑んだ。 「どうかしたのか?姉上に何か言われたのか?オスカル」 暖めたヴァンを持って、心配そうにアンドレが近寄ってきた。 「いや、何でもないよ。勇気のない妹を心配してくださっただけだよ。アンドレ」 「勇気のない…何のことだ?」 「内緒…女同士の話だから。」 1789年1月1日(木) 三部会の開催が宣言された。今年の激動を予感させる事態だ。 「キリスト割礼の祝日に、大仕掛けな芝居が始まるのかな。アンドレ」 「芝居?違うよ、オスカル。現実さ。民衆にとっては、食べるものが きちんと手に入るかどうか、生きていけるかどうかの…現実さ。」 やけに冷静なもの言いが、彼の気持ちを表しているのだろうか? でも、確かに政治体制が何であろうと、民衆にとっては、今日、 食べられるかどうか、薪が手に入るかどうかが、緊急の課題だ。 彼は、最近私より熱心にアジビラを読んでいる。 「これも情報収集さ。」 彼の言葉は軽い。でも、心の中も同じとは限らない。 私の訝しげな表情を心配したのか、彼はカトーの格言を持ち出した。 「そんなに心配そうにするな。“新しき年は すべて美しい。”と言うだろう。 今年は去年以上に混乱もするだろうが、新しい秩序が生まれるための胎動だろう。」 夜、儀式のごとく、オスカルが例の隠し扉から部屋へ入ってきた。 「年も改まったから、いいかげん自分の寝台へ帰れよ。オスカル」 「い・や・だ!…もう疲れたから、早く寝よう。アンドレ」 一体全体いつまでこれを続けるつもりだ? 寝台に入ると、態度は遠慮がちに、でも、言葉でははっきりと彼女は要求した。 「今晩は子供の時みたいに、腕枕してくれ。アンドレ」 「はい、はい…お嬢様、お望みのままに…。」 子供がこんなクラクラするような、いい香りを漂わせる髪や肌なんてしてないし、 こんな柔らかな抱きごこちなんてしないよ。 ああ、早く寝るに限る、寝よう、寝るのだ。アンドレ! 自分に強く言い聞かせる。おまえも早く寝てくれ、オスカル! 「…アンドレ…」 「なんだ、オスカル?」 「おまえ、最近私を子供扱いしているから、当然、エトレンヌ(お年玉)の 用意はしてあるだろうな。」 「だから、なに、オスカル?」 「古い諺にもあるじゃないか?“新年には、子供たちにはお年玉を”」 「こんな夜遅くに何を寝ぼけたことを言っているのだ?寝ろ!オスカル」 「いやだ。エトレンヌをもらうまでは…寝ないぞ。ぜったい!」 呆れたやつだ。俺は腕枕をとき、彼女の顔をのぞきこんだ。 「一体何が欲しいだ、お嬢様?お望みの物をお聞きしましょう。」 「……」 「早く言えよ、眠いのだから。オスカル…え?なに?」 「…おまえの…おまえの私への愛の言葉が欲しい。」 俺は新年早々からかわれているのだと思い、ついかっとなった。 「何を寝ぼけているのだ?俺をからかうのは止めてくれ!俺はもう眠い。 女主人だろうと、なんだろうと、俺の寝台から出て行け!」 オスカルは驚いた顔をして、突然ふとんをかぶってしまった。 ふとんの中からは、啜り泣きが聞こえてきた。 なに?どうしたのだ?なんで泣いているのだ?言い過ぎたかな? 俺は、世の中で何が苦手だと言っても…おまえの泣き顔以上に、 苦手なものはない。おばあちゃんの怒鳴り声より苦手だ。 「オ、オスカル…悪かった。言い過ぎたよ。お願いだから、泣き止んでくれ。」 自分でもばかばかしいと思いながらも、ついあせってしまった。 彼のオロオロした態度を見ていたら、何だか悪い事をしているようで、 仕方なしにふとんから顔を出した。 ええい、もう、恥かきついでだ、言ってしまおう。 「わ、私は…お、おまえを…おまえを愛していのだ。誰よりも…」 私が、もう恥ずかしくて死んでしまうのではないかと思っているのに、 彼ときたら、何がなんだかさっぱりわからないという顔で、私を見つめている。 やっぱり、私から愛の告白なんて…するのではなかった。 私はやはり女らしくないのだな。ああ…情けない自分。 一瞬、時間が止まった気がした。オスカルは何を言っているのだ。 ええと、俺って耳がおかしくなったのかな? オスカルが俺を愛している…愛している…いや、空耳じゃない。 「オ…オスカル…それ本気か?」 我ながら、なんてバカみたいな質問をしているのだろう。 「あ、当たり前だ。こんなこと冗談で言えるか!」 「ええと…すまないが、もう一度言ってくれ。」 「…私は…おまえを愛している。アンドレ」 「俺もだ、オスカル!おまえだけを愛しているよ。オスカル…」 これ以上できないというほどの優しい声で彼女に囁いた。 突然、彼がとても嬉しそうに、私の顔を覗きこんで囁いてくれた。 よかった…私の気持ちが通じたのだな。嬉しい…私もとても嬉しい。 おまえが私のそばにいてくれれば、何も怖いものなどない。 私は嬉しさのあまり、彼の首に両腕を巻きつけて、くちづけをねだった。 彼はまず私の額に愛しそうにくちづけして、次第に頬や鼻先に唇を移動し、 ゆっくりと羽根のように軽いくちづけを唇にくれた。 この唇こそが、私の待っていた唇だ。優しいしっとりとしたくちづけだ。 なんだか不思議な感覚が私の身体中を満たした。 幸せなのに、切ないような…何とも言えない感覚だ。 オスカルは、いつもとは全然違う柔らかな表情で、俺を見上げていた。 彼女の唇は、濡れて薔薇色に輝いていた。 彼女の腕が俺の首にまわされた途端、彼女にくちづけしたくなった。 美しいオスカル…たとえようもないほど… 最初は壊れ物でも扱うように彼女にくちづけしていた。 でも、それは直ぐに激しいものに変わっていった。 ひとしきりくちづけの雨を降らした後で、やっと二人とも一息ついた。 俺が彼女の顔を覗き込むと、恥ずかしそうに、俺の胸に顔を埋めた。 暖かな幸福感が俺を包んだ。いや、二人を包んだ。 「これでは、俺の方がすてきなエトレンヌを貰ったみたいだな。オスカル」 彼女の絹糸のような髪を梳きながら、なにげなく俺は言葉を紡いだ。 「いや、やっぱり、これは私が貰ったエトレンヌだ。 甘いくちづけと、おまえの優しい愛の言葉…誰にもやらない。」 私は、緊張がとけると、彼の激しい胸の動悸を聞きながら、 心地よい眠りにいざなわれた。ところが、彼は、突然私の身体を 自分の腕から離すと困ったように囁いた。 「オスカル…悪いのだが…自分の寝台へ戻ってくれないか? 抱いていってやるから、な?」 「どうして?私が邪魔か?アンドレ」 やっと彼に自分の素直な気持ちを告げることができて、幸せいっぱいの私は、 突然の彼の提案に驚いた。私は何か悪いことを言ったのだろうか? そんな泣きそうな顔をしないでくれよ。オスカル… 愛の告白されても、まだ紳士でいられる自信なんてあるわけないだろう? おれは聖人じゃないのだぞ。ああ、泣くな、泣くな。 「ごめん。泣きそうな顔するなよ。このままいても良いよ。オスカル」 彼女は、俺の言葉に嬉しそうに微笑み、もう一度俺の唇に軽くくちづけすると、 再び俺の腕の中に身体を沈めた。俺の女神は、意外と残酷だな。 長年、軍にいながら、恋する男の気持ちを完全には理解できないらしい。 仕方ないが、これも彼女の魅力の一つだ。 眠ろうと努力すればするほど、目が冴えて、結局寝ついたのは、明け方だった。 次の日から、私達の恋人同士の関係が始まった。 仕事中や屋敷の中では、以前と変わらずにいる私達… でも、ふと彼の顔を見つめてしまう自分がいる。情けない。 こんなに恋しくて恋しくて…男の腕を、微笑を、くちづけを求めているなんて。 以前の私からは信じられない。 私は自分が思っている以上に、女なのだと思い知らされた。 夜になり、二人だけの時間ができると、オスカルの部屋で過ごす。 長椅子の上で過ごす間は、暖炉の焔がつくる二人の影が離れることはない。 毎夜、少しずつ俺の愛撫は深く激しくなるが、彼女は嫌がるわけではない。 彼女の恥じらいは強いけれども、何よりお互いに求める気持ちの方が強い。 でも、最後の一線を越えるのは、俺にも彼女にもまだまだ勇気が必要なようだ。 毎夜、彼の寝台で、二人で眠る儀式は続いていた。 寝入った彼の顔を静かに見つめる。 二人の気持ちが通じあって、幸せなはずなのに、まだ何かが足りない。 私は何を求めているのだろうか?よくわからない。 私の中の、女の部分は、毎夜どんどん恐ろしいほど成長して行く。 自分でも御しきれないほどだ。 彼の愛撫が深まっても、まだ、もっともっと…と要求ばかりが強くなっていく。 「カレス・モワ」(私を愛撫して)と…。 次のページへ