『SONNY CLARK』

(1931.7.21−1963.1.13)
sonny clark

 『超常能力の秘密を探る!』というのが“ムー”10月号の総力特集のタイトルでありまして、「今月は超能力の特集かぁ。」と、かなり期待に胸を膨らませていたんですが、サブタイトルには「ついに“神人類”誕生のメカニズムが見えた!」と、わけのわからないことが書いてあったので、“超能力”と“超常能力”とは、まったく別のものかも知れないなぁ。…とか思っていたら、1ページ目にはいきなりスプーン曲げの写真が載っていて、やっぱり超能力の特集みたいなんですが、ちなみに僕は超能力の存在には肯定的な立場を取る人間でありまして。ユリ・ゲラーが初来日したときの『木曜スペシャル』も、かなり期待に胸をときめかせていたわけでありますが、ちょうどその日はウチにイトコの姉妹が遊びにきておりまして、一緒に仲良くテレビを見ていた記憶がございます。この番組を見ておかないと、次の日、ガッコで“えんがちょ”されるような雰囲気がありましたからねー。が、そんな切実なコドモ心を知ってか知らずか、ウチの親は番組の途中でイトコの姉妹に対して 「そろそろ、お風呂に入っておいでぇ。」 という非情な申し出を致しまして、当然、言われたほうとしては 「えーっ。。。」 と不満であるわけですが、親戚のおばちゃんには勝てないやぁ。。。と思ったのでありましょう。しぶしぶ風呂場へと向かったのでありました。ちなみに当時、ウチの風呂場は母屋から離れたところに建っておりまして、便所も外にありました。冬の寒い雪の夜に下痢になったりすると最悪ですが、ちなみにユリ・ゲラーのテレビが放映されたのは夏のことでしたけどね。開け放たれた窓から風呂場のようすがよく見えておりましたが、いや、別に覗こうとしていたわけではないんですけどね。

 で、ユリ・ゲラー超能力の後半は「行方不明になった人を探す」というようなテーマではなかったかと記憶しておりますが、いよいよ見つかるのか、それともやっぱり駄目なのか?という、番組のクライマックスを直前にして、 「ではここでコマーシャルですぅ♪」 と勿体をつけられて、で、そのタイミングで強制的に風呂に入らされたものだから、イトコの姉妹としてもその結論がどうなったのか、気になって気になって仕方なかったのでありましょう。ついに我慢しきれなくなってガバッと風呂場の窓を開けると、茶の間に向かって 「ねぇ、見つかったぁ?」 と大声で叫んだのでありました。…という話を前にもどこかに書いたことがあるような気がしますが、いまでも超能力と言うと従姉妹の入浴シーンを懐かしく思い出します。ちなみにお姉ちゃんのほうの名前が“ユリ”なんですけどね。片仮名でユリちゃん。さすがに名字は「ゲラー」ではなかったんですが、いや、父方の従姉妹だから、僕と同じ名字であります。で、ゲラーさんちのユリちゃんの行方不明者捜索実験は、いなばさんちのユリちゃんが自らの裸体を晒してまで 「見つかったぁ?」 という期待をかけたにも関わらず、結果的には 「見つからなかったぁ。。。」 ということになってしまいましたが、ま、番組の前半ではちゃんとスプーンだって曲げてくれたし、全体的にはコドモ心にも 「ま、こんなもんかぁ。。。」 といった程度の満足感は与えてくれたような気がします。ちなみに僕はスプーン曲げに関しては懐疑的でありまして、いや、その能力に疑問を持っているのではなく、スプーンを曲げたところで、いったい何の役に立つのぉ?といった意味での疑問なんですが、それに比べて「止まった時計を直す」というのはイイですね。スプーンを曲げたところで食器屋のおじさんに叱られるだけですが、止まった時計を直せば時計屋のおじさんに誉められますもんね。いや、 「商売の邪魔をすな!」 とイナバ時計店 (←ウチの近所にある) のおじさんに叱られるかもしれませんが、ちなみに僕は机の引き出しにしまってあった腕時計で実験し、止まっていた時計の針を見事に動かすことに成功しました。いや、自動巻きの時計だったので、止まっていても軽く振れば動き出すのは当然なんですけどね。

 で、“ムー”の総力特集でありますが、これは当然、超能力に肯定的な立場で書かれております。 『スプーン曲げても生き方曲げぬ 〜 超能力者・清田益章のサイキック・ステーション』 という連載をやっている関係上、なかなか 「超能力は嘘八百である!」 とか書けませんよね。ちなみにユリちゃんの実家は八百屋でありましたが、泥棒か何かを働いて、朝日新聞に 『スプーン曲げて、人生も曲がった』 と書かれたのは関口少年でありましたか。ま、超能力少年としてマスコミからチヤホヤされ、で、今度は一転してインチキ呼ばわりされてマスコミから“えんがちょ”された日にゃ、思わずグレて人生を曲げちゃう気持ちもワカランではないんですけどね。が、一方で真面目に超能力の研究に取り組んでいる学者や企業も少なくないようで、例えば某家電メーカーのソニーは1991年に 「エスパー研究所」 なるものを創設し、アホらしくなって1998年には閉鎖しちゃったみたいですが、筑波研究学園都市のある研究所でも当時の通産省の肝煎りで 「レバー炒めに関する研究」 というのを行っていたということです。いや、肝煎りだからレバー炒めなんでしょうが、超能力にはあまり関係なかったですかね?で、続いては清田のマスっちでありますが、彼は空中浮揚が出来るそうです。これは例の麻原のショーちゃんもやってましたので、それほど珍しくもないですよね。実際、ショーコー君が空中を浮揚している映像をテレビで見たことがある人も少なくないでしょう。いや、アニメでしたけどね。尊師の浮揚こそアニメでありましたが、信者の浮揚シーンにはちゃんと実写版もございまして、ま、空中浮揚というよりも 「座禅をしたままでのジャンプ」 にしか見えなかったわけでありますが、清田クンの場合は座禅をして浮くわけではなく、ウルトラマンのようなポーズで腹這いになって手足を伸ばして、ウーッて感じで、ちょっとだけ床から浮かぶんだそうです。生憎、その浮揚中の写真は掲載されておりませんが、想像するにおそらく 「腹這いのままでのジャンプ」 のようなものではなかろうかと。。。いや、やってみようとしたらけっこう難しかったので、それはそれで立派な“芸”かも知れませんけどね。ま、役に立たないという点では 「座禅をしたままでのジャンプ」 と、そう大差はありませんが。

 で、もっと世の中の役に立つような超能力はないのか?…と思ったら、あ、ありました。今、超能力の世界では中国人が熱い!というのはその筋の世界では有名な話でありますが、中国の超能力おばさんソン・チューリンさんは、茹で卵を生卵に戻すことが出来るそうです。僕は今ひとつ生卵が苦手でありまして、ホテル松月(仮名)の朝食でも、出された生卵をおばちゃんに頼んでわざわざ焼いてもらっていたんですが、なんて余計なことをするんだ、ソン・チューリン!…と、この人の超能力もあまり役には立たなくて、というか、ありがた迷惑な話でありまして、で、他には何かイイのはありませんかね?あ、ありました。旧ソ連の超能力おばさんニーナ・クラギーナさんは、人の身体に触れるだけで、その部位に火傷を発生させるという能力があったそうです。んなもん、何の役に立つねん!?と思うかも知れませんが、レストランで生焼けのステーキを出されて、「ちょっとヤバそうかな?」という事態に陥ったとき、このオバサンが隣にいれば、もうだいじゃぶ。素手で生焼けの肉にジューっと触れてもらうだけで、美味しいウエルダン・ステーキの出来上がり。 「さ、食べようかぁ♪」 と思ったらクラギーナのおばさん、 「あ、さっき便所でウンコして、手を洗うの忘れちゃったぁ♪」 って、せっかく立派な超能力があるのに、今ひとつ清潔観念に欠ける嫌いがあるのが欠点なんだよねぇ。。。

 ということで、 「超能力は役に立たない!」 というのが本日の結論です。

  

 ということで 『レジェンダリー・ジャズ・ジャイアンツ』 はソニー・クラーク編でございます。いや、このコーナーの企画が失敗だったということは百も承知しておりますが、トップ・ページの更新履歴がここのところだけ古くてバランスが悪いので、とりあえず更新しておくことにしました。で、ソニー・クラークでありますが、僕が知っていることといえば「ヤクは友達♪」という人生を送って、それが原因で夭折しちゃったということぐらいなんですが、「ヤクは友達♪」と言っても、モンゴルの人達が「ヤクはとっても役に立つねっ♪」と言って飼育している動物のことではなくて、注射すると“らりらり♪”になっちゃう薬物のことですよね。1931年生まれということは、生きていれば今年でちょうど70歳でありますが、63年に死んじゃっているので、享年31歳ということになりますね。人間、40にもなれば立派な中年でありますが、ま、31歳でも女子高生に言わせれば「中年じゃーん。」ということになるかも知れませんが、「34歳までは中年ちゃうちゅうねん!」と、声を大きくして主張したいと思います。えーと、僕が言いたいのはそんだけです。

 あと、ネタ本である『伝説で綴るジャズ・ジャイアンツ』(だっけ?)を見てみると、「あの男は私が出会ったなかで、もっとも才能のあるプレイヤーのひとりだった。彼には何ひとつ欠けているものがない。しかもあの若さだった。彼と…緒にプレイした夜は、いつも、何カ特別なことカ泡きた。」というハワード・ラムゼイの言葉が紹介されておりますな。後半、やや呂律が回らなくなって、 「力(ちから)泡(あわ)きた」 って何?と言いたくなりますが、これは何もラムゼイがラリっているわけではなく、OCRの活字認識ミスでありましょう。恐らく 「いつも、何か特別なことが起きた。」 ということが言いたかったんだと思いますが、それにしても 「何ひとつ欠けてるものがない。」 というのは立派なことですよね。人間、すべからく、こうありたいものでありますが、残念ながら僕には欠けたところがございます。具体的に言うと前歯が1本、ナナメに欠けております。夜中にスーパーの屋上で仕事をしていて暗闇で蹴躓き、あ、「けつまずく」というのはこんな難しい漢字だったんですね。で、暗闇で蹴躓いて顔面を痛打して、結果として前歯が1本、ナナメに欠けました。激しく転倒したわりには被害は最小限ですんだわけですが、もし僕の鼻がもう少し高ければ、間違いなく鼻血が出ていたことでしょう。危ないところでした。

 で、証言者がハワード・ラムゼイであるということからもわかるように、ソニ・クラは当初、西海岸で活動してたんですよね。『えん○らしょ・ジャズ・アーティスト』とかいう人様のサイトから勝手に引用させて頂くと、4歳からピアノを、高校時代にはベース、ヴァイブなどを始めるようになりましたと。高校時代からヴァイブって、ま、何でも試してみたい年頃だからワカランでもないんですが、在学中からプロとしての活動をし、51年ごろから兄とともに本格的に音楽活動に入ったんだそうであります。ちなみにクラークの兄が音楽家として大成したという話は聞いたことがないので、巷によくある「兄貴よりも弟のほうが出来がいい兄弟」ということなんでしょう。で、弟のほうはワーデル・グレイ、オスカー・ペティフォード、バディ・デフランコとのらとの共演などを経て…とありますが、そうそう、西海岸時代の活動としてはデフランコとの共演が有名ですよね。このことを覚えておくと、後で何かの役に立つことがあるかも知れませんが、ただこのバディ・デフランコという名前は初心者にはちょっと覚えにくいので、 『ナイス・バディで乱交、腑抜け』 と記憶するとイイかも知れません。“バディ・デランコー”って、「デフランコの“フ”が抜けてるぢゃないか?」と思う人がいるかも知れませんが、“フ”が抜けてるからこそ“腑抜け”なわけでありまして。

 で、しばらく西海岸で活動していたクラークでありますが、「何か違う?」という違和感を拭い去ることが出来なかったそうです。アレンジ重視の西海岸ジャズはオレンジ好きのクラークには合わなかったようで、「やっぱ、ポン柑と伊予柑は違うよね?」という違和感もあって、ニューヨークへ進出する機会を虎視眈々と狙っていたんですが、ちょうどその頃、「チミぃ、ちょっとダイナ・ワシントンの伴奏をやってみないかね?」というおふゃあ、あ、名古屋弁になっちゃいました。「ちょっとダイナ・ワシントンの伴奏をやってみないかね?」というオファーがあって、彼は渡りに船とばかりにダイナ・ワシントンに付いていく形で東海岸に進出することになります。ダイナ・ワシントンに付いていくなら、やっぱ行き先はワシントンやろ?という気もするんですが、クラークはジャズの中心地であるニューヨークを目刺し鱒。いや、目指します。で、ブルーノートのライオンおじさんに可愛がられ、BNのハウス・ピアニストとして数多くのセッションに参加することになるんですが、その傍ら『クール・ストラッティン』を始めとする、いくつかのリーダー作を残しております。ただ日本では絶大なる人気を誇るクラークも、その暗さが災いしてか、本国アメリカでは大衆的な人気を得ることが出来ず、『えんこ○しょ』のWebマスターも「日本では50年から60年あたりにファンキー・ブームが巻き起こっていて、『クール・ストラッティン』は特に人気がありました。その他ソニー・クラークのレコードはちまたのジャズ喫茶などでの定番となっていました。(しかしアメリカでは余り評価されなかった……という引きあいもあります。)」と書いてますね。今ひとつ 「引きあい」 というコトバの使用法が適切でないような気がしないでもないんですが、勝手に引用して文句をつけるというのはジェントルな態度ではないような気がしないでもないので、深く追及するのはヤメておきますが、1963年31歳で他界、「夭折のジャズメン」のたとえでいわれる一人です。…って、ま、そういうことなんですけどね。

 で、『伝説で綴るジャズ・ジャイアンツ』(だっけ?)に戻ると、ハンプトン・ホーズとはとっても仲のいい“ヤク友達”だったということが書いてありますね。「ヤク友達」と言っても、モンゴルの人達が「ヤクはとっても役に立つねっ♪」と言って飼育している動物のことではなくて、注射すると“らりらり♪”になっちゃう薬物のことなんですが、「麻薬に金を使い果たして、ホテル代も払えなくなったとき、運よくそこでソニー・クラークに出会ったんだ。ちょうどクラークは、ダイナ・ワシントンの仕事が終わったところで、セントラル・パーク・ウエストのホテルへころがり込み、部屋代とヤク代も半々にしたんだ。」というのは、ホーズの自伝に書かれているエピソードでしたかね?イイですなぁ、オトコ同士の友情。で、ヤク絡みでは他にも「ホーズとクラークとミンガス、オトコの3Pしすてむ♪」という話もありますよね。ある晩、ホーズかブロードウェイの電柱にもたれていると、顔見知りだったミンガスに声を掛けられたと。「金が欲しそうだな。週末にトリオを組むことになっているから手伝え。」と仕事をくれたと。あ、このへんの文章は『ダイヤル・S・フォー・ソニー』のライナーノートからの引用でありますが、そのセッションというのがジュビリー盤の『ミンガス・スリー』でありまして、この時、ホーズはスタジオにクラークを連れていったんだそうです。で、ホーズが便所でイッパツやって…、いや、イッパツ射っている間、クラークが4小節だかのフレーズを弾いて、4ドルだかのギャラを貰ったんだそうです。イイですなぁ、オトコ同士の友情。

 あとはまあ、 『クール・ストラッティン』 の初回プレスがわずか500枚で、それもなかなか売れなかったとか、でも日本では大人気で、ライオンおじさんのクラークに関するメモには 「何故か日本で人気のあるピアニスト」 と書いてあったとか、『ぶるーのーと・じゃず・ふぇすてぃばる』 でマクリーンが 「くーる・すとらってぃん」 を吹き始めた瞬間、もの凄い大歓声があがってライオンおじさんが感激のあまり思わず泣いちゃったとか、にもかかわらず、演奏そっちのけで棒器具で刺激しあっているペヤングがいたとか、僕の知ってる知識は、そんだけ。


『ソニー・クラークを知るための5枚のアルバム』

 クラークの正式なリーダー作は僕の知る限りでは6枚しかないので、そこから5枚を選ぶのは簡単ですな。1枚ボツにすればいいわけです。となると僕の場合 『ソニーズ・クリブ』 ということになりますね。 コルトレーン&ドナルド・バードと、クラークのリーダー作の中ではもっとも一流のメンバーが集っているんですが、トレーンとクラークは相性が今ひとつかなぁ。。。という気がするのがボツになった理由です。ちなみにBNにはクラークのリーダー作でオクラ入りになったものが少なくありませんが、これはライオンおじさんが貧乏人クラークを救済するため、売れる見込みもないのにレコーディングのチャンスを与えたためだと言われております。仕事もしないのに金をやるというのは、本人の為にもよくないしぃ。。。という“あるふれっど・らいおん・はーと”によるものだったようですが、ええ話ですなぁ。。。


『ダイヤル・S・フォー・ソニー』(BLUE NOTE:1957年)

 クラークの初めての初リーダー作ですね。いや、初めてだから初リーダー作と言うんだと思うんですが、女子高生とかだと 「私のォ〜、初めての初体験はァ〜」 とか言いそうですもんね。で、演奏のほうはというとアート・ファーマー、カーティス・フラー、ハンク・モブレイの3管を従え、いかにもクラークらしいマイナー調のオリジナルが3分の1、ホレス汁婆の影響を色濃く感じさせるオリジナルが3分の1、歌モノが3分の1という構成ではなかったかと。で、初めての初リーダー作ながらクラークの持ち味は充分に発揮されていて、地味ながらも出来のよい仕上がりとなっているのではなかったかと。

 

『ソニー・クラーク・トリオ』(BLUE NOTE:1957年)

 BN盤の『ソニ・クラ・トリオ』と言えば、「朝日のように爽やかに」一発勝負!というアルバムですよね。これ1曲を聴くためだけでも買う価値はあるんぢゃないかという気がしますが、僕の持っているCDは別テイク入りで、しかも同じ曲が続けて出てくるという作りになっていて、はっきり言って迷惑です。曲順もオリジナルとは違っていて、なんて余計なことをしてくれたんだ、東芝EMIっ!…と文句のひとつも言いたくなりますが、東芝EMIも反省したのか、オリジナル曲順の別テイク無しCDも出ているようなので、マニアでない限りはそっちのほうがよろしいのではないかと。スタンダードとバップ曲が半々という肩の凝らない構成で、シンプルなトリオ編成ということもあって、初めての初心者のクラーク入門には『クール・ストラッティン』よりもよろしいのではなかろうかと。

 

『クール・ストラッティン』(BLUE NOTE:1958年)

 わざわざここで紹介するまでもない超有名盤ですな。ま、詳細に関してはよそ様のサイトでも見ていただければよろしいかと。「初めてのジャズ入門の1枚」としてよく紹介されているようですが、1曲の演奏が10分ぐらいもあって、それほど甘い演奏ではありません。個人的にはパウエル的な香気とホレス・シルバー的なファンキーさが絶妙にブレンドされ、フィリー・ジョーのドラミングも切れ味鋭い 「ディープ・ナイト」 が好きっ♪

 

『ソニー・クラーク・トリオ』(TIME:1960年)

 BN盤トリオとは対照的に全曲をクラークのオリジナルで固めた硬派な作品っす。「マイナー・ミーティング」「ニカ」「ソニア」など、マイナー調クラークばりばり全開っ!といった作品が並び、とってもイイっす。でもジャケットのイラストを書くのが面倒なので、これから先“ジャズ・ジャイアント”で取り上げられる可能性は皆無だと思われます。

 

『リーピン・アンド・ローピン』(BLUE NOTE:1961年)

 チャーリー・ラウズにトミー・タレンタインという地味地味なフロントがイイですなぁ。イイけど地味ですなぁ。地味ですが「ヴードゥー」はじめ、いかにもクラークらしい哀愁メロディが並び、1曲だけアイク・ケベックの参加した「ディープ・イン・ザ・ナイト」が泣け、頬がコケていかにも死にかけのジャケットもよろしく、遺作と呼ぶにふさわしい引きあいもあって、「夭折のジャズメン」の例えでいわれる1人だなぁ。。。という仕上がりになっております。

 んなことで、おしまい♪

  
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