「ヤン夫婦の甘くない生活」 後編

   一方、残されたヤンは、顎に手を当て考えていた。あの青年は、何を考え何を思ってい たのか。そういえば、職務軍人でもない彼が、どうして大尉になり得たのか? 二等兵か 一等兵が普通ではないか。本当に彼の赴任には深い意味はなかったのか。  さらに、彼は何故、自殺したのか、それとも「させられた」のか。あるいは…… 「いや、これは最悪の想像だな。」  呟きながら、彼はフレデリカの入れてくれた、ユリアンの遠縁による作品めいた紅茶を 飲んだ。  しかも、既に、それは冷め切っていた。  ヤンが、キャゼルヌにあて、「ケーキはおいしかった。ただ、入れてある箱がつぶれか けていたから、今度はもう少し気をつけてくれると嬉しい。」と、メールを打ったのは、 彼が紅茶を飲み干した後のことだった。   「そんな権利はないことを承知で言うんですが、彼の葬儀に立ち会わせてもらえませんか。」  ヤンが、ヴェンドリンガー大尉の上司である、ニュルブリンク少佐に対し、会見を求め たのは、その翌日のことだった。  副官、もとい妻のフレデリカが、 「この人に手を出したらどうなるか、わかっているでしょうね。」  と言わんばかりの顔をして、ヤンの後ろから、中年太りの腹をかかえたニュルブリンク を、デスク越しに眺めている。ニュルブリンク少佐は、舌打ちをしながら彼らを交互に見 据えた。  同盟が今や、実質的占領下にあるとはいえ、元帥であったヤン相手となれば、席を立っ て敬礼するのが礼というものなのだろう。だが、ニュルブリンクはあくまで不遜な態度で、 自分と同じ髪の色をした青年の目を見た。  ただし、ヤンにとっては、目の前にいる男の黒い瞳は、白内障の老人にも似た濁りを持っ ているかのように思えてならず、つい目を逸らしたくなった所で、ニュルブリンク少佐は 低い声を発した。 「元帥閣下、いや、元元帥閣下が、どうして一介の一兵卒にこだわるのです? 聞けば、 大尉は独断で、死の直前、卿に会ったというが、何を話したのですかね?」 「サインをさせられました。私は字が下手だからと断ったのですが、どうしてもと言うも ので。彼の自室にありませんでしたか?」 「ああ、しっかりと額に入れられてありました。」 「と、いうことは、彼が私に何をさせたのか、もうお調べになっているのですね。」  ヤンらしくもなく(一応、彼にとっては精一杯の演技であるのだが)、口の端に浮かべ た笑みに、部下を権威でもって制圧するタイプのニュルブリンクは、目の前のデスクを拳 で叩いた。 「回りくどい言い方はよしてもらおう! 大尉は卿に何を話したのです? 言っておくが、 事実無根です!」  『おやおや、これはこちらが何も言わぬうちから、向こうは尻尾を出してきた。』  ヤンは、笑いたい気分をこらえていた。いや、実際吹き出してしまっていた。 「ですから、先ほどから申し上げているように、私はサインを求められ、それに応じただ けです。事実無根、とは何のことです? 少佐。」  この意地悪い質問に、少佐は額に浮き出た汗を拭うこともせず、ヤンを恨めしげに見上 げた。 「ふん。上手く自白させられてしまいましたな。ペテン師の異名は、伊達ではないという 訳か。まあいい。こうやって私に会いに来てくれたからには、知らぬふりをしてくれると いうのでしょう? 確かに、それが一番話が早い。卿も、年金額が減らされて困っている のでありましょう? いくら希代の天才といえど、ない金を作り出すことはできませんか らな。」 「確かに。金がなければ、生活はできません。」 「口座に振り込むなどという痕跡は残せません。現金で今日のうちにも、卿の家に届けさ せましょう。これだけでどうです?」  言うと、彼は指を三本立てた。  その指の意味する、金額のマルの数がいくつなのか、ということには、ヤンはまるきり、 興味がなかった。  彼は帝国貴族の真似をして、恭しく(心の中では舌を出していたが)頷きながら答えた。 「よろしいでしょう。では、私はこれで。ああ、それで、彼の葬儀には立ち会わせてもら えるのでしょうね?」 「ご自由に。葬儀は今日の午後からです。しかし、あくまでいち個人としてお願いします ぞ。」  いまや撃沈されかけている自尊心を最動員させているかのような、堂々としたふりをし ている少佐に背を向けながら、ヤンは指を差して毒づきたいのを必死でこらえていた。   「あなた。どうなさるおつもりなんですの? まさか本当に、お金をもらってことを穏便 にすますつもりですか?」  自宅に帰るまでの車の中、運転をオートにしたまま、フレデリカは運転席に座ったまま、 夫に尋ねた。 (そうなのである。運転技術においても、妻にまるきりかなわない彼は、万が一マニュア ル運転が必要になった場合は、この優秀な元副官に任せることにしていた)  ともあれ、ヤンは、格好をつけて腕を組み、二秒ほど間を置いて答えた。 「くれるというものはもらう主義だが、ちょっとコレはもらいたくもない種類のものだね。 ……フレデリカ。」 「え?」 「私は、喪服をちゃんと持っていたろうか? 軍にいた時は、軍服で葬式に出ればよかっ たんだが、今は民間人だし。」  既に彼の頭が(一時とはいえ)、策謀めいた推理劇から、兵役期間終了間際に死ぬこと になった一青年の死を悼みいるものに変わっていることに、彼女は気づいた。 「ええ。ちゃあんと今朝から、用意してあります。」 「なんだ。葬儀に出たい旨は、あの少佐の前で始めて口にしたのに。君には、私の行動の 予想がついていたのか。なら、私がやろうとしていることも、だいたいはわかるだろう?」 「全て、という訳ではありませんけれどね。でも、結局の所、どうなんです? 大尉は本 当に、諜報員だったのでしょうか?」 「違うと思う。しかし、後ろくらい所のある者は、とかく、個人の悪意なき行動に裏を感 じたがるものさ。どちらにせよ、あの少佐は何らかの『罪』を犯していて、あの青年が憲 兵の類だと思いこんでいた。」 「そうですわね。……私も、ちょっと調べてみました。考えてみれば、あの青年が二等兵 であれば、殺されることもなかったかもしれませんものね。あの大尉さんが、どうして職 業軍人でもないのに、あの若さで大尉だったかについてが、わかりましたわ。」  これについては、ヤンも疑問であったため、フレデリカの言葉に、思わず彼女の顔を覗 き込んだ。まさか、彼女は危ないことをしたのではないか? という疑問が、ヤンの頭に 浮かんだ。 「ご心配なく。彼が、我が家を見張っていた時、いつもコンビを組んでいた青年に、窓か ら『それとなく』聞いたんです。彼同様、コンビの方もきさくな方でして。よもやま話と して話してくれましたわ。ヴェンドリンガー大尉は、何しろシステムエンジニアでしたか ら。以前、カイザー直属艦隊にいた時に、新しい暗号文形式のプログラムを作成したとい う件で、一等兵に。さらに、その才能を買われ、いくつかのプロジェクトを手がけて、大 尉になっていたそうです。カイザー・ラインハルトの旗下では、有能な者は出世できます からね。でも、彼自身は、『徴兵期間が済んだら、本職に戻る。』と漏らしていたそうで すわ。」 「なるほどね。ご婦人の雑談だと思えば、堅苦しい軍人さんの態度も緩むという訳か。何 にせよ、一つの疑問は解決した。しかし、彼の上官は、彼がなまじ大尉であったことで、 余計に疑心暗鬼になったのだろうな。」 「ええ。嘆かわしいことです。」  フレデリカが、小さく頷いた所で、車は彼らのささやかな家に到着した。    その日の夕刻、カール・ヴェンドリンガー大尉の葬儀は、簡素かつ、軍人ばかりの中形 式的に行われた。それはいわば仮葬儀と称した本葬儀であり、本国に彼の遺体を送り返し ても、受け取る家族がいないため、ヴェンドリンガー大尉の遺体はハイネセンの共同墓地 に葬られることになった。 『彼は、密かに憧れていた国に眠るつもりでここに来た訳じゃないだろうに。……まった くもって、戦争が終わった後にまで、無駄に血を流すなんて、なんて愚考だろう。』  口にすることもかなわない、言いしれぬ感傷にひたりつつ、ヤンは土に帰っていく青年 の棺をじっと見ていた。    事件は、葬儀の帰り道に起こった。  一応軍の葬儀だから、ということで送迎をしてくれたリムジンの運転手が、いきなり人 気のない路地で車を止めると、後部座席のヤンに銃口を向けたのだった。  ところが、元々「いち民間人」として参列するはずだった葬儀に、しかも運転手つきで 迎えが来た時から、きなくさいと思っていた、ヤン婦人こと優秀なる元副官は、俊敏な動 作で喪服のポケットから取り出した小型銃を、身を乗り出していた運転手のこめかみに突 きつけた。 「あなたがトリガーを引くよりも、私の方が早いわ。諦めなさい。」 「ぐっ」  短くも悔しそうな声を上げ、痩せぎすで灰色の髪をした、一応帝国軍人の服を着込んだ 青年は、唇を噛んだ。  形式的とはいえ、同盟に自治が認められている限り、いち軍人が民間人であるヤンを襲っ たということになれば、彼の身柄は正式に同盟警察に引き渡されることになる。  おそらく彼は、「ヤン・ウェンリーを暗殺すべし」といった任務を受けただけ。詳しい 事情は聞けないだろうが、ヤン夫妻はともあれ、物騒な暗殺者を警察に引き渡した後、警 察の護送車に乗せられて家へと戻った。 「やれやれ。普通は『夫が妻を守り、幸福にする。』って言うのが、決まり文句なんだが、 私の場合は、妻に守られているらしいな。」  冗談にならないシャレを、喪服のネクタイを緩めながらヤンが言う。フレデリカは、先 ほど彼女の夫の命を救った銃を、テーブルの上に置いた後、静かに笑った。 「それもいいじゃありませんか。そういえば、はるか昔、まだ人類が地球にいる頃に、流 行った宣伝文句を見たことがあります。『幸せにしてくれなんて言わない。私があなたを 幸せにしてあげる。』というものです。私は、この言葉が好きですわ。」 「確かに、君は私にはすぎた妻だよ。君といれば、幸せにしてもらえそうだ。」 「お褒めにあずかり光栄ですわ。あなた。」  そう言ったフレデリカが、ヤンが脱ぎ捨て、ソファに放り投げかけた背広を受け取り、 しっかりとハンガーにかける。  『まったく、私にはもったいない奥さんだ。』  ヤンは、心の底からそれを感じた。   「おい、ヤン。お前さん、事の顛末を聞きたいかい? つぶれかけていたケーキの外側と、 お前さんを暗殺しようとした小悪党との絡みについてな。まったく、あのメッセージのお 陰で、また時間外労働が増えた。」  ヤン婦人が、キャゼルヌ婦人に料理を習う、という名目をもって訪れたキャゼルヌ家の 居間で、食事の後、一杯の紅茶を飲みながら、皮肉めいた口調で言ったキャゼルヌに、ヤ ンは頷いてみせた。 「まず、ケーキの外側だ。お前さんのように退役した将官や、可哀相な俺のように、不当 にも監視がつけられている軍人は多くいる。その中には、監視兵の上官たるニュルブリン クに賄賂を送って、監視の目を盗んでちょっとばかり羽目を外す輩もいたのさ。……そし て奴は、そいつらから甘い汁を吸って、勤勉に職務に勤めていた。」 「まあ、そんな所だろうと思ってましたがね。で、ヴェンドリンガー大尉は、これまた偶 然、それを知ってしまった。」 「コンピュータに精通していた彼は、監視兵として勤める傍ら、所属部隊のデータ管理の 任にもついていた。そして、知ってしまったのさ。彼の上司の口座に、不当な収益がある ことを。」  キャゼルヌは、カップを高く掲げた。 「そして、彼はどうやら、損をする正直者の類だったらしい。上官である少佐に、賄賂取 得を辞めるよう進言したのさ。」 「上官は、さぞかし慌てたでしょうね。カイザー直属部隊から来た、憲兵ではないかと疑っ ていた者から、急にそんなことを言われて。」  ヤンは、まだ半分は中身の残っているティーカップを、ソーサーに置いた。琥珀色の液 体に、彼の黒い瞳が写り、ゆらゆらと揺れた。  その様子を見ながらも、キャゼルヌは続けた。 「その後、彼はコンピュータと電話その他一切の、外部との連絡を取りうる物を取り上げ られ、勤務する時以外は、事実上、軟禁状態となった。多分彼も、自分の身の危険を感じ たんだろう。」  キャゼルヌの言葉を、ヤンはおし黙ったまま聞いていた。 「最後の勤務の日、彼はお前さんに会った。もうダメかもしれないと思い、最後に憧れて いた人物と歓談してみたかったためなのか、それとも、サインを貰う、ということで、そ の裏で何か情報伝達がお前さんに行われたのではないか、と思わせ、上司を混乱させるこ とで、せめてもの意地悪をしたかったのか。」 「どちらにしても、死人から真意を聞く訳にはいきませんね。……それで、賄賂を送った 連中、送られた奴を、どう処理したんです?」 「賄賂を送っていた、という証拠を挙げることなんざ、なんでもないさ。軽犯罪とはいえ、 全員検挙させたさ。彼らがこぞって、ニュルブリンクに賄賂を送った、と証言したから、 帝国軍駐在部隊側としても、そのような不徳の輩を放置する訳にもいかず、ニュルブリン クの階級剥奪、更迭が決まったそうだ。いや、それだけじゃない。ヴェンドリンガー大尉 殺人罪で、起訴されるらしい。帝国軍の軍規にのっとってな。」  泥水でも飲むような顔をして、紅茶を飲むキャゼルヌの顔を、ヤンは無表情に見つめた。  『あの青年は、徴兵期間の最後に、同盟を見てみたかっただけに違いない。だのに、不 本意にも賄賂事件に巻き込まれ、もしかしたら、私に助けを求めて来たのではないか?  もしそうなら……』  考えると、気は滅入る一方であった。  結局、彼は飲みかけの美味しい紅茶を、珍しくも残す結果となった。   「こんなことをしたからと言って、不当に殺されたあの青年が生き返ってくる訳でないこ とは、わかっているんだがなあ。」  キャゼルヌ家から自宅に戻り、ブランデーの入ったグラスを揺らめかしながら、ヤンは 壁よりはるか向こうを見るような目をしていた。 「あら、でも、第二、第三のヴェンドリンガー大尉を出さなくて済んだことは間違いない でしょう? それでよしとしませんか?」  いきなりブランデーの瓶を取り上げたフレデリカに、ヤンは抗議とも哀願ともとめる瞳 を向けた。 「あなたの考えていらっしゃることは、だいたい想像がつきます。でも、『もしあの時こ うしていれば』なんて考えるのは、奢りだって、以前おっしゃってませんでした?」 「そうだろうか。本当にそう思うかい?」 「はい。思います。……でも、あなた。」 「何だい?」  からかうようなおどけた笑顔から、いきなり真顔になったフレデリカに、かすかにヤン はのけぞった。 「酒量が増えては、家計に響きます。第一あなたは、本来働かずにのんびり暮らすつもり で、退役なさったんでしょう? だのに、今回のように、自らを囮にするような働き者な 真似は、もう絶対にしないで下さい。」  ブランデーの瓶を抱えたまま、眉根を寄せているフレデリカに、ヤンは降参とばかりに 手を挙げた。 「いや、囮になるつもりはなかったんだよ。いくら『サインが云々』とほのめかし、何か あったかのような口ぶりをして見せたからって、あそこまで胆略的に動くとは予測しえな かった。私としては、あの会話を録音しておいて、証拠の一つとして……」 「言い訳はたくさんです! とにかく、罰として、このブランデーは没収します。」 「そんな……君は、キャゼルヌ夫人から、本気で夫のしつけ方を習うつもりなのかい?」 「ああ、名案ですわね。料理ばかりでなく、本気でそれも、習いに行くことにしようかし ら。」  言うと同時に吹き出したフレデリカにつられ、表情をこわばらせながらも、ヤンも笑っ た。それは確かに、幸せな夫婦の一時であった。    その後、半ば脱出する形でハイネセンを起つことになるとは、まだ予測しえない、二人 の新婚生活のお話である。   ENDE
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