「天上銀河英雄伝説」 第六章 出兵

「プロージット!」  カイザーの華麗なる一言のもと、提督らの手にあるグラスは投げ捨てられた。  四散するガラスの破片が、彼方にある星々のようにきらめく。もしかするとそれは、 戦艦主砲によって撃沈された艦艇の最後の輝きにも似ていたかもしれない。  何はともあれ、帝国陣営では、出撃にあたり、「儀式」が行われていた。  この瞬間には、独特の空気が流れる。  次に会う時には、ともするとこのうちの誰かの顔を見ることはかなわぬかもしれな い……そんな思いが、各提督らの頭の片隅にあった。割れたグラスはやもすると、誰 かの身体になるかもしれないのだ。  ちなみに、その中には、ロイエンタール元帥の姿はなかった。  他艦隊に先んじて、彼の艦隊だけはまっ先にフェザーン回廊へと赴いていたのであ る。そのため、「双璧」の両方を欠いたラインハルト陣営であったが、その代わりに ……各提督らを安心させるに足る存在、キルヒアイスがその長身を直立不動にしたま ま、最前列に立っていた。  いつの間にか、ラインハルトのみでなく、他提督らにとっても、ジークフリード・ キルヒアイスは無くてはならぬ存在となっていた。  オーベルシュタインは、その事実を面白くないと思っていたが、彼はある意味柔軟 性には富む男であった。  彼の「ナンバー2不要論」は以前と全く変わっていないが、「キルヒアイス提督」の 名によって、諸侯の「この戦いは何のために成されるのか」という疑問から逸らされ るならば、彼にとってそれは望むところなのであった。  この戦いは、ある意味平和に暮らしていた彼ら提督らの生活を壊し、再び戦乱と困 難をもたらすものである。  現在の所この戦いの意義は、カイザー・ラインハルトの「威信」によってのみ支え られている。しかし、かつて彼らが貴族連合軍、自由惑星同盟と証する反徒と戦った 時のような「大義名分」はない。  「ヴァルハラに秩序を」という言葉には、生前彼らが戦った時ほどの大義にはなり 得ないのだ。確かに秩序と統制こそはなかったが、ヴァルハラの住人達は、それなり に平和を満喫していたのだから。  あえてそれを破壊し、戦乱を巻き起こすのは、ある意味愚行と言えなくもない。そ して、戦うべき敵は、憎むに足り得る「組織」ではない。あくまでその平和を守ろう とする「旧自由惑星同盟勢力」なのである。  彼の張り巡らせた情報網によれば、自由惑星同盟方面では、急遽選挙が行われ、暫 定政権が作られたというが、それとて、「共和政治における軍」の大義にこだわった ヤン・ウェンリーに出兵命令を下すための「器」にすぎない(しかも、その選挙にて 彼が選ばれたというのだから、「皮肉だな」と皆が囁きあっていた)。  カイザー・ラインハルトは、生前結局「勝つ」ことのできなかった敵を倒す、ただ その為だけに、戦おうとしている。  これを私戦と言わずして何というのか?  冷静なオーベルシュタインは、そのことを誰よりもよく理解した上で、参列してい た。  彼は結局の所、自己の欲求でもある「覇者を覇者たらしめること」に徹するしか道 はなく、そのためには、自らが最も憎んでいたはずの「ナンバー2」、キルヒアイスの 糾合力を期待するしかなかったのである。   「陛下。この機におよんで尋ねるのもなんですが。」  解散の後、出撃直前になってラインハルトに会見を望んできた、オーベルシュタイ ン元帥の言葉に、ラインハルトは舌打ちをした。彼はいつも、ラインハルトの気分を 損ねる質問をするのが上手い。  今回もまた、そうではないのか、そうラインハルトは、謁見室で義眼の主を前にし て予想した。  だが、オーベルシュタインの方は、ラインハルトの不快感など意には介さず、単刀 直入に聞いてきた。 「どうして、フェザーン回廊ではなく、イゼルローン回廊が戦場になる、と踏んだの です?」 「ああ、そのことか。」  ほんのわずかにほっとしたような顔で、ラインハルトは頷いた。そして、きりりと オーベルシュタインを睨むと、 「フェザーンの黒狐の近くで戦争をするなど、余はごめんだ。元々卿ではないか。あ の黒狐が勝手知ったるあの星に逃げ込んだと調べて来たのは。第一、これも卿が伝え た情報によれば、敵も結局同じことを考えたではないか。」 「しかし、陛下がイゼルローンを戦場に選んだのは、私がそれらの事実をお伝えする 前でした。」  あくまで冷ややかなオーベルシュタインの声に、ラインハルトは辟易して答える。 「簡単だ。卿に言われるまでもなく、フェザーンには不確定要素が大きすぎた。対し て、イゼルローンには要塞もなく、宇宙しかない。ヤン・ウェンリーとの決着をつけ るのにはイゼルローン回廊しかない。」 「また、ヤン・ウェンリーですか……」 「何だ。何が言いたい。オーベルシュタイン!」  つい、怒声を発したラインハルトに対し、オーベルシュタインは首を振った。 「いえ。陛下があくまで、あの男にこだわられるならば、それもいいでしょう。では もう一つ、失礼ついでにお尋ねいたします。どうして、ロイエンタール元帥をフェザ ーン回廊へ行かせたのです?」 「それも、簡単なことだ。ロイエンタールは、戦略的に無用な戦争を引き起こすよう なことはしない。この戦いに、旧フェザーンだの、地球教だのという第三、第四の勢 力に参戦してもらっては困る。ロイエンタールには、その余計な二派を、皮肉なこと だが、旧自由惑星同盟勢力と協力して牽制してもらう。そのような器用な真似ができ る提督が、他にいるか?」 「確かに、適任でございましょう。彼は、ノイエ・ラント総督でありましたし。旧自 由惑星同盟勢力のあしらい方も心得ておりましょうから。」  オーベルシュタインは、深々と頭を下げた。  その様子こそまさに、慇懃無礼と言わんばかりのもので、ラインハルトは秀麗な眉 をひそめた。 「卿のことだ。ロイエンタールがまた謀反するのではないか、とでも言いたいのでは ないか?」  その嫌味にも、オーベルシュタインは全く動じなかった。 「いえ、その心配はありますまい。彼を陥れる者もおりませんし。それだけの武力も ありません。」 『そうくるか』  ラインハルトは、小さく舌打ちをした。 「ともかく、ヤン・ウェンリーの方も、あのマル・アデッタで見事に戦った、尊敬に 足るあの老提督、ビュコックなる者を派遣してきているのだ。フェザーン回廊にはそ れ相応の地位と知力と、常識を持った人間に行ってもらわねばならん。……まだ質問 があるか?」 「いえ。ございません。」  そう言うと、オーベルシュタインは軽く一礼をして、ラインハルトの前を去った。 「全く、あの者に会うとどうしてこう、気分が悪くなるのだろう?」  小さく呟くと、ラインハルトはマントを翻し、立ち上がった。 「キルヒアイス、キルヒアイス!」 「そんな、大声を出さなくてもちゃんとここにいますよ。ラインハルト様。」  隣の控え室から姿を現したキルヒアイスに、ラインハルトは苦笑いしてみせた。 「すまん。どうも、俺は未だにオーベルシュタインが苦手だ。あの者は、いつも痛い 所をついてくる。そして、いつも正しい。だからこそ、勘に障るのだろうか。」 「そんなに煙たがることもありますまい? 彼とて、よかれと思って進言しているの ですから。それに、私が奥の間に控えていることに対しても、文句を言わなくなった ではありませんか。彼とて譲歩しているのですよ。」 「全く、お前は優しすぎる! だからお前は……」 「ラインハルト様と、アンネローゼ様にだけ優しければよいのでしょう? そう心が けていますよ。」  言いたいことを先回りされ、ラインハルトは息をのんだ。 「そうだ。わかっていればいい。もっとも、姉上がここにいらしたら、と想像するの は、ある意味最も幸福かつ不幸だな。」 「アンネローゼ様に、ここに来てもらっては困ります。あの方が来るということは、 若くして命を失うということなんですから。」 「まあ、そうだ。しかし、今ならば……いや、言っても仕方のないことだな。さあ、 出撃だ。ブリュンヒルトが待っているぞ。」 「はい。」  あくまでにっこりと笑うと、キルヒアイスは、皇帝の謁見室のドアを開けた。        一方、こちらはヒューベリオンの艦橋、例によってテーブルの上であぐらをかいて いるヤンに、グリーンヒル大将が尋ねた。 「今更だが、どうして、フェザーン回廊ではなく、イゼルローン回廊が戦いの場にな ると踏んだのです?」 「あの、参謀長……頼みますから、敬語はやめて下さいよ……」 「と言っても、君は元帥で、私の上官だ。公私混同はやはりよくないだろう。」  そう言ったグリーンヒルもまた照れくさそうで、ヤンは頭をばりばりとかいた。 「ともあれ、イゼルローンが戦場になると踏んだのは二つの理由があります。一つは、 フェザーンには星があって、おそらくルビンスキー一派が潜んでいるだろうこと。そ の後ろには地球教もいるだろうこと。二つ目は、カイザーのロマンチシズムです。意 識してはいないでしょうが、彼は、私に『勝つことができなかった』イゼルローン回 廊に執着している筈です。まあ、自意識過剰ですけどね。結局、当たってしまった訳 です。」 「なるほど……。では、ビュコック提督の役割は、やはり、フェザーン勢力を押さえ、 地球教を撃つことですか。」 「まあ、カイザーの方も、有能なるロイエンタール元帥を派遣してきたのですから、 あっちでは帝国対旧同盟という愚の骨頂な戦いにはならないでしょうね。奇妙な図式 ですが、両提督が協力して、フェザーンと地球教に対応することになるでしょう。で も、何も殲滅する必要はありませんよ。」 「しかし、こういう言い方は失礼ですが、ヤン元帥が、二度も暗殺されてはシャレに ならないではないですか?」 「いや、それは私とてごめん被ります。ですから、ビュコック提督には、大いにがん ばってもらわないと。」 「なるほど。」  聞きようによっては、敬語を使いあう元帥とその参謀長、または義理の父子のこの 会話は妙ちきりんなのだが、ヒューベリオンに乗っている船員達で、それにつっこみ を入れる者はいなかった。  ……要するに、皆この奇妙な「艦隊総司令官とその参謀長の関係」を楽しんでいた のである。そして、グリーンヒルとヤンが、照れながら頷きあった時、艦橋下から声 が上挙がった。 「提督、全艦出撃準備整った、と各提督より入電ありました!」  オペレーターの声に、ヤンはゆっくり頷いた。 「では、発進!」  さすがの寝坊助元帥も、頭のベレー帽をかぶり直し、命令を下す。  ヒューベリオン(もっとも復元ヒューベリオンなのであるが)艦橋に、ごくごくわ ずかなGがかかった。  ハイネセンもどきの上空にある宇宙港より、こうしてヤン艦隊は出撃したのである。   「で、どうなさるおつもりです?」 「どうする、って何がだい?」  ブランデー入りの紅茶を飲みながら、シェーンコップ、コーネフ、ブルームハルト らに囲まれて、休憩室にてくつろいでいたヤンは、意地悪そうに微笑んでいるシェー ンコップに、しらばっくれた顔を向けた。 「とぼけても無駄ですよ。今後のことです。」 「どうするもなにも、カイザーと戦って、適当な所で停戦を申し込んで、こっち側の 宙域の民主政権を認めてもらうのさ。それだけだよ。」 「それは、わかっています。問題はその後ですよ。」  椅子に腰掛け、足を組み替えたシェーンコップに、ヤンは肩をすくめてみせた。 「提督、素直に答えるしかないんじゃないですか? カイザーとの和平成立後、あな たはどうするんです? 民衆の上に立つんですか?」  コーネフまでが、意地悪く笑いかける。ヤンは、深く深く溜息をついた。 「冗談じゃないよ。私は、議長なんてまっぴらごめんだ。和平が成立したら、今度こ そゆっくり引退して、好きな時にお茶を飲んで、歴史の研究をしながらブランデーを 飲み、静かに暮らすのさ。」 「そんな自堕落な生活も、あなたらしいと言えばらしいんですけどねえ……ハイネセ ンもどきでは、ミセス・ラップがあなた用の椅子を用意して待っているそうですよ?」  ブルームハルトの言葉に、ヤンはうんざりした顔で机を叩く。 「それについては、ジェシカから、メールが来てたよ。暫定政権の支持率は、ヤン提 督の名でアップしている。あくまで、自分はヤン提督の帰還までの議長しかやらない から、よろしく、だとさ。全く……」  ぼやき続けるヤンは、まるきり子どものようで、皆は一同に腹を抱えて笑った。 「失礼だなあ。何がおかしいんだい?」 「おかしいですよ。だって、市民の自由意思により、あなたは選ばれたんですよ?  その自由意思に逆らうんですか?」  コーネフの言葉に、ヤンは首を振った。 「立候補してない人間の当選なんて、無効だ、無効! 第一、私は政治家なんて器じゃ ないよ。」 「軍人よりは、マシなんじゃないですか? この際、市民の期待に応えてあげたらど うです?」 「シェーンコップ、生前から思ってたが、どうして君は私をけしかけるんだい? 全 く、生前働きすぎたと思っているのに、どうして死後までこんな戦いをしなきゃいけ ないんだか……」 「あなたが提唱し続けた民主共和制の為、ですよ。決まってるでしょう? 忘れてや しないでしょうね。あなたがあんまりにもそれにこだわったから、とばっちりを受け たヤン未亡人は今頃、あっちの世界のドーリア星系、ハイネセンにて奮闘してるんで すよ? ダンナの方だけがのんびり紅茶入りブランデーを飲んでていい法則はない。 それとも何ですか? 触れもできない奥方の事などはもう、どうでもいいと?」 「そう虐めるなよ。シェーンコップ。だったらこの際言わせてもらうが、フレデリカ の事を出すなら、君はどうして、あの副官を私につけたんだい? そりゃ、有能なの は認めるが。」  とうとう、ふてくされてベレー帽を指にひっかけ振り回し出したヤンに向かって、 シェーンコップはにやりと笑った。 「ヴアルハラに来た途端、女っ気のなくなったあなたの横に、花を添えてみたくなっ たんですよ。どうです?  美人ですし、パートナーとしては丁度いいじゃないです か。」 「さっきの、『奥方なんぞどうでもいいのか』発言と著しく矛盾してないかい?」  ヤンは横目でシェーンコップを睨んだが、その程度でひるむシェーンコップではな かった。 「いいんです。あなたは矛盾の象徴だから。」  この一言には、ヤンも黙らざるを得なかった。  丁度その時、休憩室のドアが、小さな機械音と共に開いた。 「皆揃って、何をのんびりしているんだか……。まあ、これが名高いヤン・ファミリ ーの所以と言う訳か。」  入って来たのは、グリーンヒル参謀長だった。  しかも、その後ろには、丁度話題になっていた、ヤンの副官、マンセル大尉までい る。 「ですから、ここにきっといらっしゃる、と申し上げましたでしょ? 参謀長。」 「ああ。確かに、九十六%というのは伊達じゃあなかったようだね。カイル。」 「……何の話です?」  怪訝そうな顔をするヤンに、グリーンヒルはあくまで紳士的に笑ってみせた。 「ちょっと、確認しておきたいことがあってね、君を捜していたんだが見つからなく て。カイルに聞いたら、多分ここだろうと言うんだ。しかも、生前の行動パターンか ら分析するに、九十六%の確立だ、と。」  かくり、と音がしそうな勢いで、ヤンは肩を落とした。  どうやら、彼の新しい副官は、頭の中がとことんデジタルにできているらしい。 「と、言うわけで参謀長。賭は私の勝ちですわ。紅茶を奢って下さる約束ですよ。」 「わかった。わかった。」  カイルに言われて、頭をかくグリーンヒル大将は、さながら娘にねだられる親のよ うだった。それだけ、親しかったということなのだろう……カイル大尉と、フレデリ カことヤン夫人が。  しかし…… 「律儀でお堅いグリーンヒル大将に賭を持ちかけるとは、なかなかやるもんだな。マ ンセル大尉。」 「ええ。ヤン艦隊に所属するからには、参謀長にも、このくだけた雰囲気に慣れても らわないといけませんからね。」  シェーンコップのからかうような口調に全くひるまず、カイルは手を口に当てて笑っ てみせる。  どうやら、この有能な女性はヤン艦隊に所属するべくしてやって来たようである。  ヤンが半ば呆れながらも、必死で、場の雰囲気を戻そうと、父、グリーンヒルを見 上げた。 「で、確認したいこと、というのは何だったんですか? 参謀長。」  この言葉に、グリーンヒルは、ようやく口元から笑いを消し、真摯な表情に戻った。 「どうやら、敵艦隊も出撃したらしいのです。このままいけば、元帥の予測通りの地 点で遭遇するでしょう。各提督にこのことを伝令してよろしいでしょうか?」 「もちろんです。……ですからあの、敬語は……」 「いや、公私混同はいけない。職務上の話をする時は、やはり上官に対するものでな くては。」 「いくら、義理の息子であっても、ですか? 参謀長。」  吹き出して笑っているカイルに、グリーンヒルは、まるでヤンの癖が移ったかのよ うに、頭をかいた。そんな様子を見て、カイルは笑いを止めると、ヤンに向き直った。 「ならば、私はオペレーターに、各艦隊に伝令するよう伝えてきます。あと、陣形を 再編成すること、作戦回路A〜Eの構築。それでよろしいですか? 提督?」 「ああ。頼むよ。作戦回路への入力はどの程度進んでる?」 「もうすんでますよ。もちろん、その都度書き換えが可能ですから、艦隊戦中にも、 回路のどれを開くか指示するだけで、敵に傍受されることなく、迅速に作戦を指示で きますよ。ちなみに入力は、ヒューベリオンからと、フィッシャー提督の乗るシヴァ からしか行えません。」  ヤンの言葉に、あくまでカイルは笑顔で答え、敬礼をした。 「では、私は任務に戻りますので、後は義理の父子の交流をはかってください。では。」  百八十度回転して、部屋を出ていくカイルを、一同は溜息とともに見送った。 「やれやれ。やっぱりもう少し色気のある人選をするべきだったかなあ。あれでは、 我らが元帥閣下との親交を深めてくれそうにはない。」 「……君は、何を考えてたんだね?」  シェーンコップのぼやきに、グリーンヒル参謀長が、こころもち低い声を出した。  ヤン艦隊は、かつてとは違った面々を加えながらも、やはりイレギュラーズなので あった。   続く
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