「天上銀河英雄伝説」 第五章 出撃準備〜ラインハルト編〜

「キルヒアイス」 「何でしょう? 陛下。」 「閣下はよせ。再会してから、何度同じことを言わせる? 皆の前ではともかく、俺とお 前だけの時は『陛下』などと呼ぶな。」 「はい。ラインハルト様。」  にこやかに笑った赤毛の青年を見上げつつ、ラインハルトの私邸……といっても、官舎 に毛が生えたようなごくごく質素なものであり、しかもキルヒアイスの家の真横を強引に 占拠して建てられたものであったが……の居間、ゆったりとした肘掛け椅子に座っていた。  ちなみに、ここはノイエ・オーディンへでの彼らの仮住まい。明日には、及び幕僚会議 を控えた夜のことである(ラインハルトのこの我が儘のせいで、彼を警護する憲兵達は、 この館の周辺で交代警護をしていたのだが、それはまあ余談である)。  ともあれ、ラインハルトの傍らに立ち、あくまでにこやかに笑っているキルヒアイスの 顔には、生前となんら変わらぬ優しさがたたえられていた。 「俺は、宇宙を手にいれた筈だった。だのに、いつも空虚だった。」 「それこそ、何度も聞きましたよ。」 「何度でも聞け。先に死んでしまったお前が悪いんだからな。」 「はあ……」  『これは困った。また少年時代に逆戻りしている。』  内心困惑しながらも、キルヒアイスは、自分を真っ直ぐ見上げてくる、氷色の瞳を見つ めた。 「アンスバッハを探し出して処断するな、とはどういうことだ。奴は、お前を殺したんだ ぞ! 聞けば、お前は俺が来る前、あいつに会って歓談したと言うではないか!」  ラインハルトの言うのは事実であった。  ブラウンシュバイク公の傘下にあって、ファーレンハイト、メルカッツ両名を除けば、 おそらは唯一、まともな神経の持ち主であったアンスバッハは、死後、辛くも同じ日を命 日とするキルヒアイスの私邸を訪れていた。  彼は、ブラウンシュバイク公の許には身を寄せず、ひっそりとヴァルハラの辺境で暮ら す旨をキルヒアイスに伝えた。さらに、アンスバッハは、将来有望なキルヒアイスを結果 的には「殺して」しまったこと、ひいてはブラウンシュバイク公への最後の忠誠の証とは いえ、(当時)ローエングラム公を殺そうとしたことを謝罪したのだ。  正直な所キルヒアイスは、横暴な主人に仕えざるを得なかった、アンスバッハに同情す ら感じていた。ゆえに、アンスバッハの訪問に対し、キルヒアイスはあくまで紳士的に対 応した。  追い返されることも覚悟していたらしいアンスバッハは、居間に通され、ソファに腰を おろしはしたが、落ち着かないそぶりで、いきなりキルヒアイスに頭を下げた。 「私は、ブラウンシュバイク公に仕える身だった。ゆえに、ある意味愚行と知りつつも、 あのような行動に出たことを詫びても、詫び切れぬものではない。しかも、ローエングラ ム公ではなく、卿の命を奪ってしまうとは! 公を無理やり自害させたのに、その遺志す ら継げなかった私はもう、ブラウンシュバイク公には会わせる顔がない。もちろん、卿の 前に出られた立場でないのもわかっている。しかし、卿は私に恨みもあろう。だから、卿 に、私を殺して欲しいのだ。」  この言葉に、キルヒアイスは危うく飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。  やっとのことでそれをこらえ、アンスバッハの顔を見る。明らかに、彼は大まじめであっ た。キルヒアイスは、出されたコーヒーを飲みもせず、深く深く頭を下げたアイゼナッハ に、しどろもどろで声をかけた。 「お顔を上げてください。准将。いえ、このヴァルハラではその呼び名は無意味ですね。 とにかく、我々はもう死んでいるのです。この上で、なおあなたを殺すというのは不可能 ですよ。」 「わかっている。しかし、ここはいわば停留所だと、卿とて聞いているだろう。私は、卿 の手で、前世の罪を精算し、新たなる生まれ変わりの道につきたいのだ。このままでは、 あまりに卿に申し訳ない。」  アンスバッハの言葉には、嘘偽りがあるようには思えなかった。 「私にはそんなことはできません。確かに、私はあなたによって殺害された、そういうこ とになるのでしょう。しかし、もう過去のことではありませんか。何もヴァルハラに来て まで、人が人の命を奪う、というような行動をする理由にはなりますまい。」  キルヒアイスは、アンスバッハに頭を上げるよう促し、くれぐれも早まらないように (死んでいるのだから、妙なものではあったが)諭し、低調に見送ったのであった。  以後、アンスバッハの行方はようとして知られていない。  ちなみに、これはヴァルハラでも美談として語られており、後にやってきたヤン・ウェ ンリーなどには、お茶会の席上で賞賛されたのだが…… 「信じられん! いいか。奴は少しはマシな奴だったのかもしれん。しかし、馬鹿な主君 の仇をとろうとした上に、俺ではなく、俺の片翼であるお前をもぎ取っていったのだぞ。 万死に値する。俺だったら、望みどおり、生まれ変わらせてやるのに!」  両手を握りしめたラインハルトに、キルヒアイスは二度、首を横に振った。 「ラインハルト様、いけません。この後に及んで、そのような処置はなさるべきではない でしょう。……そうですね。それならこういう考え方はいかがです? 恥じ入ってさらな る死を求めた彼を、素直に生まれ変わらせてやることは、あまりに親切なのではありませ んか? 彼の行方はそのままわからなくなりましたが、おそらくは、神によって新たなる 行方を決められるまで、 静かに暮らすつもりなのでしょう。それは、ある意味辛いことだ と思いますが……」  かすかに笑ったキルヒアイスに、ラインハルトは舌打ちをした。 「まったく、詭弁を弄して! お前はだいたい、優しすぎるんだ。言っておくが、今度死 んだら容赦しないぞ。」 「承知しております。ラインハルト様。」  微笑んだキルヒアイスに、ラインハルトは、兵士達から「金髪の有翼獅子」と言われる 所以の金髪をばさりと背に払った。その頬に、かすかな微笑がある。キルヒアイスは、 『まだまだ、第二波が来るな』と、身構えた。 「では、お前は、このヴァルハラにおいてすら、戦争を行おうとしている俺の行動も愚行 だと思うのか?」 「そう来ましたか。ラインハルト様も、意地が悪いですね。」 「お前ほどじゃない。」  すねた様子のラインハルトに、キルヒアイスは、小さく肩をすぼめた。実際、彼は少々 困っていたのだ。この少年のような皇帝をどうなだめるか……これは、彼にとっては大艦 隊を殲滅するよりもはるかに困難な問題であった。 「このヴァルハラにも秩序をもたらす、それがラインハルト様の本望でしょう?」 「しかし、お前は俺が来る前、こともあろうにヤン・ウェンリーと交流を深め、毎日のよ うに歓談していたというではないか! 本当はお前は、戦いよりも、呑気な平和を望んで いたのではないか?」  我が儘を言い出したラインハルトに、キルヒアイスは両手を広げて見せた。 「ヤン提督に関しては、『友とできれば、これに勝るものはない』と 生前も申し上げた はずです。彼は、懐深く、度し難い人物ですよ。今となっては、敵を知るための事前調査 であったと思ってほしいですね。それに、二人の夢を、今度こそ二人でかなえる。……そ れだけでは、いけませんか? 私が再び、ラインハルト様と同じ道を行く理由は。」  これには、ラインハルトも閉口せざるを得なかった。  結局の所、死してなお、ジークフリード・キルヒアイスはラインハルトよりも「大人」 なのであった。    そして、いよいよ決戦準備のために、ラインハルトは、ノイエ・オーディン、さすがに 私邸とは少し離れた所に儲けた仮王宮(といっても、これまたせいぜい大使館ほどのサイ ズの質素なものであったが)の玉座に座り、各提督達を居並ばせた。  総司令官とはいえ、キルヒアイスも、一段低い場……諸提督の最前列に並んでいた。 「フェザーン回廊出陣のため、卿の艦艇制作は他に最優先させた。ロイエンタール、卿は この会議が終わり次第、早速出陣せよ。他の者は、余とともに、イゼルローン回廊へ向か う。余は、建造完了したブリュンヒルトに乗り、総指揮をとる。回廊に入るまでは凸陣形 を取り、回廊に入る直前に、縦列陣を組み直す。敵とは、おそらく回廊の中間地点で戦闘 を交えることになろう。第一陣は、ファーレンハイト、卿に任せる。今度は邪魔する者は おらぬ。以前のかりをかえしてやるがよい。ただし、二時間だ。二時間たったら、艦隊を 左右に割り、後方へ回り休息をとれ。さらに、第二陣は、ケンプ、第三陣はシュタインメッ ツ、続いて、レンネンカンプ、ルッツの順に並べ。その後ろに余が控える。最後尾はキル ヒアイスに任せる。後方補給基地より、建築された艦艇および物資が補給されてくる。そ れを、休息がたら後方に回った艦艇に対し、逐次配分する役目に当たってもらう。」  これは、以前バーミリオン会戦において、ラインハルトがヤンに対して取った、機動的 縦深防御陣の「狭い所バージョン、しかも大艦隊版」ともいえるものであった。  各提督は、一瞬『同じ手がヤンに通じるのか?』と危惧したが、狭い回廊の中で戦う以 上、ヤンの奇策とて限られるだろう。ただ、一個艦隊が突出して敵に向かうとならば、的 がU陣形をとれば、包囲殲滅が可能となる。その問題はどうするのか?  提督らの各々の口が、わずかな時差をつけて動きかけたとき、ラインハルトは静かに笑っ た。 「卿らの言いたいことはわかっている。敵の取ってくるだろう陣形はわかっていよう?  卿らはその挑発に乗るな。余の順番が回ってくるまで、忍耐を強いることになるだろう が、何しろ相手はあのペテン師だ。しかも、かつてあの男は、余に対しただ一個艦隊を持っ て戦うことを余技なくされてきたが、今度は違う。余とほぼ同数の艦艇を揃えての戦いに なる。おそらくは、正攻法で来るだろう。」 「おそれながら、閣下。」  口を開いたのは、ルッツであった。 「我々は、先手を打つため、あえて艦艇が全て出そろわぬうちに出撃するのではないので すか? どうして回廊内での戦い、と断定なさるのです?」  この言葉に、一同は急速に我にかえった。  ラインハルトの言葉には、絶対とも言える響きがこもっている。彼らの尊敬してやまぬ 皇帝が「回廊中間地点」と限定したがゆえに、彼らは納得してしまっていたが、よく考え てみれば、どうして回廊での戦いになる、と決めつける必要があるのか、不思議な事では あった。 「卿の疑問はもっともである。……しかし、余とあの男は、必ず同じ事を考えている。艦 隊が全て建造し終えるまで悠長にしているほど、ヤン・ウェンリーは馬鹿ではあるまい。 これは、キルヒアイス司令官も予期していることである。」  『キルヒアイスも』、という台詞に、各提督は納得せざるを得なかった。  何しろ彼が死んでからというもの、皆、「キルヒアイス提督が生きていたら……」が口 癖だったのだ。しかも、よくも悪くも、彼は死後このヴァルハラで、最もヤン・ウェンリ ーと親交が熱かった。そのため、「あの魔術師の人となり、作戦を打破していても不思議 ではない」と思わせる、ラインハルトとはまた違った意味でのカリスマ性が、キルヒアイ スには備わっていたのだ。  少なくとも、ラインハルト直近幕僚の中では。 「恐れながら、補足させて頂きますと、彼がとられるだろう戦法は、もうひとつ、考えら れます。回廊出口にて我が軍を待ち受け、包囲する作戦。しかし、回廊中心部には、膨大 な隕石群があります。これを、ヤン提督はおそらく、奇策を用いる鍵とするでしょう。ゆ えに、最初は回廊内での戦いになる、と断定したのです。」  控えめながらも、断然としたキルヒアイスの口調に、各提督達は頷いた。  ただし、一人だけ、ラインハルトの斜め後ろに控えている男、オーベルシュタインだけ は、眉をひそめていた。彼にとってみれば、「組織にナンバーツーは不要」という説をラ インハルトに完膚なきまでに否定された上、キルヒアイスは、ラインハルト陣営の中で実 質上のナンバー2となっている。  君主は絶対無比、一人であらねばならず、その意味では、あまりにキルヒアイスの発言 力と影響力が増すのは、彼にとっては許し難いことであった。  ただし、この戦いにおいて、キルヒアイスの進言した提案は至極もっともなものであり、 かつ戦略・戦術的にも正しいと思われたため、彼はあくまで沈黙に徹していた。ただし、 その心中では、『公衆の面前でキルヒアイス提督を、あまりに特別扱いすることだけは避 けてもらいたい』といいう旨だけは、ラインハルトに伝える覚悟を決めていた。  結局の所、彼の最大妥協点は、ラインハルトの心中はともかく、各提督にまで「キルヒ アイス提督は特別」が定着しないこと、であった。 「何か、質問はあるか。」 「二つ、ございます。」  ファーレンハイトの言葉に、ラインハルトは、小さく頷いた。 「隕石軍を陛下はどのように用いるつもりでありますか。また、陛下が最前線に出る順番 が回って来たとき、どうなさるおつもりですか。」  これは、全くもって妥当な質問と言えた。ラインハルトは、肩肘を玉座につき、自分の 頬に手をそえると、すぐにそれを離して、ファーレンハイト、続いて各提督を見据えた。 「隕石群には、指向性ゼッフル粒子発生装置の圏内に入ると同時に、ゼッフル粒子を放出 する。しかるのち、砲撃を一発くらわせれば、我々は労することなく、余分なものを取り 払うことができる。いかにミラクル・ヤンといえど、手札のなくして、魔術は使えまい。」  ほう、と感嘆の声が一同から漏れた。 「続いて、余の艦隊が最前線に出た時どうするか、という問題であるが、おそらくその順 番が回ってくる前に、敵は引くであろう。回廊出口を封鎖する形でな。そうしたら、こち らの思うつぼである。我が艦隊は、敵の包囲網の一点に放火を集中し、直ちに紡錘陣形を とって中央突破をはかる。もちろん、敵の出方によっては、その都度この作戦は変更する ことになろうがな。……他に質問は?」  その質問に答える者は、もはや誰もいなかった。  おそらくは長期戦になると思われるこの戦いにおいて、随時作戦が変更されることなど、 歴戦の勇者たる幕僚達は悟っていたのである。 「今度こそ……」  そう、ラインハルトが小さく呟いたのを、聞いた者は誰一人として、いなかった。      またまた一方、ハイネセンもどきでは、意外な人物がヤンの元を訪れていた。   続く
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