パンフレットより 


宝暦騒動   箕浦康子   こばやしひろし   神山征二郎   日色ともゑ

 作 ・ 演出  こばやしひろし
 装    置  勝 野 英 雄(民藝)
 照    明  坪 内 ひろみ
 音    響  古宇田  玲 
 方言指導  上 野 道 子


宝暦騒動
 三万八千石の郡上金森藩で起きた農民一揆である。徳川幕府も八代将軍吉宗の時代を過ぎると幕藩体制がゆるみ始めた。とくに貨幣経済の浸透によってどの藩も慢性的な財政難に陥っていたのである。となれば自然経済にたよる藩としては年貢の増徴以外にない。「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出るものなり」ということになる。
 郡上藩も定免取といって毎年決まった額を納めればいい制度を変えて、毎年の出来高を坪刈りして調べ年貢を納める検見の制度に変えようとした。一見合理的に思われるが検見も方法によっていくらでも増徴できるから農民としてはどうしても受け入れることが出来なかった。年貢の増徴は五割を超えるという。
 こうして宝暦4年8月(1754)も一千人が城下に集まり、検見取廃止を願った。こうして宝暦騒動は始まったのである。途中笠松代官所が介入、庄屋に検見取承知を迫り、庄屋はついに屈服したのである。
 これを聞いた農民は再び決起し、闘争の指導権は庄屋から農民に移った。ここに目的達成を誓約しあった有名な傘連判状が生まれたのである。
 こうして闘う農民組織ができ上がった。この組織によって江戸出訴を繰り返し、ついには籠訴までする血みどろな闘いが4年にわたって展開されたのである。闘い続けようとする立百姓と圧迫に屈した寝百姓との間に深い亀裂まで生まれた。結果金森藩は改易されたが、検見はお取り止めにならなかったのである。
熱い想い                                         箕浦 康子
 私の郡上の記憶は2才で八幡の伯母の所へ疎開した時から始まる。真っ白な御仏(当時、混じり物のない御飯なんて見た事もなかったのに、一番小さいという理由で私だけが兄姉の羨望の中、食べていたらしい)や庭に落ちた棗の実や優しかった伯母と一緒に寝たふとんの感触を思い出す。
 私の父は郡上郡西川村場皿(大和町)で生まれ、岐阜市内で母と結婚したので、私達兄妹は夏になると父の実家や親戚に連れて行ってもらった。蒸し暑い岐阜市内とは別世界のように涼しくて美しい郡上で過ごした幾度かの夏休みの思い出は、今では夢の中の事のようにおぼろ気になってしまった。しかし郡上へ帰る時の父のうれしそうな顔だけははっきり覚えている。父は郡上をこよなく愛していた。妹が二つ違いで生まれたので私は、父と一緒に寝た記憶が強く、父の二つしかない寝物語を繰り返し聞いた覚えがある。一つは「ちんちんからからぴーぴーす」と鳴く鳥の話ともう一つは「郡上一揆」の話だった。丁度喜劇と悲劇の二つを聞いて育った事になる。どう考えても口下手な父が、そんなに上手く話してくれた訳はないと思うのだが、私はいつも「郡上一揆」の話を聞いては涙を流した。父は結婚した時母の家に養子に入ったのだが、自分の血の中の郡上の百姓の誇りを小さな子供に伝えたかったのかもしれない。
 その父も1991年、87才でこの世を去った。父の従兄弟の「金子のおじさん」が今度の私の公演を聞き「俊さ(父の名は俊三)が生きとったら喜んだやろうに」と言われたけれど、私も本当に残念でたまらない気がする。せめて父が昔、語ってくれたように、上手くはないけれど、郡上への熱いおもいと血の誇りを頼りに一所懸命演じようと思っている。何の親孝行もできなかった私が、こばやし先生からこの作品をいただき、舞台に立てる事を無上の幸福と思って居ります。
演劇仲間の原点                                   こばやし ひろし
 岐阜高校の教師時代は私の青春真っ只中だった。私は演劇部の顧問をしていた。私の女房も演劇部の仲間だった。箕浦康子もその仲間である。
 私の演劇の仲間は三つに別れる。大学時代の演劇仲間。そして岐阜高校の演劇部の仲間。そして劇団である。演劇というものは面白いものでその交友はいつまでも続くものである。岐阜高校演劇部の卒業生たちでグループ・コーデンという組織が自然にできた。私が僧侶だから私を皮肉ってコーデン(香典)という妙なネーミングをしたのかと思ったら、「ちがうちがう、香典をやり取りするまで交友を捨てないという意味や」というのである。なるほどと私も納得したが、事実その通りになった。今でも何かといっては集まる。大学の演劇仲間も集まる。演劇で醸成される友情は特別のものがある様な気がしてならない。
 むろん、箕浦が舞台に立てば東京の仲間はみんな集まる。「るつぼ」で紀伊国屋賞を受賞した時も集まって祝った。その時これを機会に何かを役者として創っておきたい、役者箕浦康子の血が騒いだのである。それがこの『不断煩悩得涅槃』の出発点である。
 彼女の根外で私は演劇部時代の私にかえった。
 『郡上の立百姓』の調査をしていたとき、立百姓と寝百姓の後遺症は明治のはじめまで残っていたということを聞いた。宝暦騒動が残した傷痕である。
 箕浦の親は郡上の人である。これこそ箕浦がやるドラマと思った。しかも今度は寝百姓の立場から書いたら面白い、そういう思いが私の中で一気にふくらんでいった。この作品が生まれたのは箕浦のお陰である。
箕浦康子さんに寄せる                                神山 征二郎
 1959年は伊勢湾台風が東海地方を直撃した年で、名古屋市南部を中心に五千人余の犠牲者を出した。その9月26日の土曜日のことは昨日のことのように記憶している。翌日が運動会で、運動会嫌いの私は台風の襲来で「中止になるぞ」とほくそ笑んでいたのだが、私の家も吹き飛ばされるかと思うほどの暴風が吹き荒れた。天の恐ろしさを身を以って思い知った最初の体験といってよかった。多分、この年のことだったと思うが(もしかしたらその前年だったかも知れない)、私の一生を決定づけるようなもうひとつの重大な体験をすることになった。
 そのころ高校演劇が盛んで、美術部に在籍していた私は女子部員だけの演劇部に請われて背景づくりの手伝いをしていた。その縁で岐阜高校演劇部の公演を観る機会を得た。出し物は、こばやしひろし作・演出の『庫裡』で主演が箕浦康子さんだった。浄土真宗のお寺の家庭を扱ったホームドラマだった。
 私は農村で生まれたので芝居といえば旅の一座の田舎芝居しか観たことがなかったが、村に芝居が来ると必ず出掛けたほどに、実は芝居が好きだった。舞台という日常から切り離された特異空間で展開される世界に、どうやら少年の胸はときめいていたようだ。梅園千鶴一座の女剣劇など、今も脳裏に焼きついている。
 箕浦さんの演技はものすごくリアルで、人物、役の存在感が圧倒的だった。これは演出者の力に負うところが無論考えられるが、他の役柄にはそうしたものを感じたわけではないので、やはりなんとも凄かったのは箕浦さんだった。私の魂はこの舞台に吸いつけられていた。この主演女優が民藝の箕浦さんだったと知るのはずっと後年になってからのことだが、折りしも将来の進路を決めなくてはならない時で、思えば私が映画演劇・芝居の道に進ませたのはあの『庫裡』という舞台ではなかったかと思えるのだ。
 一揆の一部始終を観た郡上の百姓女を、物すごく演じてくれるのではないか、こばやし先生と箕浦康子さんの仕事に期待をよせるゆえんである。
稀有な女優                                       日色 ともゑ
 康子さんは稀有な女優さんです。一つの役を創るのに、もぐらのように穴を掘って、地上にちょこっと顔を出しては「違ったかなあ」というふうに首をかしげまた別の穴を掘りはじめる。そんな遠回りをしながら、結局は正しい穴を掘り当て「出色の出来栄えの人物」を創りあげてしまうのです。
 もう30年以上の付き合いになりますが、彼女のそんな不器用な進み方を眺めているのが私は好きです。「一人芝居」胸をワクワクさせながら客席に座る日を心待ちにしています。

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