20年の思い出をつづる


山田 昭男 | 武山 博 | 渡邊 逸雄 | 吉川 道教

      ご難続きの20年余始末記 ・・・ それでもの思い


                  世話人代表  山田 昭男

 1975年(昭和50年)、私ども未来工業の「ミライコミュニティーシアター」の第一回例会として、山本安英さんに、大垣まで来ていただいて「夕鶴」をやって、西美濃の住人二千人を無料招待しました。それは創業10周年記念でもあったのですが、なんとわが街、西美濃に本格的な新劇公演が初めて実現したのです。
 そのすぐ後に、久世食品の久世社長(現会長)から、「お前はミソギが終わったのだから、劇団民藝の後援会を作れ」との命令!(何せ中学の10年先輩なのだから)が下って、岐阜大垣を一本にした後援会が誕生いたしました。
 しんどい話は、前述のように、昭和50年と言えば戦後30年、つまり大垣(二桁の中都市)に、30年も新劇と言う日本の芝居の中心となるジャンル物が来たことがない。それは興行師がいなかったからか、行政が予算がないことを理由に、あるいは(本音は)票にならなかったからやらなかったのか。答えは、市民の側に受け入れる素地がなかったからだと思っています。中都市で、30年芝居が来なかった、観ることができなかった、と言うのは日本のギネス物だと思っています。
 さて、その後援会(全国的には「民藝の仲間」と称しています)の第一回例会が、岐阜市民会館での、「セールスマンの死」(アーサーミラー作)でした。再演の細川ちか子さんは、岐阜公演が終わって、急逝されました。
 この時には、郵便のストのエピソードがあります。ストですから、入場券が配布できません。全会員さんに電話して、「当日受付でお渡しするから、お出かけ下さい」と大変でした。
 その10年後に又「セールスマンの死」で、今度は奈良岡朋子さんでした。節目節目で、民藝の財産≠ニなっている演じ物を、会員の皆様に観ていただけるのは、世話するものにとっては、大変うれしいことなのです。
 日本では昔から歌舞伎の世界では、役者ごとにその型が違っていたり(例えば、黄八丈と黒八丈)で、それが楽しみで、同じ芝居に何回も通ったりしました。通うからには、見功者を通≠ニ言うようになり、「通は大向こうから」と言う言葉も生まれています。また、日本人は、良い席というと、かぶりつき≠セと思っている人が多いのですが、本当に良い席というのは、後ろの席なのです。
 劇団の財産だからこそ、練り上げては、何回も何回も演じる。その成長を楽しみにして、何回も何回も観に行く、と言う関係が一番の理想なのですが、これが一番難しいことだとも言えます。何年も前の事ですが、うち(会社)の女の子に「アンネの日記を観に行かないか」と誘ったところ、「高校生の時に観たもの」という理由で拒否されてしまいました。高校卒業以来、もう10年近く経っているではないか、しかも、その時は、民藝ではないのだから、と思ってみても、所詮興味を示さないのだから何ともしようがありません。チョッピリ淋しさを感じたものでした。

 さて、今まで大垣で演ったレパ(演目 ※大垣初演の年号を書く)の中で財産≠ニ言われるものを列挙してみると、

    「セールスマンの死」    (75年と85年)
    「奇跡の人」        (76年 これも奈良岡さん)
    「炎の人」         (77年 三好十郎作)
    「にんじん」        (78年 ルナール作)
  一年置いて
    「アンネの日記」      (80年 5代目かな?)
    「夜明け前 第一部」    (81年 鈴木半蔵)
    「夜明け前 第二部」    (82年)
    「セールスマンの死」    (85年 奈良岡朋子)
    「るつぼ」         (87年)
    「イルクーツク物語」    (89年 奈良岡朋子)
  13年目になりましたが、この年は2回とも財産演目でした。
    「炎の人」         (90年)
    「泰山木の木の下で」    (90年)
    「民衆の敵」        (91年)
    「グレイクリスマス」    (96年)

 今日まで、演じ物の数が46本。その内、財産演目は、15本。33%の打率となります。別の言い方をすれば、民藝が演った財産物はすべて大垣に持ってきた、ということでは。「もって瞑すべき」と言えるかな、と思っています。もう一つすごいのでは、「火山灰地」(久保栄作 岡倉し郎演出)がありますが、一人一万円で、大垣市民会館を一杯(1400人)にしなければ、採算がとれません。「夜明け前」も大赤字でした。ともかく芝居は、音楽に比べてギャラが安い(入場料も安い)のがガンです。
 御難事件もいろいろありました。冒頭の郵便ストは、第一回例会ですから、ギネス物の記録ですが、「リリオム」の時は大雨が続き、「長良川決壊」の大事件でした。西美濃地方は、輪之内町を除いて海となりました。安八町では、2mをこえて、住民たちは夜寝る時は、立ち泳ぎをして寝ていたとか、寝ていなかったとか。宿舎のチサンホテルの部屋の窓から見ると、大垣は海。とても芝居どころではないと、水の中を歩いて(泳がずに)、文化会館までたどり着きました。それでも何人かの方は、お芝居見物に小屋まで来ておられたので、入り口で、米倉斉加年、樫山文枝たちが目の前で色紙にサインをして、それをお渡しして、お引取りを願ったしだいです。他日、改めて公演(東京からわざわざお芝居をやりに来るのだから)で、民藝はすごい赤字となる始末。
 雨の次が雪。3年目(78年)の「ジェーン・エア」、この時が雪。この年も記録的な大雪(岐阜市で42年ぶりなのだから)でした。大森義夫さんがNHKのテレビドラマ「事件記者」の同窓会で出演できなくなって、大垣なら僕が出ましょうと言って、滝沢修さんが特別出演で大垣に来ていただいたら雪。
 その時の一年前の雨で、大赤字を出したばかりだから、ここでまた中止して、後日改めて出直しとなると、またすごい赤字になるものだから、雪も小降りになったことだし決行しようと決めた。ところが、5時ごろからまた猛吹雪。今は何とかたどり着けても、9時にハネ(終演、閉幕)たら、まず車など動けないだろうと予想される猛吹雪。会館の前まで来た車が目の前でUターン。帰りを考えたら、もう駄目。で、お客様30名の「ジェーン・エア」と相成り申し候でチョン。
 「御難」はまだまだ続きます。江戸の昔から、芝居の御難といえば、一番多いのが関係者の金の持ち逃げ。流石、民藝でこの事件だけはおきませぬが、金の盗難はございましたです、ハイ。この時は旅館でみんなの財布から金が消えました。その上、奈良岡朋子さんが購入した高級バック(幾ら入っていたかは知りません)も消えてしまう、という事件もありました。
 宇野重吉さんの誕生日に、久世会長宅で、ガーデンパーティをやったのも、懐かしい思い出となった昨今です。古い話しは二つ三つ(?)で止めておく事にします。
 もう一つ特筆すべき点は、岐阜県内は後援会が三つもできた事です。
 第一回例会もみなと館(ホテルパーク)での発会式もすべて、岐阜で始まりました。従って岐阜が本家で大垣が分家となります。もう一つの分家が美濃市で、これは、関市や郡上八幡の人たちも集まって、中濃後援会と言いますが、この中濃が、これまた約10年となりました。
 最後に会員が少なくて、毎公演赤字になるかもしれないのに、20年も続けて大垣に来ていただいた劇団民藝と劇団員の皆様方に深い感謝の気持ちを捧げます。
 芝居の世界も第四世代といわれておりますが、我々の民藝も、益々発展していくことを願っています。私もそれを支える小さな歯車の一つとなって、そして、一緒になってお芝居を創り続けていくんだとの思いを新たにしている今日この頃です。その年、年を新たな出発点と考え、会員も600人をめざして頑張りますので、今までにましてのご支援をお願いいたす次第です。


                 宇野先生の思い出

                    世話人  武山 博

 「先住民族の言語を翻訳すると、川の岐れたところを意味するこの町は、日本第六位の大河とその支流とが、ま二つに裂けたツバメの尾のように、町の一方で合流する、鋭角的な懐に抱きかかえられている。日本の北の果ての農業都市。どこよりも雪解けが遅くどこよりも霜の早く来る・・・・・・」
 シャーという擦過音と共に、少々舌の筋肉に異常があるような、くぐもった声のソノシートを何回も何回も聴いた。そしてその声が、今、目の前にあった。
 出会いと言うほどのものではないが、初めて、宇野重吉さんと言葉を交わした時の新鮮な感激を、今も思い出すことができます。私ぐらいの演劇青年ならば、誰もが憧れ、尊敬していた殿上人の一人ですから、受けたインパクトも強かったのでしょう。
 以来、大垣での後援会の例会があるたびに、幾度かお話をする機会がありました。楽屋で、パーティー会場で、久世さん宅で、麦とろで・・・・・・と。
 宇野重吉さん独特の話術のなかに、表情のなかに、三種類の個性を見つけました。舞台演出家と言う芸術家の宇野さん、不器用な俳優としての宇野さん、民藝という組織を運営する経営者としての宇野さんです。私と話をするときは、経営者としての宇野さんであったのは、後援会の世話人ということから当然ですが、不器用な俳優としては、写真集「顔」の中に窺うことができます。役づくりを楽しむ「顔」ではなく、苦悩する「顔」によい写真が多くあります。大先生に対して恐れ多い観察ですが、今にも「この馬鹿たれが・・・」というあの声が聞こえてきそうな気がします。
 私が何十回も聴いたソノシートは、今も山田社長の家にあります。宇野先生のご葬儀の際に、「火山灰地」の朗読が流されたそうですが、私の心の中にも、いつも、あのソノシートが廻っています。


                青年団演劇以来のかかわり

                     世話人  渡邊 逸雄

 私と演劇とのかかわりは、青年団演劇から始まっております。その折に、現未来工業且ミ長山田昭男氏と知り合い、年月が過ぎるのは早いもので35年が経ちました。
 今、思い起こせば、しようわ51年9月「リリオーム・回転木馬」の公演が予定されていましたが、台風17号による未曾有の雨量によって公演が一時延期したことがあります。9月12日午前10時28分に建設省直轄河川である長良川が安八町地内で決壊し、町内80%が水没した時であります。決壊前にもすでに大垣市・岐阜市・穂積町の一部で水路から水が溢れ、相当の家屋が浸水しておりました。交通機関もストップするなど、大変であったことが思い出されます。
 また、岐阜支部の組織作り等で、山田社長と一緒に何回か岐阜市のほうへ出向いたことがありました。そうした機会を通じて、人間関係を幅広くさせていただいたことなど、民藝後援会の世話人として、特別これと言った活躍はしておりませんが、私自身にとっては大きな収穫を得ることができたと思っております。
 人間には、出会いと別れがあるものですが、中でも心に残るのは、宇野重吉先生の死であったと思います。私は宇野先生の最後の舞台を、中濃支部発足記念講演であったと思いますが、拝見しております。気骨溢れる、厳しい先生ゆえに、病気と闘いながらも、自分の一生を芝居と言う職業に傾けてこられたことは、誠にすばらしい精神力であったと感服いたします。我々ではなかなか出来ないことと思いますが、何分の一でも近付けるよう努力したいと思っているしだいです。


                私の民藝20年

                    世話人  吉川 道教

20年の歳月は、短いようで長い。また、長いようで短い。
自分の20年前を振り返ってみる。
アルバムの中から、20年前の自分の姿を見つける。
 顔の形にシャープさがあった。
 爽やかさがあった。
 何よりも目に輝きがあった。
そして、20年後の鏡の中の自分の顔。
 「若さ」が減退している。
 時は、確実に刻まれているのだ。

10年前、長身痩躯の宇野重吉さんは元気だった。
その日のことは、私も鮮明に記憶している。
しかし、10年後、宇野重吉さんはいない。

舞台に立った「俳優」を、いつまでも記憶する。
そのことは、心に感動が残っているからだ。

私の民藝20年。ありがとう。




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