つぶつぶコーンスープのジレンマ

           
さぼさぬけ

 もう、どれくらい立ったのだろうかと思う。
 十分か、一時間……いや、まだ五分も過ぎていないのかもしれない。僕の全身は限界を訴えていた。
 腰骨の上に置いたままの左手も、肩幅に開いて立っている両足も、缶を持ち続けている右手も。両腕のつながっている肩から、首筋にかけてが、けいれんを起こし始めていた。
 その時の僕は、長距離走者のようだったのではないかと思う。
 あるいは、夢想する探検家か。
 僕は、固執と放棄、夢と現実の間で行き来していた。そうだ、ここで止めようとも、人々は僕を責めたりはしない。僕は、よく頑張った。もう……
 そう精神が呼びかけている。しかし、どうしてか僕は追求を止めないのだ。
 ふと、服のすそが引かれるのを感じた。
 眼球だけを動かしてみると、大きな瞳が僕を見上げていた。

 その日、僕と彼女は、映画を見に来ていたのだ。喫茶店で軽く食事をとって、今流行の洋画を、二本立てで見て。そして駅前の公園のベンチに座った。
「はい、コーンスープでいいよね」
 そう言って彼女は、僕に缶を差し出した。僕は笑って受けとった。
 実は、僕はコーンスープをそう好きというわけではなかったのだが、その日は春にしては冷たい風だったので、嫌な気はしなかった。けれど何よりも、彼女がわざわざ僕のために買ってきたものを拒むことはできなかった。例えそれが大嫌いな青汁だろうと、僕は笑って受け取ったに違いない。それくらい、彼女は僕にとって可愛いのだ。
 彼女は、ココアの缶を大事そうに両手で抱えて、僕の横に座った。
 彼女がプルタブを開けたので、僕もそれにならった。 その瞬間、僕は、自分の犯した過ちに気づいた。それは、ともすれば、彼女の好意を無にしかねないほどの重大な失敗だった。
 そう、あろうことか僕は、缶を振るのを忘れてしまったのだ。
 僕は愕然とした。おそるおそる口をつけてみると、案の定、ほとんど味のない液体が舌先に触れた。
「……どうしたの?」
 彼女が、不思議そうに僕を見つめている。
「い、いや、何でもないよ」
 僕は缶をさりげなく水平に回しながら応えた。彼女にこのことをうち明けるのは簡単だったが、心優しい彼女のことだ、悲しみ、同情して、もしかすると『もう一本買ってくる』などど言い出さないとも限らない。そんなことは避けたかった。
『よく振ってお飲み下さい』
という文字が、僕をあざ笑うかのようにくっきりと、缶に記されていた。
「あれ……まだ飲んでないんだ」
 ココアを飲み終えた彼女が、僕に話しかけてきた。今日はこれから彼女を家までおくっていくことになっていた。
 僕は、意を決した。


「ねぇ、もう帰ろうよ……」
 声が聞こえる。彼女の声だ。僕だって帰りたい。帰りたいのに……
 このムンクのような表情の缶の口は、僕の舌を奥へと誘い、捕らえて離そうとしないのだ。
 もう、だめだ。そう思った瞬間、疲れ切った僕の舌の上に、最後のコーンが落ちてきた。
 僕は全身の力を抜いた。それまで缶の口に合わせて細くすぼめていた舌の力を。そして、僕は、倒れた。
 コーンは、鉄の味がした。
「きゃあぁぁ─────っ!!」
 叫ぶ彼女の声は、勝利を祝う歓声に聞こえた。

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