透明の考察

           
さぼさぬけ

 きっかけは、一冊の本だった。
 図書館か書店かどちらだったかで手に取った、薄い本だった。その本には宇宙の神秘だかなんだかという、仰々しい題名がつけられてはいたが、どちらかというと、子供向けの本のように私は思った。
 それを手に取った理由も、ただ目の前にあったからに過ぎなかった。きっと、私は退屈していたのではないか と思う。隣にいた司書から見たら……ああ、そうだ、確か図書館の方だった……子供の本を選ぶ父親ぐらいに見えたかも知れない。
 私はそれくらいの年齢になってしまっていた。


 五年ほど前になるだろうか、私の両親が事故で他界した。そのころの私はというと、大学院に所属し、しかし何をするでもなく、ただずるずると日を過ごしていた。生活費は両親に出してもらっていたので、それまでは何を心配することもなかったのだが、その日をきっかけに私の生活は一転してしまった。
 まず、仕事を探さねばならなかった。幸いのこと、私の知り合いが給料のそこそこ良い会社を紹介してくれたので、特に考えるでもなくそこに決めた。
 毎日がせかせかと忙しく、窮屈なネクタイに息を止められ、それでも何とか自分で生活をし、いわゆる一般のサラリーマンという身分に身を投じていた。
 恋愛など考える余地もなく、そうしてここまで来てしまったが、今考えると何となく物寂しいような気がしないでもない。それでも、結婚などということをするつもりは毛頭なかったから、それで良いのだと思っていた。これからもその生活が続くのだと、思っていた。

 そう、きっかけは、一冊の本だったのだ。
 その本の冒頭には、「宇宙の始まりは無である」と記されていた。何のことはない、一般的に言われていることである。そしてそれからビッグバンと呼ばれる現象が起こり、それはとてつもなく長い年月を経て、現在の地球があるわけだ。
 そのときはあまり気にせずにいたのだが、何となく心の底に引っかかる物があった。いわく、「無とは何か」である。
 その答えを出せる人間などは存在し得ないのだろう、しかし、私は無性にそのことが知りたくてしょうがなくなった。私にこんな探求心があったとは、驚きだった。


 無とは、透明だという人がいる。
 それはある意味間違っていると、私は思っていた。なぜならば、無が透明であるというならば、この私の周りにある透明な空気は存在しないことになるからである。
 目の前を、黄色い服を着た女性が通り過ぎていく。視界のはじには紺色の制服を着た学生達。白と黒に塗り分けられた横断歩道。
 青信号。私は足を踏み出した。すれ違ったOLの、茶色く染めた髪が少し気になった。

 家について、私は遠くを見ようと思った。遠く、見渡す限りまで、何もない無の世界を考えてみたかった。私の家は郊外にあるので、方向によっては地平線が見えることもある。
 私を遠くを見た。そして、だめだと思った。

 だめだ、空気の粒子が邪魔だ。

 もっともっと、見渡す限りまでの無が欲しかった。
 風呂にはいって疲れた体を休めると、もっとはっきりと空気の粒子が目に見える。それは私の目の前で渦を巻き、そして拡散して行く。めまぐるしい動きだ。
 そこには確かに、空気があった。向こうを見るのを邪魔する空気は、もはや私にとって透明な存在ではなかった。ガラス窓も、セロファンも、水も、何もかもが私の視界を遮ろうとしている。それらは透明な存在ではないのだ。小さな粒子の渦が、私の気分を悪くする。
 無は、確かに透明なのだと思った。


 夜、布団に入って目を閉じてみる。そこにあるには漆黒の闇だ。闇は無か?いや、闇は透明ではない。闇が無であると考える人もいるのだろうが、闇の中にはすぐとなりに何かがあるかも知れない。すべての無を確かめられる透明こそが、私にとっての無だった。
 目を閉じると、想像する。そう、私の周りは、辺り一面の透明だ。何もない、無の状態。家の窓から見える草原も、山脈も、工場も、すべてが存在しない。もっと遠くを、もっと遠くまでの無を。
 だめだ。
 私はそこで、目を開ける。所詮人間の想像力には限界があるのか、どうもうまくいかない。私の脳裏には、辺り一面の白が浮かんでしまう。白は、無ではない。


   私は、実際に無を見たくなった。

 考えてみると、奇妙な話である。「無」は、存在し得ない物なのだから、とうてい見ることはかなわないだろうに。自分でそう定義しておきながら、無を見たいとは、ばからしいにもほどがある。
 それでも私は無を、知りたかったのだ。


 落ちる、という体験をした。
 その日の私は、体調も気性も、妙に不安定だった。全く食欲がわかないくせに、異常に体中が動きたがっていた。会社での、隣の席の男の一挙一動に、奇妙にいらいらした。
 どうも調子が良くない、帰ろう。そう思って足を踏み出した瞬間に、階段を踏み外した。間抜けな話である
。私は、落ちた。
 足下がなかった。そう、なかった。今まで自分が無を理解できなかった理由を、垣間見たような気がした。


 眼下に広がる、白いコンクリート。赤茶けた手すり。私は、無を体験したかった。見渡す限りの無を。そして、何もない…無には、足下を支える地面など、不要なのだ。

 ああ、そして。
 眼前に広がるコンクリート。
 白い。無の瞬間の直前に、さけられない決定があったことに私は気づいた。

 無を求めた私が、そのあと最初に見た物は、薄汚れた白い天井だった。何となく落胆した。所詮無は、私のような人間にはかなわぬ物だったのか。
 もう、無について考えるのはやめようと思った。何となく思ったものだったのだ、そんなに思い詰める物ではなかったはずなのに。
 心に空いた隙間が、物寂しさを訴えてきた。私はまた、以前と同じ生活に戻らなければならないのかと思った。 そう考えると。


    私は、ひどく不安定になった。


     終

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