忘れられた約束

さぼさぬけ

「じゃあ、約束だからね」
 昨日そう言って分かれたばかりだというのに、彼・相川十貴はその約束を忘れてしまっていた。彼がまだ高校生の時の話である。
 この頃相川には、お付き合いをしている女性がいた。とは言っても、恋人同士というような関係ではなく、つかず離れずといった腐れ縁が発展して出来たような、曖昧な関係であった。周囲からは恋人同士だと認識されていたようだというのは後になって知ったことだが、その当時、当の本人達はそのような考えをお互いに持ち合わせていなかった。少なくとも、相川の知る限りは。
「なんだったっけな」
 相川は、申し訳程度に櫛を入れている髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。どうも左横の髪が絡まって仕方がない。それは今の彼の状況を表しているようだ。いくら考えても、どこかに引っかかって、約束の内容が思い出せない。そうこうしているうちに、放課後になってしまった。ホームルームが終わったらすぐにでも約束の内容を聞き出すために彼女のクラスへ向かおうと思っていたが、相川はその週の週番に当たっていたため実際はそれよりも三十分ほど遅れてしまった。時計は三時四十分をさしていた。
 相川と彼女は、毎日一緒に下校していた。たいていの場合は、彼女が相川の教室まで迎えに来る。だから今日も相川は待っていることにした。その時に、約束の内容を聞き出せばいいと思っていたのだ。
 しかし、四時を十分ほど回っても、彼女は現れなかった。もしかして、もう帰ってしまったのだろうか、そう思って相川は彼女の教室まで行ってみた。相川は二年三組、彼女は二年九組である。少し離れてはいるが同じ階だ。通りすがりを装ってのぞき込んでみたが、彼女の姿はない。相川は仕方なく、昇降口まで降りていくことにした。
 学校に置いて相手の不在を確かめる方法で一番手っ取り早いのは、靴を確認することだ。靴箱を覗いて、靴があればまだ学校にいるし、上履きに入れ替わっていたならもう相手は学校の中にはいないと言うことになる。案の定、彼女の靴箱には上履きがぽつんと入っていた。
「なんだ…かえっちまったのか」そう相川は独語して、校舎内へと戻っていった。図書館が閉まる時刻まで読書でもしていようと考えたのだった。

 一時間が過ぎた。五時に閉まる図書館に、五時十分まで居座った相川は、夕焼けに染まる靴箱から、自分の靴を取り出した。学校指定の白い運動靴は、夕日を浴びてオレンジ色に光っている。一連の動作で上履きを脱ぎ、靴箱に入れた後に、足を運動靴の中へとつっこむ。ふと、相川は右のつま先に違和感を感じた。
 靴を脱いで確かめると、くしゃくしゃに丸められた小さな紙切れがあった。細長い、長方形の紙だった。光沢性のある紙が夕日を反射してちかっと目にいたい。
そこにはボールペンで「相川のバカ」と走り書きがあった。確かめるまでもない、見知った彼女の字だった。
「バカぁ? 何で俺がバカなんて言われなきゃならないんだ」
 そして、その紙をひっくり返す。そして相川はしまったと思った。
「約束だからね。明日の三時半に、正門前ね」
 それは昨日彼女と約束した、映画のチケットだったのだ。

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