なごりゆき

さぼさぬけ

 手を伸ばしたら、まるでそれに応えるかのように雪が降ってきた。薄く雪雲の掛かった空から雪ははらはらと落ちてくる。
 …彼らの、消えていった空から。
 まるで慰められているような心持ちがして、翡翠はふっと口元を緩めた。自分がこんな感傷を抱くなど考えても見なかったことだ。きっとそれほどまでに、彼らの存在は大切だったのだろう。知らぬ間に心の大部分を占めていた、ふたり。
「いつか貴方に言ったね、神子殿…」
 空に向かって彼は語る。
「本当に、私にとって貴方は必要な方だったのだよ。戯言だと、貴方は笑うのかもしれないが」
 新年を迎え、もう季節は暖かな春に移り変わろうとしている。紫姫の館を取り巻く梅は今が盛り、時折鶯が来ては小さく囀ってもいた。誰もが浮き足立つ、最も素晴らしいこの季節に。冬の終わりを告げるがごとくに蒼天に溶けていった彼らを、どうしても思わずには居られなかった。
「貴方を愛している、この世界に残って欲しい…そう言うことができたなら、私のこの心も救われたのかもしれないね」
 去り際に見た笑顔は暖かで、優しくて、幸せそうだった。彼女を引き留めたいと思った自分、共に帰りたいと言った彼。瞳を閉じると、あの時の情景が浮かぶ。

「神子殿と一緒に、帰りたいと思うのです」
 百鬼夜行封印の前夜、彼は自分にそう言った。半ば予想はしていた。最近のふたりは、目に見えて仲が良い。神子殿が選ぶなら彼だろう、彼が選ぶのなら神子殿だろう。そんな思いが自分の中にあった。
 だから驚きはしなかった。けれど、意外であったかもしれない。なによりも、彼がそのことを自分に語った、ということが。
「どうしてそれを私に?」
 疑問を口に出して問うと、彼は眉根を寄せ少し困った表情をしながら上を見た。言葉に詰まった時上目遣いになるのは、彼の癖。神子殿は、もうそれに気づいているだろうか。
「いえ、その…」
「他の…私以外の八葉には、もう話したのかい?」
 彼は目を伏せて小さく首を振った。そしてぽつりと呟く。
「翡翠殿に一番に話しておかねばならないと思ったのです」
「それは…」
 ほう、と息をついて彼の顔を見つめ直す。視線が交差して、彼はどことなく恥ずかしそうに顔を染めた。思わず自分の頬が緩んでしまうのを感じる。
「私は期待してしまってもいいのかな」
「っ…」
 彼の顔が正面を向く。先刻はすれ違った視線が、今度は真っ直ぐに向き合った。視線が合ってしまえば、きっと彼から逸らすことはできない。彼は、そう言う人間だから。
 外に薄く積もった雪の明かりが、彼の全身を薄青く染めている。その中で表情だけが赤く色づいているのが、自分の心の奥底にある何かを揺り動かす気がしてならない。
「私にふたりきりで話があると言うから」
 目線は外さぬまま、彼の瞳をしっかりと捉えて言う。口を噤んで下唇を噛んでいる彼とは裏腹に、自分の口元はつい綻んでしまう。
「私を捉えようとする罠かもしれないと思っていたのだよ」
 刹那、彼の頬が一瞬にして染まった。
 彼には珍しく大きな動作で立ち上がったかと思えば、一瞬のうちに上着を掴まれる。その動作の機敏さに、彼の役職を思い知る。
「そのようなことはいたしません! 翡翠殿は…翡翠殿は、私の、大切な…」
 その続きを言おうとして彼は声を詰まらせる。気持ちが昂ぶったのか、目の端には涙が浮かんでいた。嘘だよ、とほほえみかけると、彼は脱力したようにゆっくり膝をつく。目線の高さが同じ位置に戻ってきた。上着の端を掴んだ手のひらはいつの間にか縋り付くような形になっている。
「なに?」
 意地悪く言葉を求め、答えをせかすように彼の手に手のひらを重ねる。びくりと彼の全身が震えるのが伝わってきた。引こうとした彼の手をきつく握りしめることで、それは赦さないと暗喩する。
「大切な…仲間ですから」
「私は海賊だよ」
 それでも、と、彼は応える。
「それでも、貴方は私の、大切な仲間なのです」
「それは私が八葉だから?」
 彼は顔を上げる。その瞳にもう涙は見られなかった。
「八葉だから……。そうですね、そうかもしれません。貴方と私が八葉でなければ、私はきっと目を逸らしたままだったでしょうから。
 翡翠殿…伊予で私がくじけそうになった時、貴方だけが私の話を聞いてくれました。その時からきっと、私は貴方のことを大切な存在だと思うようになっていたのでしょう。けれど、それを認められずにいた。八葉という立場は…おそらくそれを私に気づかせてくれたのです」
 真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな心根。自分には無いものを彼は持っている。そう考えて、得心する。彼と神子は驚くほどによく似ているのだ。彼が彼女に惹かれたのも、自分が彼らに惹かれたのも。おそらくは同じ理由なのだろう。
「貴方には、貴方にだけは…きちんと話しておきたかった」
 その言葉に頷くと、彼の眦が優しく緩む。更に何か言葉を紡ごうと唇を、すかさず掠めとった。彼は一瞬硬直し、そして目を大きく見開いたかと思うと頬を朱に染めた。
「…翡翠殿!? 何をなさるのですか!」
「私の愛しい神子殿を連れて行くのだから、これくらいはいただいておかないと割に合わないだろう? ねえ、幸鷹殿」
 始めは、ほんの慰みだと思っていた。こんなにも、こんなにも彼らのことが愛おしくなるなど、考えもしなかった。
「…神子殿と、行くんだね」
 そう言って、笑った。
 しかし彼は眉間にしわを寄せ、どこかすまなさそうに目を伏せる。長い睫毛が瞳を覆った。
「はい…申し訳有りません」
 彼はきっと、この気持ちに気づいているのだろう。彼への恋情を、彼女への思慕を。彼が聡い人間だと言うことを、自分が一番に分かっている。
「謝る必要などないよ」
 ふと風が吹いて、目の前を白い雪がよぎった。

「もう、雪も終わりですわね」
 いつの間にか隣に紫姫が立っていた。自分と同じように手のひらを差しだして、舞い落ちてくる雪を受ける。暖かい手のひらの上で、雪は名残を惜しむ間もなく、儚く溶けてゆく。まるですべてが夢であったかのようにさえ思えるのだ。
 この胸の、寂しささえ無ければ。
「そうですね…」
「神子様と幸鷹殿は、お元気でいらっしゃるでしょうか」
 願いの言葉のように幼い姫は呟いて天を仰ぐ。雪雲は次第に薄くなり、切れ間から空が覗いていた。もうじき、雪も止む。
「ええ、きっと」
 雪は大地に溶け、春が訪れる。彼女が、その力でもたらした季節が。
 風が吹く。紫姫の声につられて天を仰ぐと空を覆っていた雪雲が一気に流され、瞬く間に青空が広がった。その眩しさに瞳を細める。
 手を伸ばすと、まるでそれに応えるかのように薄く太陽が煌めいた。

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