粉雪は忘れ薬

さぼさぬけ

 粉雪は忘れ薬。
 まるであの人のことを想い出にしてしまうかのように、はらはらと止むことなく降り注ぐ。
 幸せを築き上げるのは難しいことで、そのために人はいくつものものを犠牲にしていかなければならない。それは例えば地位であったり、名誉であったり、財産であったり。その人にとって必要のないものであったり、あるいはかけがえのないものであったりするかも知れない。
 もしそれがいらないものならば、捨ててしまえばいい。捨てることで幸せを手に入れることができるのなら、どんなにか楽なのだろう。けれど、気づいてしまった。
 幸せとは失うこと。
 幸せとは忘れること。
 大切な何かをどこかへ置き去りにしてしまうこと。

 窓を開けると冷たい風が吹いた。以前いた京の街より格段に東京の冬は暖かいのだろうと思う。けれどやはり、寒いものは寒い。冬は寒いもの。そんな自然の摂理さえ自分は忘れてしまっていたのだろうかと、冬が来るたびに不思議に思う。この風の冷たさを、この雪の白さを。どうして忘れてしまうことができるのだろう。
 人とはそう言ういきものだと、分かってはいるのに。忘れることでしか生きていけないのだ。それは、人が幸せになるために身につけてきた手段。
 こちらの世界に戻ってきて、初めのうちは毎晩、あちらの世界の夢を見た。あちらこそが自分の故郷であったのではないかと、京を思って幾度涙を流したか知れない。あちらの世界のすべて。空気の流れや、花の色。暖かい人々、母親、そして彼。何ひとつ忘れることはないだろうと思っていた。
 けれど一週間経ち、一ヶ月が過ぎ。戻ってきた時には秋だった季節が巡り、冬が訪れる。そうしていつの間にか、あまりあちらの夢を見なくなっていた。代わりに思うのは、こちらでの生活のこと。自分の帰還を喜んでくれた優しい両親のこと、そして、彼女のこと。こちらでは時間が早く過ぎていく。めまぐるしく移り変わる時間に、ふと気が付けばあちらのことを失念している自分が居る。
 それが、ひどく辛い。
 以前彼女は自分に「帰りたいのではないか」と尋ねた。その時自分はそれを否定して、けれど曖昧な答えしか返さなかった。その意味が今ならば少し分かる。答えなかったのではなく、答えられなかったのだ。あの時は、まだ分からなかった。
 彼女の言葉は有る意味真実で、そして間違っている。
 あの場所には、もう帰らない。帰らないからこそ郷愁を感じる。そしていつか、想い出になってしまうだろう。
 それは。
「赦されない…罪」
 自分はもう何一つとして忘れてはならないのだ。忘れてしまうのは、忘れたいと願うのは自分が弱い生き物だから。どこかに後ろ暗い何かがあって、それを昇華してしまいたいと思っているから。何もかもを忘れずに背負っていくのが、おそらくは自分のできる最大限の償いなのだ。
 忘れることで幸せになってはいけない。
 それはきっと、あの人を裏切ることだ。
 雪が降る。
 まだ止む気配を見せない粉雪は、ゆっくりと建物を覆い隠していく。そういえば例年にないというこの降雪のおかげで、都内の交通機関には大幅な影響が出ているのだと聞いた。窓から地上を眺めればそこには人の姿はなく、いつもならば道路を大量に流れる車の列も見られない。きっと近くの幹線道路が通行規制を敷いているのだろう。
 雪はまるで、すべてを止めるかのように降る。あの人を忘れたくないというこの願いも、凍り付き、そして朽ち果ててしまうとでもいうように。
 突然に電話が鳴った。静かな部屋に電子音が鳴り響く。静寂をうち破るその音が酷く不躾なものに聞こえた。一呼吸置いて、受話器を持ち上げる。
「…はい」
「あっ、幸鷹さんですか?」
 耳元に届いたのは聞き慣れた、少し高めの声だった。少し息をつくと右手で受話器をしっかりと持ち直す。彼女の声は優しい。胸の奥に小さな明かりが灯るような、そんな気分をいつも感じる。その明かりを両手で包み込むように、手のひらで受話器を包んだ。安らぎとは多分、こんな状態のことを言うのだろう。
 心に積もった雪が、少しずつ溶けていくような。
 電話の内容は簡単なもので、今日一緒に出かける予定だったのが雪で無理になった、という事だけだった。それから他愛もない挨拶を交わして、電話は切れた。遠くはない、けれど簡単に会うこともない距離の彼女と言葉を交わすことができる。それは何と大切で、そして手軽なものなのだろう。
 あの人ならば、どうしただろうか。
 まだ花開かぬ梅の枝に文を添えてよこしただろうか。きっと彼なら、あの長い髪に白い雪を纏って、それでも自分を訪れてくれただろう。彼は、決して約束を違えはしない人だから。
「…違う」
 首を振る。静かな部屋に自分の言葉だけが響いた。窓の外では雪だけが音もなく世界を塗り替えていく。
 あの人と、彼女は違う人なのだ。比べてはならない。たとえてはならない。
 あの人のことはただ心の奥に戒めとして残しておくだけ。忘れずに、しかし、想わずに。それが自分のしなければならないことなのだ。
 ため息が零れる。溶けた雪の上に、更に降り積もる粉雪。それはすべてを忘れるように語りかけてくる。優しいその存在に、思わず心を委ねそうになる。
 優しい日々。楽しい人。もう訪れないものたち。
 思い出すと、胸が痛んだ。窓を開いて空を見上げれば、薄明るい灰色の空から真っ白な雪が降り注いでくる。痛いほどに冷えた空気。雪の花弁がひとひら、小指に落ちた。冷たさがゆっくりと、指先から心の奥へ染みてくる。彼と交わした言葉。彼と交わした約束。すべてが小さな指の先によみがえってくる。
 彼と最後に会ったあの夜も、雪が降っていた。
 瞳を閉じて彼の顔を思い出す。髪の一筋、緩やかな眉、長い睫毛、そして、唇。すべて、まるで彼が目の前にいるかのように描くことができる。まだ自分は忘れていない。胸の痛みさえも嬉しかった。
 立ち上がって、電話の受話器を取ると、もう覚えてしまったその番号を指で辿る。呼び出し音が三回鳴って、そして、途切れる。
「はい、高倉です」
 彼女の声。
「もしもし…」
「あ、もしかして…幸鷹さんですか? どうかしたんですか」
「…いえ、特に用事というわけでは…」
 そこまで言って、言葉を探す。自分はなぜ彼女に電話を掛けたのだろう。あの人のことを考えていたはずだった。それでも指先が導いたのは彼女へとつながるラインで、自分はそのことを少しも不思議に思わなかった。どうしてこんなにも自然に、受け入れてしまえたのだろう。
「…幸鷹さん?」
 電話の向こうの雰囲気が変わる。空白の時間を訝るような。うまく言葉が出てこない。こんな時、なんと言えば良かったのだろう。
「…雪は」
「え?」
「いえ…その、雪は、大丈夫ですか? 少し心配になったものですから」
「ええ、もう結構小降りになってきましたよ。明日には、もう止むって天気予報でも言ってました」
「そうですか…」
 窓の外を見れば、確かに以前よりも雪の粒が小さくなっているようだった。雪と言うよりはもう霙に近いのかも知れない。窓の桟に積もっていた雪の端が少し溶けていた。ガラスには水滴が灯っている。
「雪が溶けたら、会いに行きますね」
 優しい声が耳をくすぐる。一瞬雲が切れて、薄明るい光が雪を照らした。
 雪は、溶けるもの。そんな単純なことにどうして気が付かなかったのだろう。雲間から覗く光に照らされて、世界はほんの少しだけ輝いている。
「ええ…お待ちしています」
 雪は降り積もる。陽の光がそれを溶かし、水は流れ、空に昇る。人は笑い、泣き、そして忘れる。すべては繰り返す。自分はまたいつか路を見失い、彼女の指さす先を問い直すのだろう。彼女は自分にはないその優しさでもって、きっといくつもの新しい可能性を見せてくれる。
 そのたびに思い出す。
 彼女のことを。彼のことを。自分を愛し、赦してくれるすべての人々のことを。

 人は忘れるもの。忘れなければ自分を赦すことができない、不完全な生き物。けれど完全に忘れることなどできるはずがない。忘れてはならないと言うのは賢しい自分の詭弁で、忘れられないことに対する、ただの言い訳。この胸の傷は、いつかは雪に埋もれ、そしてふとした瞬間に思い出す存在となっていくのかも知れない。
 それでも、忘れることはできない。
 幸せとは思い出すこと。
 粉雪は忘れ薬。今は寂しいこの心にも、あの人の心にも。すべての心の上に積もり続ける。

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