異邦人

さぼさぬけ

 空に高く高く手を伸ばす子供達の仕草は、まるで昨日までの自分に似て。


 あの人の指が近づくだけで肌が震えた。力強くしなやかな爪先で優しく顎を引掻かれる度に肩をすくめ、その手が二度と離れていかないよう捕らえてしまおうと思った。彼の手よりも一回り小さい自分の両手を添えようとして、それでもその手の動きを束縛してしまうのがあまりに惜しくて、結局は着物の端に拠り所を求めていた。悔しくて、同時に少し安心して、彼を見上げるのが常だった。彼は私の心中などまるで構わないような飄々とした仕草で、そのままこの心の芯へと繋がる糸を手繰る。幾ばくもしない内に心はいとも簡単に引き上げられてしまう。私の心の中で、彼がたどり着けない場所など無かった。この心も身体も、すべては私のものではなく彼のものだった。
 潮風に表面が少し荒れた指の腹で、軽く唇を撫でられれば、それだけで身体の奥底から波が湧き上がってくる。
 それは止め処ない、まるで自分が海になってしまったような感覚。
 彼に愛されるのが嬉しかった。まるで子供のように彼をねだって、愛した。彼の望むだろう言葉をいくつも覚えた。恋人達の間で囁かれる愛の言葉をいくつも拾い集めては彼に語った。そう、あれはまだ肌を重ねて間もない頃の寝物語だった。満月には幾らか足りない月明かりで、彼の衣に包まれて余韻に浸って、おそらくは少し我が儘になっていたのだろう。甘えていたのかも知れない。彼は笑って何も言わなかった。唇の端を小さく上げる其の仕草は、肯定でも否定でもなかったけれど、おそらくはそれが本当の彼の心中だったのだと今思い返せば分かるような気がする。
 風が吹いた。湿気を含んだ海の風だった。
 いつかこの指先はあの人に届くだろうか。

 例えば。
 彼は相手を選ぶ。彼を愛した者すべてが彼に愛されるわけではない。選ぶ権利は何故かいつも彼の方にあって、まるで戯れに道端の花を摘むようにして人を愛でる。枯れてしまえばためらいもなく捨ててしまうし、ほんの少し香りを楽しむだけの花もある。次々と巡り変わる季節の花のように様々なものが彼の周りにはある。彼が惹き寄せている。私が彼の指先に摘み取られたのはもう随分と前のことになるだろう。歳月を指折り数えることはしなくなってしまったけれど、きっと初めて遇ったあの時から、彼は変わらない。
 私は、変わってしまった。
 あの時、まるで少年のような風貌をしていた私の腕を引いた彼の手は、多少強引で、そしてとても優しかった。この人ならばすべてを赦してくれる気がした。そしてそれは間違いではなかったし、今までのことをまるで懺悔か何かのように彼に語って、救われたような気分にさえなった。おそらくは、そこまでならば良かったのだ。彼のその広く、深い心に溺れさえしなければ。かつての、少年だった私ならば可能だっただろう。
 けれど、私は変わってしまったから。この身を、それも心ごと彼に委ねるまでに長い時間は掛からなかった。

 私は、貴方の望む女ではないから。
 そう? 私の目には十分魅力的に見えるけれどね。
 望んでません。
 勿体ない。
 折角綺麗に生まれてきたのだから、たまには私のような男を誑かしでもしてみればいい。

 戯れだと。
 そう口先では罵っておきながら心がそれに追いついてゆかない。言葉と自分とはまるで別に存在しているようだった。感情が身体を支配して、理性が言葉の表面をかろうじて覆う。彼の愛でてきた美しい花とは違う道端の雑草を、物珍しさに摘み取って、冬の間だけしばし心を慰める。春になったらまた別の花を思うのだろう。この土地に生きる者なら誰でも、その優美な海賊の存在を知っている。彼は想像していたよりもずっと剛毅で、心の広い人間で、噂に聞いていた彼と実際の彼とは随分と違うと思ったけれど、やはりそれは彼の一面であるのだと思う。
 深く関わってはいけない男。
 彼の心の深淵を、未だ誰も覗いたことがない。誰も知らない。
 素直な言葉など紡がない荒れた唇を、やや乱暴に塞がれてしまえば、指先は彼を求めて彷徨うだけ。抱かれてしまったからではない。もうずっと、彼と出会ったその瞬間から、私はその瞳に惹かれて已まなかった。自分は彼の瞳にどう映っていたのだろう。
 潮風に灼けた髪の色を、彼は美しいと言った。欠けた爪の先を啄むようにして、痛そうだから爪は立てないでおくれと冗談めかして笑った。自分は今まで誰かにそんな行為を望んだことはなかったのに、相手が彼だという、ただそれだけですべては転調する。彼の言葉だからこそ意味がある。彼でなければ何の意味もない。
 彼の愛でた髪を伸ばそう。彼を傷つけないよう、毎日爪を磨こう。すべては彼のために。そうすれば彼はもう暫く私を見ていてくれるだろうか。彼に触れたい。触れられたい。抱きしめたい。抱かれたい。何もかも奪われて彼のものになってしまいたい。そして願わくば彼の心の輪郭にこの指先が届くよう。自分の中にこんな感情があることなど知らなかった。
 私は変わってしまった。
 彼が、変えた。

 私は雑草だと思っていた。彼が望むのは花だと思っていた。

 波の音が耳を撫でる。麝香のような甘やかな香りが鼻先を包み、ゆっくりと思考は微睡んでいく。潮の匂いと、彼の香と汗の匂いとが混じり合って情欲を煽る。口づけがゆっくりと頬を下る。長く碧い髪先がさらりと太股を滑り、その感覚に思わず顎を仰け反らせた。そこに彼がまるで獣のように喉元を噛むものだから、悲鳴はたちゆかなくなってしまう。代わりに一筋涙を零せば、彼の熱い舌がそれを優しく舐め取ってくれることを知っている。
 いつまでも落ち着くことのないこの小さな舟の上で幾度も繰り返された行為。いつも変わること無い優しさと、慣れることのない激しさでもって彼は私を翻弄する。彼の唇がゆっくりと身体を下っていく。月明かりは不確かで、彼の顔すら見えない。時折肌に感じる彼の少し荒い息は、それだけで指先を握りしめるほど。首からゆっくりと肩へ、胸へ、腹へ、戯れのように指先を絡めて、太股から膝へ。彼が触れるところからゆっくりと波が起きる。彼だけがこの水面をさざめかせる。内股に舌を這わされれば肌の上をざわりと風が走り、僅かな波を引き起こす。こらえきれず喉を逸らし振り仰いだ目の先に映ったのは下弦の月。彼の顔は見えない。それが酷く辛くて、握りしめてこわばった指先をゆっくりと解き、脚の狭間にある彼の顔を求めて手を伸ばす。
 柔らかい髪の感触。一房つかまえてそれを手繰れば、彼の頭部へと指先が触れる。まるで愛撫でもするかのように滑らかにすべらせて、やっと、彼の頬へ指先は辿り着く。滑らかな額に、緩やかに弧を描く眉の感触。指の腹にちくりと睫毛が触れる。柔らかな瞳のくぼみ、その隣の鼻筋、手のひらで包み込むようにすれば頬の産毛までが伝わってくるような気がする。私の感覚は一秒ごとに鋭敏になる。もっと彼の顔を感じたい。そう思って指先を巡らせれば、悪戯をとがめるように彼の指先がそれを制す。そのまますくい上げられて、腕ごと押し倒される。二の腕に口づけられれば首筋にまで波が及ぶ。思わず肩をすくめると狙って彼が侵入してくる。
 生理的に、まるで押し出すような反応を返してしまう自分の肉体が恨めしい。もっと、もっとこの人を抱きしめていたい。思考は様々に多くの場所へと散るのに、腕はただ彼の身体だけを求めてその背中へと廻る。綺麗に切りそろえた爪の先に僅かに浮き出た彼の背骨が当たる。嬉しい。舟が一際激しく揺れているような気がした。海に落ちていた月の姿は揺らぐ水面にかき消され、ただ黒く深い海の表面をざわざわと風が渡り波を呼び覚ましていく。
 このまま彼とひとつになれればいい。しっとりと汗に濡れた肌の感触も、はらはらと肩から散ってくる髪の感触も、失ってしまうにはとても惜しいけれど。目尻が痛い。涙が止まることなく頬を伝っていた。全身が涙になればいい。海のように、すべて、彼を包み込むためのものになってしまえば。
 波のように快感が寄せては返す。波に誘われ、そして溺れて。漸く私は意識を手放す。

 例えば。
 彼は相手を定めない。彼に愛された者はひとりだけではない。家柄も、位も、生い立ちも、性別すらも関係なく、彼はただ自分が気に入った相手とだけ肌を重ねる。それを求める権利はやはりいつも彼の方にあって、いくら愛された者だからと言って彼を独占することはできない。
 彼は優しくて、それでいて大胆なものだから彼に抱かれた者は一瞬でも、その瞳が自分だけを見つめているのだと錯覚してしまう。それでも、彼の全てを欲しがることがどんなに馬鹿げたことなのか、彼に愛された者が一番よく知っているのだ。彼の瞳が見つめているのは自分ではなく、自分を通して見える様々な未来の偶像。彼の愛は激しく燃える炎ではなく、静かにただ在る深い海。月までもが彼に所有されることを望む。水面にきらびやかにその姿を映しては、日ごとに彩りを変えて魅惑する。
 けれど、決してその願いが叶うことはない。

 火照った身体が冷えて落ち着くまで、彼は私の膝に頭を預けて横になる。耳が溶けてしまうほどの睦言を囁かれたり、時には何も言わずただ波の音に耳を傾けることもある。彼は私を確かに愛しているのだろう。ただ、私だけではないのだ。私は彼を愛している。彼だけを愛している。食い違うのは其れだけで、もしも私ではない他の誰かだったら彼と幸せになることができたのかも知れない。
 今宵は満月。いつもよりもはっきりと、彼の美しい顔立ちが映える。彼の額を覆う髪をそっと払いのけてその愛しさに思わず息を漏らす。この美しい人が今まで自分の身体を愛でていたのかと思い出すだけで肌が粟立つ。細波の音がそんな感覚を助長して、思わず彼の頬に唇を寄せる。白磁の頬にぎゅっと唇を押しつければ、夢から覚めたように彼が瞼を持ち上げる。何故だろう、今宵の彼はひどく機嫌がいい。私の我が儘に眉の端を少し動かしただけで優しく応えてくれる。はじめはゆっくりと唇の先だけで。待ちきれなくなって舌先で彼の唇を舐めると、そのままきつく押しつけられた。彼の舌が意志を持って私の唇を押し開く。息をつく暇など与えてもらえない。頭の奥で警鐘が鳴る。嬉しい。窒息しそうなほどに長い時間。全身に苦しさが走って、意識を手放しかけたところで漸く唇が離れた。喉を鳴らして空気を吸い込む。
 どうしてこの人にはいつも、私の求めているものが知れてしまうのだろう。
 また、我が儘が頭をもたげる。心を覆い尽くす独占欲と、庇護欲。この人は誰のものにもならない。広い広い海をどこか一つの国が所有することなどできないように。それならば私は常に貴方の傍にありたい。その掌中に横たわる花でありたい。貴方が唇を寄せる花でありたい。

 貴方と共に在るものでありたい。


 私はね、いつか枯れてしまう花などに興味はないよ。
 君が花だというのなら、常に私のもとで咲いていなさい。
 そうすれば、気が向いたときには愛でるだろう。


 私は、変わってしまった。彼が変えた。
 
 彼に抱かれるたびに私は大人になった。昨日まで見えていなかったものが見えるようになった。高台に続く階段を一歩ずつ昇っていくようだった。彼の手に引かれて、それはとても甘美な夢だった。目の前に広がるのは、彼が見せてくれるのは今までとは違う世界だろうと思っていた。それは確かに正しくて、けれど同時に間違っていた。彼の腕に抱かれて見た海はいつもと変わらない、何よりも美しい海だった。それは、彼が隣にいるから。
 いつの間に忘れてしまったのだろう。そんな当然のことを。選ぶ権利は常に彼にある。彼を愛した者すべてが彼に愛されるわけではない。彼の愛した者でも、彼を所有することなどできない。何者も、彼の全てを望めない。


 人は好きだよ。花よりもずっとそれぞれが異なっている。
 見ていて飽きないだろう。


 私は、何という我が儘な存在なんだろう。いつの間にこんなにも我が儘になってしまったのだろう。まだ、彼に手が届くと信じていたのだろうか。空を舞う鳥や、雲や、そこに思い描く全ての夢を手に入れられると。
 唇を噛んだ。血が滲むほどにきつく、自らを戒めるように。
 彼は目を閉じて、何も言わなかった。其の仕草は肯定でも否定でもなく、けれどそれこそが彼の本心。彼にとって私は通り過ぎていく存在。ただ一度交わっただけの、ともすれば切れてしまうような細い糸。都に行くと、彼の口から告げられた言葉。寝物語にしてはひどく不作法で、そして苦い。その一言で簡単に、私たちの道は別れてしまう。いつも同じ美しさしか見せない花ならば、彼はいつか目を逸らしてしまうだろう。彼が求めているのは、可憐な花ではない。
 何もせずに空を見上げる花に、一体何が手にはいるだろう。
 それならば。私は、貴方の海でありたい。共にたゆとう波でありたい。永久に巡る輪廻の輪に組み込まれるものでありたい。貴方という海に繋がるものでありたい。
 貴方が、いつの日か巡り来る場所でありたい。

 彼は笑った。
 音もなく笑った。

 この人の心の底を、まだ、誰も知らない。

 当然のごとくついて行くのだろうと尋ねられ、私は首を振った。驚いた仲間達が口々に声を挙げる。確かに私はずっと彼の傍にいて、彼を愛していたし、また愛されてもいた。だから彼が都へ行くといった話を口にしたとき、おそらくは誰もが私もついて行くのだと思っただろう。年若い者の中には私と彼が恋仲にあると思う者すらいたかも知れない。その思い違いをただしてやるような優しさは私にはなかったけれど、自分がそんな思い違いのままで居られるほど子供ではなくなってしまった。
 彼に幾度も抱かれた夜とは違って、昼間の太陽が何もかもを照らし出そうと言うように輝いている。私は目を細めた。いつもと変わらないように寄せる波の音に耳を傾ける。その響きはどことなく、彼の囁きに似ているようだった。波音が私を抱く。

 愛しい人。
 今まで、私を愛してくれてありがとう。本当に嬉しかった。
 私はずっと、貴方は花を愛でているのだと思っていた。
 私は貴方の望む花になろうと思っていた。
 けれど、其れは間違い。
 貴方が本当に求めているのは、貴方という海を渡る鳥。
 果てのないその心を共に旅していこうという、無謀で、そして勇敢な。
 私は、鳥になれなかったから。
 どうか、貴方の望む人が見つかりますよう。
 もしもう一度、私のことを思い出すことがあったなら。
 私は、いつもここに。
 ここにいて貴方を待っている。
 貴方に似たこの海を眺めながら。

 いくつも言葉を綴って、そのたびに涙で文字が滲んだ。紙は次第に使い物にならなくなってしまって、結局は破り捨ててしまった。文字は彼が教えてくれた。幾度も書き直して、最後にはひとことしか書けなくなった。もう二度と交わることはないだろうこの道を、それでも恨むことなく。ただ彼と別れることの悲しみだけがこの身に満ちて、音を立てる。

 今ならば。
 私は、海になれるだろうか。

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