ふゆのうた

さぼさぬけ

 このところ二人で並んで歩く時は、彼がいつも風上。頬を切るように冷たい風から、彼がこっそり守ってくれているのに気づいている。彼のその心遣いが嬉しく、そしてもうひとつの感情を呼び起こす。
 こちらの世界に戻ってきてからというもの、紅葉は瞬く間に落ち、幾度迎えてもどこか物憂げな冬が訪れようとしていた。彼と並んで歩くのはもう幾度目のことになるだろう。いつでも彼は優しく、そして暖かい。こんな冬を迎えることになるなど、今まで考えたこともなかった。
 この冬は、今までの冬とはすべてが違う。
 それは、彼が隣にいるから。

「クリスマスなんですね」
 白い息を吐いて彼が笑った。レンズの奥にある優しい瞳が微笑む。ええ、と頷いて笑みを返す。冷えた頬が少し痛くて、両手で顔を覆った。
「覚えてますか? 八年も京にいたらこっちの事なんて忘れちゃったりしません?」
 まさか、と言ってまた彼は笑う。彼の笑顔はまるで、この冬の中にまだここだけが日だまりの残る秋であるかのような、そんな特別な気分を思わせてくれる。彼は、本当に、暖かい。
 隣を車が行き過ぎる。寒さに震える低いエンジン音が二人の会話をしばし遮った。
 その、瞬間に。
 誰が気づいただろう。気づいたとしても誰が信じただろう。高く高く吹き抜ける天を切なげに見上げる彼の瞳を。かいま見てしまったその表情の意味を問う前に、彼がそっと手を握ってくる。そこにはもう何のかげりもない、いつもの彼の表情が浮かんでいるものだから。
 間違いだったのだと思ってしまう。意図的に不安な視線を送っても、彼はその優しさですべてを包み込んでしまう。包み込まれてしまう。それが嬉しくて、けれど心に小さなとげを残すのだ。
 貴方が認めた神子の心は、実はこんなにも弱くて、曖昧なものなのだと。
「でも、今の冬は、京の冬とは大分違うから……多分、幸鷹さんが十五歳の時とも随分変わってると思うんです。あ、クリスマスは変わらないのかな」
 そうですね、と彼が応える。自分の言葉に耳を傾けてくれる。それを喜ぶべきだろう。他には、何も考えずに。今は、今だけは。何度心の内で繰り返したか知れない。
「こちらの世界は、たった八年で随分変わってしまいました。私が思っていたよりもずっと、時間の流れは早いものなのですね」
 たった八年…もう一度彼は小さな声で繰り返す。彼に近い方の耳だけが、その言葉の端を捉えた。捉えて、少し、冷たくなった。
「幸鷹さん?」
「ああ、すみません…少しあちらのことを思い出していました」
 彼は京のことを「あちら」と言う。まるで壁に隔てられてしまった全く違う世界かのように呼ぶ。それは自分から壁を作っているようでもあった。眉根を寄せ、上目遣いでどこか遠くを見やる。それは、言葉を探す時の彼の癖だ。この表情は、自分をひどく悲しくさせる。彼の、触れてはいけないところに触れてしまったような罪悪感を感じるものだから。
 思わず歩みを止める。風がことさらに冷たく吹いた。
「やっぱり、京のことが懐かしいですか…?」
 彼が振り返る。振り返って、自分を見る。声が掠れていたのは、冬だから。彼の表情がゆがむのは、きっと自分がひどい顔をしているからだ。
「それは…懐かしくないと言えば嘘になります。けれど、どうしてそんなことを」
 彼の瞳を見ていられない。情愛に満ちた彼の瞳から逃げるように視線を落とす。しなやかな彼の指先が視界の端に映った。まるで自分の視線を絡め取るようなその繊細な指先を見つめながら答えを探す。
 なぜ自分は聞いてしまったのだろう。それは、触れてはいけない部分だったのに。誰が決めたことでもない、けれど、自ら科した禁忌だったのに。おそらくはそれを忘れさせてしまうほどに彼は優しいのだ。
 言ってはいけない。
 言えば、この関係を壊してしまう。この優しい人を傷つけてしまう。
 また一台、車が通りすぎた。彼の指先がゆっくりと近づいてくる。繊細で、そして大きい。少し遠慮がちに手のひらが頬に触れる。その暖かさに思わず息を漏らす。添えられた手のひらが、ゆっくりと顔を持ち上げる。再び、視線が絡んだ。
「幸鷹さんが」
 あなたが、帰りたがっているような気がして。
 声にならない声、唇の先だけで紡いだ言葉に彼は小さく頭を振った。泣き出しそうな表情の自分が彼の瞳に映りこんでいる。きっと、彼もまた。彼の気持ちが分かってしまう。自分が彼のことを好きでいるから。彼が自分のことを好きでいてくれるから。共に互いを必要として、大切に思っているからこそ。この共鳴する悲しさに終止符を打つことができないで居る。
 薄曇りの空から、粉雪が舞い落ちてきた。その白く小さなひとひらが彼の暖かさに溶ける。それがいくつも積み重なれば、やがては彼の暖かさが冷たい雪に埋もれてしまうのだろうか。
「昔も、今も」
 わずかに彼の指が頬を滑る。
「あちらでも、この世界でも…」
 彼は言葉を句切って語る。ひとつずつ、彼の言葉が降り積もる。
「あなたと共にこうして雪を眺めることができる。それは私にとってとても幸せなことです」
 彼の言葉は答えではない。しかしそれは傷口を覆う布のように優しく、心を包み込む。それだけでは、いけないのだろうか。
 頬に添えられた彼の手に、自らの手のひらを重ねる。ふたりで生み出すぬくもりは、暖かくそして愛おしい。実感する…自分はこの人を何よりも大切に思っているのだと。
「幸鷹さん」
 胸にささった優しいとげがいつか春の息吹に溶けるまで。
「私の手を、離さないでください」
 優しい笑顔で、彼が応える。ぎこちない笑顔を返して彼の手を握り直した。
 そうして歩き出す。

 まるで、幸せそうな恋人達のように。

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