特集シリーズ                                                  
                                   

   

2006/03/20     

                                        
人がひとりっきりで存在したなら…!

     
1 主観的な事実と、客観的な事実

 
当サイトのQ&A室においては、「事実を詳しく書いてください」
とよく回答しています。それでも、「彼は優しい性格だ」という
ようなことを書いてくる人たちが後を絶ちません。正しく書くな
らば、「私は彼を優しい性格だと感じています」ではないでしょ
うか。その後に「なぜならば、こうこう、こんなことがあったの
で、なんて優しい性格なんだろうと私は思いました」が、最も良
い書き方だと言えるでしょう。

 「私は小心で臆病者です」と書いて来る人もよくいますが、そ
の後に「なぜならば、実は、○○なことがあり怖くて逃げ出した
」という事実を書き出してもらわねば、第3者には分かりません。
 「私は交通事故に遭った」ということならば、事実が含まれて
いますが、「あの人は優しい性格ではない!」というような類ば
かりなら、事実が含まれているのかいないのか、まるで判断でき
ません。

 つまり、「性格を知る方法」とは、それぞれの人の主観が左右
するもので、人によっては違う見方をしています。Aさんには、優
しい人に見えても、Bさんには恐い人に見えることがあります。そ
れは、観察者のタイプが違う場合があり、もう一つは、対象者と
観察者の心の状態によって変ってくるからと言えるでしょう。
 とても曖昧で分かりにくいのが、「性格」とか「気質」とよば
れているものです。従って、できる限り「客観的な事実」を書き
出して欲しいと声を大にして訴えるようにしています。

2 人の性格を知る方法

  人間の性格は、観察者によって違って見えています。事例を挙
げてみましょう。

 A君とB君は同じクラスで学んでおり、C先生は教師で、この2人
に数学を教えているという関係です。A君は数学が得意でいつも元
気よく発言したり質問する優秀な生徒です。C先生にとってお気に
入りの生徒のようです。
 一方のB君は数学が苦手で理解できないためか他の子とおしゃべ
りしてしまうようです。C先生にとってはとてもやっかいな生徒の
ようです。
 
 このような事例をあげれば理解しやすくなると思いますが、A君
とC先生は良い関係になり、B君とC先生の間柄は良くないのではと
予想できるでしょう。関係が悪ければ、C先生は、B君の性格を良い
と見る可能性は低くなります。内申書などに「B君は、不真面目な
学習態度を取り、目上に対して失礼な言動をする」などと書かれる
かもしれません。

 一方、クラスの全生徒たちに、C先生の性格について訊ねたなら
ば、C先生という人物が「それぞれまるで違って見えていた」とい
うことを知るのではないでしょうか。たくさんの観察者がいるため
に、C先生のいろいろな側面をたくさんに知ることができたに過ぎ
ません。

 このように観察方法がたくさんにあると、対象者の性質をより多
く知ることができます。そして、相互の関係によって、性格が違っ
て見えるのですから、もともとに「絶対的な性格」というものが備
わっているのではない、と分かって来るのではないでしょうか。



3 性格は比べて見ないと分からないもの

 
この世界でたった一人で存在していたならば、あなたの性格はど
こに浮き出るのでしょうか。あなたともう一人の人間が存在するの
で、その時にはじめて、あなたの性格が浮き出てきます。「自分は
あいつより弱虫だ」などと分かるとしたら、ケンカして負けたとか、
何かの出来事によって相手と比較したので、その性格があらわにな
ったに過ぎません。

 従って、「性格(気質)」とか「性質」というものに、「絶対とい
うものは無い」のです。また、それらは移り変わるものですから、
「一定不変」ではありません。そして、そのような曖昧模糊とした
「性格(気質)」「心理」を把握しようというのですから、自分の正
しいタイプが見つけられず、約8割近くの人たちが、自分のタイプ
を誤認してしまうのではないでしょうか。

 いつも他と比べてみないと、分からないのが「性格」というもの
で、相対的に見るべきものです。エニアグラムの9タイプを知れば、
人や物事との関り方が、各々違うことが分かります。他の人と比べ
るという方法だけでなく、他のタイプと比べることができます。
 また、自分と同じタイプの人と比べることも必要になってきます。
そして、エニアグラムを知らなければ、他のタイプと自分との違い
が、どれほどに大きな違いなのか知らないままになるでしょう。



3 何かを「知るための方法」

 
ところで、「人間は知的好奇心が強い動物である」という考え方
に異を唱える人はまずいないと思われます。私たちは、「それが何
か知りたい」ので、いろいろと試したり探したりして来ました。し
かしながら、「何かを知りたい」のであれば、その何かを知ってい
く「方法」または「手段」が必要です。

 たとえば、ある諺の意味を知りたいならば、辞書をひっばり出し
て、その項を探せば見つかります。現在はインターネットでも探せ
るようになったので、知るための方法はたくさんあり、しかもとて
も簡単に得られるようになりました。

 しかし、あなたが縄文時代に生きている人間であったならば、知
りたい情報は容易に得られるものではありません。例えば、耕地に
蒔いたタネが発芽しなかったならば、その原因を知りたい時はどう
したのでしょうか。まずは、村では物知りと知られた古老を訊ねる
のかもしれません。この古老が知らなければ、他の村々の物知りに
尋ねまわるのかもしれません。

 ここでエニアグラムを取り出すならば、賢いタイプ5の古老がい
て、次のように答えてくれるかもしれません。「発芽するのは、土
地の性質と関係する。従って、試しに日当たりや水はけの違う土地
数箇所に別けて、タネを蒔くと良いであろう」 
 どうやら、タイプ5の人たちの行動パターンを知ると、このよう
な役割を担っているのではないかと予想されるのです。

 
しかし、誰も教えてくれなかったならば、原因は分からないまま
になります。それでも知りたいのであれば、自分なりに原因を幾つ
か仮定しつつ、どの仮定が当たっているのか試すのではないでしょ
うか。試行錯誤しながら実験を繰り返したならば、やがて真の原因
を掴めるでしょう。


4 より多く観察すれば、より多く知ることができる
 
 
例えば、目の前にサッカーボールがありますが、あなたが縄文時
代の人間だったとしましょう。たぶん「なんじゃこれは?」と驚き
つつも手にしてしまうでしょう。手の中でもて遊ぶうちに、なにか
面白そうなものだと感じて、やがて遊びに使えるものだと分かるの
かもしれません。それとも、異様なものだと警戒して村に引き返し
て、村人たちに報告するのかもしれません。

 
さて、サッカーというスポーツも知らず、サッカーボールという
ものを全く見たことが無い人であれば、どのような物なのか判断す
るのは容易ではありません。たとえば、あなたが盲目であったなら
ば、ボールを手で触って何物なのかといろいろと考えることでしょ
う。すると、ボールは球体で少し弾力があるものだと分かります。
しかし、色や柄は分かりません。

 あなたが視力が良い場合でも、ボールがマンションの窓ガラスを
隔てた遠くにある野原の片隅にひっそりと留まっていたならば、白
黒模様は見えますが、丸いものだと分かっても球体には見えないか
もしれません。弾力のある物だとも分からないままです。


 
「目で確かめる」「手で触る」という方法があるので、対象にな
る物がどのような物なのか分かります。もしも、私たちにとって、
「知るための方法」が全く無いとしたら、その物は実在しないもの
です。

 従って、何かを知りたいという時、観察方法が無ければ、永遠に
対象物を知ることはできません。そして、知る方法が上記以外にも
さまざまにあるので、私たちは、対象になる物の形態や性質などを、
さまざまに知ることができます。つまり、観察方法が多くあれば、
対象物をより多く知ることができ、より理解できるというに過ぎま
せん。2の項で説明していることと、同じ原理です。


5 究極の2つの観察方法

 
「光とは何か?」という究極(?)の疑問を抱いたのは、人類が
好奇心の強い動物だったからと言えるでしょう。ところが、あまり
にも対象が極小なので、観察方法を見出すことさえできなかったも
のです。どのような物なのか分かったのは、ごく最近のことです。

 さて、「光」の強さを弱めていく実験をすると、「光」は一つ二
つと数えられるようになることが確かめられています。数えられる
ので、「粒」ではないかと考えられ、「光」は「粒子」に似た性質
を持っていると言われています。また、光を別のある方法で実験し
ていくと、水の波のような干渉現象を示しており、光の性質は「波」
に似ていると考えられました。

 しかし、光が同時に粒子と波の両方であるように振舞うことを示
す観測方法は無かったのです。つまり、どの方法で観測したかによ
って、光は「粒子」になり、別の観測方法を取れば、「波」でしか
ないんです。

 光以外のものなら、たとえば「電子」についてもよく似た言い方
をしています。「電子は蛍光物質と衝突して物質作用し合うと、粒
子として振る舞い、空間を移動する時は、波として伝わる」などと
言います。

 また、陽子と中性子、原子と分子も同じ性質があるので、粒子で
もあり波でもある物質は、全て「量子」と呼ばれています。この世
界にある究極の物質である量子が、このように二つの観察方法によ
って、その性質が二つあることが分かっているのです。


 
私たちが事実だと認めているものは、観察の仕方によって出てき
たものであり、従って、観察によって作られているとも言えます。
もっと要約すると、「事実は観察の仕方に拠る」とも言えるでしょ
う。

 つまり、存在している何かとその性質は、そのもの自身に備わっ
ていることを指さず、周りとの「関り方」によって決まってくるも
のだと判明したのではないでしょうか。これも、4の項で説明して
いることと同じです。


6 
「マッハの原理」

 
先のところで「光」を取り上げましたが、「光」も私たち人間も、
同じ宇宙の中にある「ひとかけら」です。
 夜空を見上げると星がまたたいていますが、なぜまたたくのだろ
うと調べてみた人がいたようです。大気は、風や温度の変化によっ
て、密度の大きなところと小さなところがあります。光は、密度が
小さくて早く走れそうなところを選んで進み、密度が大きくて進み
にくいところは避けるのだそうです。

 そんな光の様子を、私たちが地上から見ていると、光の量が減っ
たり増えたりしているために、私たちには星がまたたいているよう
に見えます。人間も、山奥の樹木の茂っている密度の濃いところは
早く走れません。しかし、野っ原ならばとても早く走れます。光も
人間と同じで、楽なほうを選ぶのであり道も選んで進むのではない
でしょうか。結局のところ、光も人間も、行動原理は基本的に同じ
なんだということです。
 
 ところで、「マッハの原理」を大学などで学んだことがある方も
いるでしょう。エルンスト・マッハは自然科学の分野で活躍した人
ですが、音速を表す単位(マッハ1=音速)で、その名前が知られ
ています。彼の解いたことは次のように要約されています。


@ある物体の質量は、その物体のまわりの全ての物体との関係で決
る。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には、何の意味も
ない。(マッハの原理)

A認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニュ
ーロンと同じ瞬間に発火している他の全てのニューロンとの関係に
よって、またそれによってのみ決定される。ニューロンは、他のニ
ューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で
存在するニューロンには意味がない。
(認識におけるマッハの原理)


 
7 性格とは関係性で変容するもの

 人間も光も物質も、基本的には同じ行動原理で動いているのであ
り、それは他との「関り方」や「関係」で決まり、関係がなければ
(=絆が無ければ)無いに等しく、何の意味もないからです。

 さて、当会にある基本理論の中には、「あなたと世界との関り方
は?」という一文を載せています(以下一部のみ) 。

 
一切のつながりを持たないものはなく、私たち人間は絆なくし
ては生きられない動物です。つまりは、
誰もが何らかの「関係」を
持っています。逆に言うなら、関係を全く持たないものは「存在し
ていない」ということになります。それゆえ、「関係(絆)」を見
て行けば、自分が何者なのか分って来るのではないでしょうか。
 この考え方を基にして、性格の根本的な分け方を考えていくと、
9つの性格がどこから来たか明らかになります。

  
 http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/static/theory1.htm

 当エニアグラム性格学は、「関わり方」というものから、9タイ
プの性格分析をしています。世界との関係の仕方、あるいは他人と
の関り方から、人間の気質をひも解いています。性格(気質・性質)
というものを知るに、最も正しい真理に到達していると言っても間
違いではないと考えています。

 さらに、不思議と言えば不思議なことですが、「光という究極の
物質が、2つの観察方法によって、その性質が2つあることが分か
っている」のです。当会の理論によっても、「人の性格も2つの観
察方法(関り方)によっている」と明らかにしています。


1・自分と世界との位置関係(自己認識)

  自分は世界の中心に位置すると自己認識するタイプ(8・2・5)
  自分は世界とともに在ると自己認識するタイプ(3・6・9) 

  自分は世界の淵にいると自己認識するタイプ(7・1・4) 


2・世界と自分との結びつき方(世界認識)

  世界と自分は否定的に結びついているタイプ(8・3・7)
  世界と自分は肯定的に結びついているタイプ(2・6・1)
  世界と自分は両価的に結びついているタイプ(5・9・4) 


8 私たちは「星のかけら」のそのまた「かけら」
 
 
人間の性格は9タイプに分かれることが事実だと分かったら、で
は「どうして9つになるのか」、はたまた「9つでなくてはならぬ
のか」と疑問に抱いた方もいると思います。私も、その必然性をず
っと探っておりました。その折に人の性格は、人との関り方から考
えるべきではないかと気づいた時に、クリアに見つかったものです。
そこまで到達すれば、その後は一気に進むべき道が見通せて来たと
言えるでしょう。

 さまざまな性格類型論がありますが、「関係性」と「それを原理
的に捉えて別ける」という考え方で、類型化していません。それで
は「性格」というものを読み解くことはできないのではないでしょ
うか。エニアグラム理論を持ち、その理論を応用してカウンセリン
グ活動をしているのも当会だけのようです。真実を表わすものでな
ければ、実用化できないのは言うまでもありません。

 そして、人間という存在を特別視する人たちがいますが、私自身
はずっとそういう考え方に納得できませんでした。エニアグラムと
この原理と出会ったことで、心が解き放たれたような気分になれま
した。ここを読むあなたには、まだ疑問が解けないままかもしれま
せんね。しかし、物事の根本原理は、よく似ていることを知ってい
ただけたと思いますが……。