昔話や童話からタイプを理解する方法
 シリーズ6
                        


シンデレラは、タイプ3かタイプ7なのか?

                         
1 片親しかいないのはなぜ?      

 
童話やおとぎ話を読むとき、不思議に感じられることがしばしばあります。いじわるな継母が出てきて、美しい娘が悲しい目に遭うのですが、お父さんが登場しないのです。以前に取り上げたグリム童話の「つむぎの髭の王様」では、厳しい父親が登場しますが、母親は生きているのか死んだのか、全く取り上げられていません。シンデレラも白雪姫のお話も、父親がほとんど登場しないのです。

 そんな童話を読むと、「お父さんはなぜ娘を助けないのか?」、「お母さんは死んだの? どうして書いてないの?」と、どうも釈然としません。あなたも、そんな疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。

 さて、当会のエニアグラム理論でタイプを判定できるようになると、父親の存在が大きくて、母親の存在が小さいタイプがいると分かります。その逆で、母親の存在が大きくて、父親はかすんでいるタイプがいると納得できます。なお、エニアグラムを知らなくても、実際に、或る人は母親の話ばかりして、或る人は父親の話題ばかりしていると気づいたことがあるかもしれませんね。

 例えば、タイプ7w8の娘さんが家族写真を見せてくれました。「母は若い頃きれいだった!」と、ひとしきり嬉しそうに話します。父親も隣に写っているのに、父に関する話は全くしないのです。まるで、父親などいないかのようです。

 タイプ4は、帰宅するとすぐに、「お母さんは?」と、その居所を訊ねたりします。学校の宿題がうまくできないと、傍に父親がいるのに、別室にいる母親に大声で呼びかけて教えてもらいたがります。まるで、父親はそこに居ないかのような振る舞い方です。
 
 このように、作品を書くときにも、どちらかが省略されてしまうのです。日頃の振る舞いを見ると、それはまるで、童話のなかに有ることと同じではないでしょうか。


2 困った親や尊敬できない親を持つと、子どもは〜、

 当会では、母親の存在が大きいのは、「8・3・7・4」で、父親の存在が大きいのが、「2・6・1」と分析しています。しかし、それだけでタイプ判定は致しません。

 たとえば、母親がとんでもなく困った人なので、母親の話ばかりする場合があります。たとえば、或るタイプ2の娘が、タイプ7の母親への不満ばかりこぼしていました。父親の話をほとんどしないのです。この方はたまたまタイプ9の父親で、タイプ2にとって、タイプ9の父親は影が薄くなるようで、しばし忘れられることが多いようです。

 或るタイプ6の男性には、タイプ4の母親がいて、反抗的でした。タイプ6は、女をみくびることがよくありますから、母親にはわがままとなり強気です。タイプ4の母親も息子には負けられず、しばしばケンカになります。腹を立てて不満が多いためか、タイプ6の息子は、母親の話ばかりするのです。

 タイプ1も、母親にはわがままとなり、よく甘えて、いつも一緒にいたがります。「ママッ子」のように思われて、母親の存在のほうが大きいように見えます。しかし、本当はお父さんの存在が大きいのですから、表面的に見ると、間違えてしまいます。

 このように、父親の存在のほうが大きいタイプ(2・6・1)でも、母親の話ばかりする場合があります。母親の存在が大きいタイプ(8・3・7・4)なのに、父親の話ばかりする人もいます。当人にとって、やっかいで嫌な親ならば、その親のことばかり意識するのは当然のことです。

 その逆もあります。母親が自慢の存在であるとか、父親をとても尊敬していたりすると、その親の話ばかりします。これはどのタイプでもあり得ることです。タイプ判定が難しいのは、このように、さまざまなことを考慮しなければならないためで、簡単ではありません。


3 母親からの虐待 

 昔話に出てくるいじわるな母親は、実は継母ではなく、実母だと解釈されることもあるようです。残酷な話が多いので、子どもたちには、実母ではなく継母にしたほうがよいと判断されて、改変されたというのです。

 しかし、私たちはいろいろな報道から、実父母が実子を殺しており、継父母も継子を殺していることを知っています。親子間だけでなく、夫婦間でも兄弟間でも殺し合いはあり、助け合うべきはずの家族が、憎しみ合う関係になっていたりします。

 それゆえ、童話は現実の世界をそのまま反映しているのです。当然に、実母や継母から虐待されている娘たちが登場する話は作られるはずではないでしょうか。

 さて、「シンデレラ」の類話は世界中に無数にあるようです。ディズニーが映画化したために、それぞれの国や地域に伝えられているシンデレラ物語があることを忘れられてしまいそうです。日本にも「灰坊」などという男版のシンデレラ物語があります。

 継母と姉妹、そして、シンデレラも、その描かれ方を見ると、とてもイキイキとしています。しかし、男性たちは凡庸で、その存在はかすんでいるように思われます。王子さまはシンデレラを好きになったらしいのですが、ただそれだけのことです。ガラスの靴の履き手を探すのも、家臣たちに一任しており、シンデレラを救うとか獲得するための冒険なども全くしていません。

 それは、この物語が女性のための女性による物語だからなのかもしれません。しかし、もしもシンデレラ物語を最初に創作した女性がいたら、それは、「8・3・7」の中のある娘だったのではないかと考えることもできます。

 なぜなら、この3つのタイプは、女性を強く意識するタイプであり、男性の存在はかすみがちです。また、母親に対して過剰に意識するタイプだと、当会では分析しているからです。


4 女性に惹かれるが「女性が怖い!」
 
 3つのタイプ(8・3・7)は、女性好みがはっきりと見えるにもかかわらず、女性たちが怖くて、拒否したり避けてしまうことがよくあります。女性からやさしい言葉をかけられると、驚喜しますが、少し無視されただけでも、嫌われたに違いないと不安になります。とかく女性に対して過剰反応しやすいタイプです。従って、そんな女性への複雑な思いが、この物語を作り出した動機ではないかと予想します。

 また、タイプ4は母親の存在が大きいタイプですが、女性に意識が向くタイプではありません。しかし、人間全般を怖がることがあるので、タイプ4の娘が作ったのではないかとも想像できます。

 ただし、とかくタイプ4は悲劇的な結末を想像する傾向があります。総合的に考えるならば、タイプ4の可能性は低いのですが、想像力があるので、物語を一杯に作り出していると思われ、このタイプの可能性はあります。これから一杯に紹介できそうですから、とりあえず、今回はタイトルから外しています。

 グリム版の初版では、シンデレラの実母は亡くなる前に、娘を呼びます。「天国に行っても、お前のことは上から見ています。私の墓の上に木を植えて、何か欲しいものがあったら、その木を揺すりなさい。そうすれば手に入ります。お前が困ったら、助けを送ります」 

 生きている父親のほうは娘に何んの手助けもしないのですが、なんと! 母親は死んでからも娘を助けて、欲しいものがあったらあげるとまで言うのです。さながら、太母またはグレートマザー(
Great Mother)です。「8・3・7・4
にとって、母親という存在は、他のタイプと比較にならないほど、グレートなマザーなのです。


5 童話は事実を反映している

 さて、王子が、
ガラスの靴に合う娘を探していると聞いて、国中の娘が靴を試します。二人の姉も靴を履こうとしますが、つま先は入っても、カカトが大きすぎました。

 そこで継母は自分の娘のカカトをナイフで少し切り落として、無理やり足を靴の中に押し込めました。しかし、靴から血が流れて、探している娘ではないと気づかれてしまいます。下の姉も同様にカカトを切り落としますが、やはり気づかれてしまいます。

 
ディズニー版では、あまり残酷な物語にはなっていません。しかし、上記のように、驚くほど血生臭い残酷なものが残っており、語り継がれています。

 物語の結末ですが、
シンデレラは無事に王子と結婚して、幸せに暮すことになっています。しかし、その後のお話しとして、大きく二つの系統があるようです。

 お人好しのシンデレラと、復讐するシンデレラとに別けられるのです。お人好しのほうは、継母も姉も許して、城で一緒に暮らします。復讐するシンデレラのほうは、継母と姉妹は厳しく罰せられて、盲目になるとか、貝や虫などに変えられてしまいます。

 シンデレラについてもっと詳しく知りたい方のために、下のサイトを紹介します。
  
http://enkan.fc2web.com/minwa/cinderella/index.html

  
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/jeanne/cin/cin01.html#01



6 玉の輿(こし)に乗りたい娘たち
  
 中世の頃、貧しい娘たちが、夜空の星を見ながら思いを馳せるとしたら、いつか王子さまが自分を見つけ出して、城に迎えてくれるという想像ではないでしょうか。全タイプの娘が望むことなんですから、シンデレラの類話が世界中にあるのは必然的なことです。なかでも自己顕示欲が強いとか、上昇指向の強いと言える
「8・3・7」にとって、この物語は幾度読んでも飽きないでしょう。

 しかし、ちょっとばかり違和感を抱いてしまう女性もいます。つまり、「王子さまに見つけ出される自分」ではなく、「王子さまを自分の手で見つけたい」と願う女性もいるのです。

 この3つのタイプの中では、タイプ8です。二人の姉にいじわるされて、カマドの灰のなかで泣き寝入りするような女性には見えません。どちらかというと、いじわるして、継母と姉を追い出してしまうくらいの男勝りな女性だからです。

 また、この3つ以外のタイプにも、玉の輿願望はあります。うちタイプ2と5の中には、タイプ8と同様に、自分の手で王子を見つけたがる娘がいるかも知れません。このタイプのなかで、大胆で自信のある冒険心の強い女性ならば、シンデレラ物語に違和感を感じるのではないでしょうか。

 タイプ3とタイプ7は、受け身になりやすいタイプです。優柔不断で、なかなか自己決定ができず、相手から選ばれるとか求められたほうが、素直に付いていけます。また、王子さまに選ばれることが、自分にとっての誇りになるからです。タイプ3と7の母親は娘に、「男に求められて結婚するほうが、女は幸せになれるのよ」とよく諭すようです。

 むろん、その他のタイプの母親でも言う可能性はあります。そのタイプしか言わない言葉というものは無いからです。タイプ判定が難しい所以です。





7 継子は虐待されるもの
 

 話は少しズレますが、日本国内の最近の虐待事件として印象に残るものは、中学生男子が虐待されて、衰弱死する寸前に救出されたことです。実父とその内縁の妻が子どもに折檻したり食事を与えなかったようです。(2004/01/25)

 2001年の厚生労働省の発表によると、全国で1年間に30000件の虐待がありました。そのうち、死亡や重症例は、11%で、年間3300人。死亡したのは、61人です。1日あたり約9人の子どもが虐待されて死亡したり重症を負っています。

 少し古い情報ですが、
1976年の米国の調査で、「継子が虐待される危険性は大きい」と出ました。片親が実の親で、もう片親が継親の3歳未満の子どもは、実親と暮している場合より、虐待される危険が7倍も高かったというものです。

 さらに、もっと凄い数字もあります。虐待致死の事例279件に絞って計算すると、片親が継親のときは、両親ともに実親であるときと較べてみると、およそ100倍も危険率が高いと報告されています。 
 
 1983年カナダのある地区での調査では、実親と暮している就学前の子どもで虐待を受けているのは3000人に一人の割合でいました。片親が継親の場合の子どもは、75人に1人の割合で虐待されていたというものです。

 
(上の外国の記事は、マーティンデイリー&マーゴ・ウィルソン著、竹内久      美子訳「シンデレラがいじめられる本当の理由」新潮社より転載)


 ちなみに以下のところは、ここと関連があります。一度、お読み願えたならと思います。
        
http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/active/page15/15-201~/15-231.htm

 
8 動物界でも、まま子いじめはある

 
1962年、杉山幸丸氏(元京大霊長類研究所)が、子殺しをするオスザルを発見しています。ハヌマンラングールという名の霊長類ですが、群れを乗っ取ったオスが、先代のオスの子を殺していることを観察して、世界でいち早く発信しています。

 ライオンのオスも、群れを乗っ取るとすぐに、群れの子どもを見つけて片っ端から殺してしまうようです。ライオンのメスは妊娠出産して、子に授乳したり世話する期間が長く、その期間はホルモンの状態で排卵が抑制されます。するとメスは発情しないため、オスはメスと交尾できず、自分の子どもを得ることはできません。メスと交尾できるようにするには、子殺しをせねばならないようなのです。

 ゴリラやチンパンジーの社会も、オスが群れのボスに治まると、先代のボスの子を殺すことはよく知られています。また、このようなことは、ハーレムを形成するライオンやゴリラだけでなく、一夫一婦制を取る鳥類にもよく起こります。

 直接に殺しはしないが、子育て放棄するという間接的な子殺しです。いわばネグレクト(拒否)です。人間界にも、授乳せず食べ物を与えないなど、子育てを拒否をして、間接的に子殺しをしている事件が後を絶ちません(上記の中学生男子の例)。

 自分と血の通っていない子どもは、投資するに値せず、気に入らないと虐待したくなるのは、動物も人間も同様です。また、動物だとて、実親が実子を殺していますが、ヒトもその他の動物も、最終的には我が子よりは自分が大事なのではないでしょうか。

 しかしながら、動物も人間も群れとともに生きていますから、群れ社会のなかで、互いに助け合い支え合っているという事実も、忘れてはならないと思います。

 ヒトの社会も、自然界にいる動物たちの社会も、同じようなことをしています。とくに人間だけが残酷ではないようです。人間というものは愚かで汚らわしい生き物で、動物は無垢で純粋であるなどと考える方がいます。一方、人間こそは神から選ばれた霊的な存在だと信じ込んでいる方がいます。どちらも事実を見ていないのではないでしょうか。