「オスカル、起きろ。風邪を引くぞ。風が冷たくなってきた。俺も寝過ごした。
そろそろ準備に帰らないと、祈りの時間に間に合わなくなるぞ。」
しばらくして、アンドレが少々赤い顔をしながら、私を起した。
気持ちよい眠りから起されて不機嫌な私は、彼の首に腕をまわして、
抱き上げるようにねだった。
「手間のかかるお嬢様だ。」
彼はぼやきながら、私を抱き上げ、大きな木を支えにさせると、服についた草を
払ってくれた。
「ああ、ありがとう。久しぶりに気持ちよく、こんな素敵な自然の中で昼寝したな。」
「俺は準備があるから、先に行くぞ。ゆっくりと着いて来い。オスカル」
彼は顔を赤らめたまま、馬に乗り、私を置いていってしまった。
「変な奴だな。あいつ…」
それからしばらく、ゆったりと自然の中で過ごし、静かな音を立てながら、
私の体の中を流れている不思議な感情に思いを馳せていた。
それは今まで感じたことのない不思議な「生きる歓び」を私に与えてくれた。
でも、この感情が一体なんなのか?
…結局、休暇が終わっても、私には、はっきりとわからなかった。
彼の誕生日までには、この不思議な感情について、私はしかと自分で
理解することができるのだろうか?
休み明けには、また政治のゴタゴタが私達を待ちうけていた。
アンドレの誕生日には、一日の警備の仕事を終えて、夕方から、パリを囲んで
巡らされている税関の壁のすぐ外側のガンゲット(酒場)で、 二人だけで酒を飲んでいた。
テーブルと椅子が屋外にある田舎風のつくりで、ここは私達のお気に入りの店だった。
彼の望み通り、誕生日のその日、私はできるだけ笑顔で過ごした。
その夜、屋敷に帰りついた私に、アンドレは、
「ありがとう。素敵な誕生日の贈り物を貰ったよ。」
と囁き、自室へ引き上げて行った。
彼の言葉は、不思議なほどの幸福感を私の胸に広げてくれた。
その後、フランス国内の性急な変化だけでなく、私の身辺にも嵐のような変化が、
つぎつぎと巻き起こった。
突然の結婚申し込みと父からの結婚命令、そして、いつもは落ちついているはずの
アンドレの不思議な行動の数々…。
そして、二人の乗った馬車が襲われて、フェルゼンに助けられた。
私はその時初めて、ロワイヨモン修道院を囲む自然の中で感じていた、
自分の心の不思議な感情に名を付けるべきかもしれないと思った。
あれは、私のアンドレへの「ただの女としての愛」だったのだ。
私は結婚話を自ら断り、軍人として生きていくと父の前で誓った。
年が明けると、まもなく三部会に伴う騒乱が、フランス中に吹き荒れた。
三部会が開催され、王太子様が幼い命を失い、その後、私は初めて上官の
命令に背き、父との対決を迎えた。
その父の刃から私を守ってくれたのは、アンドレだった。
その時初めて、私は迷ったあげく、彼に私の心を告白した。「愛している」と…。
ベルナールの力を借りて、部下のアベイ牢獄からの釈放を勝ち取った。
その次の日、私は、珍しく高熱をだした。
ラソンヌ医師の診断では、極度の緊張から解放されたせいで、ゆっくりと休めば、
熱も下がるだろうというものだった。
効き目の強い苦い煎じ薬を飲むようにと、医師は私に言い聞かせて帰っていった。
いつもなら、私の看病は、ばあやの仕事なのだが、彼女も寝込んでおり、
私も侍女より、アンドレにそばにいて欲しかったので、大人しくしていた。
しかし、この薬は効くのだが、特別苦いのだ。
「さあ、オスカル…口を開けて。」
「アンドレ…気のせいか…おまえ…楽しそうだな。これは苦いのだ。知っているだろう?」
「あとで、良い物をあげるから、飲むんだ!」
「ふん、子供扱いするな。熱なんて寝てれば、下がるさ。寝不足なだけだ。」
私は、なんとなく悔しくて、羽根枕に顔を埋めた。
彼は私の髪をかきあげて、首の後ろにくちづけして、耳元で楽しそうに囁いた。
「薬を飲まないなら、弱っている今のうちに襲ってやろうかな?
熱のせいか、瞳が潤んで、唇は紅くて、たまらなく魅力的だ。
煎じ薬と俺に襲われるのと、どちらがお好みですか? お嬢様」
私を見つめる黒曜石の隻眼が憎らしいほど楽しげで、悔しかったが、
選択は一つしかない。
「わかったよ。飲めばいいんだろう?飲めば…。苦くても飲むよ。」
まるで子供の頃のように、彼が差し出す薬を飲み込んだ。
「うん、良い子だ。では、ご褒美に砂糖菓子をあげよう。はい、目をつぶって…オスカル」
悔しかったが、しかたなく彼の言うとおりに、目をつぶった。
口の中の苦さを早く砂糖菓子でごまかしたかったからだ。
ところが、彼は私にくちづけして、甘めのヴァンを口移しで、流し込んでくれたのだった。
砂糖菓子より、この方が私には効き目があった。
結局、私は彼に降伏して、彼の首に自分の腕を巻きつけ、思いがけない
甘い贈り物に溺れた。
その後、彼は私の寝台の端に腰掛けて、私が眠るまで髪を撫で、そばに
ついていてくれた。
夜中にふと目覚めると、寝台のすぐ横に長椅子を運び、眠り込んでいる
アンドレを見つけた。
熱も下がったらしい私は、さっきの仕返しのつもりで、彼の腕を動かし、
胸の中にもぐり込んだ。
彼もここ2日間ほど、まともに眠っていなかったせいか、起きる気配もなかった。
私は、やっと安心して彼の腕の中で、眠りについた。
アンドレが、もぞもぞと動いたので、目が醒めると、彼がひどく驚いた顔で、
私を見つめていた。
「す、すまなかった…俺…おまえを勝手に寝台から連れ出たのか?
ごめん。悪気はなかったんだ。いや、記憶すらないんだ…熱はどうだ?気分は?
しかし、またやってしまったな …俺ってどうしようもない男だ!
はあ、一度先生に相談した方がいいだろうか?」
私は、彼が何を狼狽しているのか、さっぱりわからなかった。
でも、とりあえず説明してやらないと、悩んでいるらしい彼が、かわいそうに思えてきた。
「熱がさがって、夜中に起きたら、おまえがここで付いていてくれたから。
おまえの胸の中なら寝台より気持ちよさそうで、私が勝手に入り込んだだけだよ。
おまえが私に何かしたわけじゃないよ。安心しろ、アンドレ…
おまえは、紳士だったぞ。」
おはようの軽いくちづけを彼にしながら、事情を説明してやった。
「よかった〜。俺が勝手に寝台からおまえを連れ出していたわけじゃなかったんだな。
安心したよ。自分に理性が残っていた証拠だ。よかった!」
「でも、またやってしまったって、何のことだ?アンドレ」
「う…つまり、白状すると…去年、ロワイヨモン修道院の近くの森まで遠乗りに
行った時に、二人で昼寝しただろう。覚えているか?オスカル」
「…ああ、そういえば、そんなことがあったな。あの昼寝もすごく気持ちよかったけど…
でも、それが、一体何だったんだ?」
「あの時、昼寝しているうちに…どうもおまえを勝手に抱きしめていたらしい…。
べ、別におまえに何かしようなんて下心はなかったんだ。
本当だ、信じてくれ。オスカル」
私は彼の告白を聞いて、なぜ昼寝から起きた時、彼の顔が妙に赤くなっていたのか、
やっと理由がわかった気がした。
私は内心笑いたかったのだが、さっきの砂糖菓子の仕返しを
していなかったことに気がついた。
「ふうん、おまえ…昔、私に誓ったことを破っていたんだな。
これは、罰が必要だな。」
「で、でも、今はもう必要ないだろう?俺達は恋人同士で、おまえは俺だけのものだ。
そうだろう?オスカル」
アンドレは私を抱きしめて、必死に言い訳を考えているようだった。
いつも落ちつきはらっている彼が、子供みたいでおかしかった。
「でも、罰は必要さ。アンドレ、さあ、目を閉じて…絶対に開けるなよ。」
「しょうがない。俺の恋人は、厳しいからな。覚悟を決めました。
何なりと罰をお与え下さいませ。女神様」
彼は神妙な顔つきで、私の言うとおりに目を閉じ、次の行動を待っていた。
私が平手打ちでもすると思っているのだろうか?
そんなことをするわけないだろう…こんなに愛しているのに。
ふい彼の耳元で囁いてやった。
「では、私も告白しよう。あれは、私がおまえの胸の中に勝手にもぐり込んだんだ。
私の意思さ。おまえが心配するようなことは、全然なかったよ。」
ふいに目を開けた彼は、驚いて私を見つめていた。
でも、次の瞬間、私を強く抱きしめ、態勢を逆転した。
私は彼の下になってしまった。これはまずい。形勢が不利だ。
彼はとびきり甘い声で、私に囁いた。
「オスカル、俺は修道院から帰ってからも、しばらくずっと悩んでいたんだ。
おまえこそ、お仕置きが必要だな。それも、おまえが一番苦手なお仕置きがな…」
そう言い終わらないうちに、彼は私をくすぐり始めた。
「やめろ、バカ!くすぐったい…やめてくれ…アンドレ、お願いだから。」
これでは、恋人同士ではなくて、子供同士の喧嘩だ。
「“やめろ”じゃないだろう。“止めてください”だ。それから、もう一つ…」
「もう一つ、何?アンドレ」
「甘いくちづけをつけること、もちろん、俺が満足するまでだ。」
勝ち誇って、嬉しそうな彼の顔が、子供の時みたいでおかしかった。
「はい、畏まりました。モン・シェリ」
「大変素直でよろしい。マ・シェリ」
二人とも思わず、笑い出していた。
アンドレのことを「モン・シェリ」なんて、甘い言葉で呼ぶ日がこようとは、思わなかった。
きっと彼も同じようなことを考えていたのだろう。
突然、真面目な顔になると、私に告げた。
「おまえを、こんなに抱きしめることができるなんて…夢のようだよ。」
「私も、こんなに寝心地の良い場所を無償で提供してもらえるなんて、夢のようだよ。」
私の言葉にまだ喧嘩の名残を見つけた彼は、とうとうお仕置きを再開した。
私の唇に、くちづけの嵐を落とし始めた。
ひとしきり、くちづけの嵐が止むと、私は真剣な顔で彼に囁いた。
「…フランス各地の軍隊がパリに集結を始めた。
これから、また世情は一段と厳しくなるだろう。
時間はかかるだろうが、もし、この騒ぎが落ちついて、また休暇が取れたら、
もう一度、あのロワイヨモン修道院の近くの森に行こう。
今度こそ、ただの恋人同士のように、二人だけで森の声を聞き、
川のせせらぎに耳を澄ませ、木漏れ日の中で戯れて、自然の美しさを、
優しさを思いきり楽しもう。
できれば、今度のおまえの誕生日に間に合うと良いけどな。アンドレ」
「ああ、いつか、きっとまた二人で行こう。オスカル」
私はもう一度彼の胸に顔を埋めて、今だけの幸せを噛み締めていた。
私は、急に昨年ロワイヨモン修道院の院長をしていた伯父が、最後に呟いていた
言葉を思い出した。
『これは、おまえ自身で気付くべきことだろう。おまえの本質的なものなのだから…』
そうか、伯父は私自身の女としての微妙な変化を感じ取っていたのだ。
年寄りの目はごまかせなかったというわけだったのか?
「ふふふ…」
「何がおかしいのだ?一人笑いなんてして…」
「いや、ロワイヨモン修道院での静かな休暇が開けた途端、つまり、休み開け
(ラントレ) は、私も世間もずっと忙しかったな…と思ってな。
今度のラントレは、もっと静かに過ごしたいよ。アンドレ」
「…それは永遠に無理だろうな。諦めろ。あいつら衛兵隊員がいる限り、
静かなラントレなんて、おまえには永遠に無いと覚悟しておいたほうがいいぞ。」
「なんてつれない恋人だ…おまえの誕生日には、ばあやが泣いて喜ぶくらい
精一杯着飾って、私一人で、もっともっと優しい男を探しに舞踏会へでも行ってやる。
見ていろよ。ふん…」
「オスカル…それだけは、止めてくれ。前言は撤回する。
できるだけ静かなラントレをご用意させていただきますから。マ・シェリ・オスカル」
「私に勝つなんて、十年早いぞ。モン・シェリ・アンドレ…」
「ふうん、じゃ、こうしたら、どうかな?」
ふいに、また私にくちづけの雨を降らしながら、彼は嬉しそうにささやいた。
彼は私の出仕を既に1時間も遅らせてくれている。あとでお仕置きだ。見ていろよ。
「これこそ俺には、本当のラントレ(収穫物を収納する)だな。オスカル」
「私はおまえの収穫物なのか?アンドレ」
「ああ、何十年もかけて育て上げた大事な大事な恋人だからな。マ・シェリ・オスカル」
何を顔が赤くなるような言葉を嬉しそうに言っているのか?
ふん、まあ、いい…お仕置きは止めておこう…。
そんなに嬉しそうに笑っているおまえは、 かわいいからな。 アンドレ
私達はお互いに、多分、この先巡って来ることはないだろう楽しい夢を思い描いていた。
あと数時間もすれば、私はまた軍服を着込み、衛兵隊の兵舎で、兵士達に
上官の顔をして接しているだろう。
そして、その傍らには、アンドレが部下の顔をして控えているのだろう。
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