DISCLAIMER:「ベルサイユのばら」の著作権は、池田理代子先生および
池田理代子プロダクシ ョンにあります。
この作品は作者が個人の楽しみのために書いたもので、営利目的はありません。
Author: miki
Email: miki@he.mirai.ne.jp
Date: 8/26/2001
Category: オスカルとアンドレのロマンス
Spoiler:饗庭 孝男著 「フランス四季暦 〜春から夏へ〜」 1990年 東京書籍
Authors note: この作品は「hitomiの部屋」で載せていただくために、書いた作品で
す。
hitomi様、転載を快くご許可頂きありがとうございました。
個人で楽しむ以外の無断転載・再配布は、ご遠慮願います。
文中の素敵なイラストは、ままか様からいただきました。ありがとうございました。
「ラントレ」には、仕事の再開と言う意味と、収穫物を納屋にしまうという意味もあ
ります。

Rentree  ラントレ 〜休みあけ〜

  1788年8月、王政は既に経済面から破綻していた。
王家に金を貸そうとする者は、もう国内ですら見出せなかった。
しかし、ヴェルサイユでは、いまだにフランス王家の偉大な力に翳りさえ
みえないかのように、 8月10日、最後にして最大の公式謁見、マイソールのサルタ
ン、
ティプー・シャヒブの大使一行に対する儀式が行われていた。
私達、衛兵隊は、6頭の白馬が引く馬車の護衛を仰せつかり、この虚構の舞台で、
脇役を演じていた。

  屋敷へ帰りつき、着替えをすませて、愚痴を聞かせるためにアンドレを自室へ呼
んだ。
彼には迷惑なことだが、誰かに聞いてもらわないと、やっていられない。
彼は私の好きなヴァン(ワイン)を持ち、苦笑しながら現れた。
「私の外見が、こんな茶番劇を彩る飾りに使われるとは、みくびられたものだ。
でも、やっと、終わったな。喜べよ、少し休暇が取れるぞ。アンドレ」
「ああ、やっとな。でも、もう茶番劇は再現されまい。16日には国庫はからっぽで、
国家からの支払いは停止だそうだ。」
「まったく、兵士達への給料の支払いもおぼつかないというのに、
あの儀式はなんだったのだ!ぜんまい仕掛けの虎が、ぜんまいを巻くと、英軍兵士を
口に咥えるのだぞ。バカバカしい!」
「まあ、そう言うな。遥かインド洋の彼方、セリンガパンタムの宮廷では、まだフラ
ンス
国王の力は偉大だという幻が通用しているのさ。
ところが、フランスの真の姿は、政治・経済ともにガタガタで、ブリエンヌ殿は責任

問われてもうすぐ罷免され、ネッケル殿が再び大臣職に返り咲くらしい。
彼のおかげかどうかわからないが、三部会の開催見込みだけで兵士達への給料を
支払い続けることが可能になる公債の購入者が作り出されるそうだ。
とりあえず、上官としては安心だろう。」
「ふふ…相変らず早耳だな。ああ、たしかに多少安心だ。給料も払えないでは、
兵士達がどうでるか、いくら世間知らずの私でも想像はつくからな。
…だが、もう終わったことはいい。とりあえず、心配の種は、しばらく遠のいた。
少しは休暇を取らないと、私でさえも倒れそうだ。」
おいしいヴァンで喉を潤し、彼の笑顔に癒されて、私は珍しく休暇の予定に
胸を弾ませていた。
そして、こんなに心がふさいで、疲れている時に、最適な場所に思いを馳せた。
「アンドレ、ロワイヨモン修道院へ行こう!あそこなら、ヴェルサイユやパリより
も、
静かで、安らげる。自分でも疲れ過ぎているのがわかる。」
「今回は、やけに素直に自分の疲れを認めるのだな。いいことだ。
無理は禁物だからな、上官殿。
今、あなたに倒れられたら、誰があの荒くれ兵士の衛兵隊を指揮できるかわからな
い。
しかし、領地でなくて、修道院でいいのか?」
アンドレの多少皮肉混じりの言葉も、今の私には許せた。
「いいから、いいから…じゃあ、準備を頼んだぞ。できるだけ早く出かけたい。」
「はい、はい…わがままなお嬢様に仕えていると、従僕は忙しいな。
せめて、冷えたヴァンを味わう時間くらいくれよ。」
彼の瞳が、楽しそうに私を見つめていた。
「…仕方ない、口の減らない従僕を持つ女主人も大変だ。寛容になるはずだよ。」
「どこがだ?」…とでも問いたそうな彼の視線に、私はこみ上げる笑いを止めること

できなかった。久しぶりに、彼と楽しい時を過ごすことができた。

  次の日、もう秋の気配すらかすかに漂う中を、私はヴェルサイユから馬車で
6時間ほどかかる、シャンティイの近くのロワイヨモン修道院で休暇を過ごすため
に、
アンドレを伴い出かけた。
近くのオワーズ川のせせらぎが聞こえ始めると、やっと休暇に入った喜びが
心に広がり始めた。

  ロワイヨモン修道院は、1228年に聖ルイにより創設されたもので、静けさを愛
し、
信仰と労働を自然の中で実践したシトー会修道会にふさわしい存在だった。
聖ルイ及びその子孫がここに葬られたので、しばらくの間は、王家の墓所となって
いたが、現在ではその地位は、サン・ドニの大聖堂に譲られていた。
その昔、我が家が、王家に仕えるようになり、ときおり一族の次男以下の男子が、
この修道院に入ることがあったため、我が家とは、少なからぬ縁があった。
そして、現在の院長は、私の母方の伯父が勤めていた。
この修道院の近くには、シャンティイの森だけでなく、ルソーが憩った
エルムノンヴィルの森、 カルネルの森、リラダンの森が続いており、
自然を愛する人々にその優しさで報いていた。

 しかし、静かにたたずむこの修道院の良さが、若い頃の私には理解できなかった。
むしろ修道院よりも、その近くにあるシャンティイ城の大厩舎に飼われている名馬の
数々の方に関心が強かった。
コンデ家最盛期には馬240頭、猟犬500匹、御者と馬丁合わせて
100人以上が働いていた。
イギリス産の名馬も多く、コンデ家から招待があるたびに、私はアンドレを伴い、
喜び勇んで名馬に会いに出かけていた。
…だが、近衛隊隊長に就任し数年を経て、20代半ばを過ぎた頃からは、
名馬との出会いよりも、修道院での四季の移り変わりを静かに楽しむことに、
次第に興味が移っていった。

 敷地に足を踏み入れると、巨樹が広々と枝を広げて、私達を迎えてくれた。
春には新緑がそよぎ、 夏には豊かな緑が水路にその影を落とし、秋には微風の中を
黄葉が散らばり芝生を生め尽くした。
人工的で、様々な人々の思惑が交差し、気疲れを誘うヴェルサイユの風景よりも、
このすがすがしいほどの自然の中で、毎日の祈りと、アンドレとの近くの森への遠乗
りや
散策で感じる、林をわたる風や野鳥のさえずりが、私の疲れた身心を驚くほど
癒してくれた。

 修道院に着くと、礼拝堂で簡単な祈りをすませ、久しぶりに伯父に会い、
ヴェルサイユやパリの近況を説明した。
彼は院長らしく、落ちついた風貌と性格を持ち、 かなりの高齢ではあったが、
昔鳴らした武人としての感もまだ衰えてはおらず、 時代の微妙な変化をも
感じ取っているようだった。そして、私自身の変化さえも…。
「教会の教えに逆らい、娘を男装させて、それでもあき足らずに軍隊に入れるなど、
昔、おまえの父上の考えには、正直言って私は大反対だった。
美しい末娘に、何もわざわざ苦労させなくとも…とな。
しかし、これは院長としての言葉ではなく、私個人の考えだが、今となっては、
おまえには、この生き方の方が似合っていたのかもしれないな。オスカル」
「…正直言いますと、私にもまだわかりません。
父上の決めた人生を、ただ無我夢中で過ごしてまいりました。
そして、近衛隊から衛兵隊へ移り、今までより広い世界へ目が向くようになりまし
た。
自分では、多少人間として成長したつもりです。しかし…」
「しかし…なんだね?」
「これが神のご意志なのでしょうか?
世の中は、まるで坂を転がる石のような早さで、 政情不安が増しております。
私のような未熟な人間が、大勢の兵士達の命を預かってよろしいのでしょうか?」
「…おまえらしくもない。こんな森の奥でも、世間の噂は流れてくる。
衛兵隊の女隊長は、今までの隊長と違い兵士達から女神のように慕われているとな…
疲れておるのだろう。オスカル、しばらくゆっくりと自然の中で、祈りと清貧の日々

送るがいい。」
「はい、優しいお言葉に感謝いたします。」
「そして…いや、これは、おまえ自身で気付くべきことだろう。
おまえの本質的なものなのだから。」
「…他に何か?院長様」
「いや、いや、私の独り言だ。アンドレもご主人の帰りを待ちくたびれているだろ
う。
夕べの祈りには疲れているだろうから、夜の祈りに間に合うように、準備しておい
で。」
与えられた質素な部屋では、アンドレが荷をほどき、私を待ちわびていた。
「遅かったな。オスカル、夕べの祈りに間に合わないぞ。」
「いや、伯父上が…夜の祈りまでゆっくりとして、疲れを癒せとおっしゃってくだ
さった。」

 翌日から、私は、祈りと散策と森への遠乗り、そしてラテン語の本の読書などで
静かに日々を過ごしていた。
アンドレと二人で近くの森へ遠乗りに出かけた折に、ふと思い出した。
「アンドレ…そういえば、もうすぐおまえの誕生日だな。今年は何を贈ろうか?」
「疲れているのに、そんなこと気にしなくてもいいよ。」
「でも、衛兵隊に移ってからは、おまえにも苦労のかけっぱなしだったからな。
遠慮するな。何でも言っていいぞ。なんなら、屋敷も軍もしばらく休みにして、
領地の管理を口実に、ゆっくりと一人で過ごしてくるか?」
「止めてくれ、オスカル…そんな一人だけ優雅な休暇の贈り物なんてもらったら、
俺…おばあちゃんに怒られるのがオチだ。いや、その前に、『オスカル様から
役立たたずで捨てられたのか!?』って殺されるよ。」
「ははは、おおげさな奴だな。おまえは幾つになっても、ばあやが怖いとみえる。」
「おまえだって同じだろう。ひとのこと言えるか?…そうだな…では、お言葉に甘え
て、
そのおまえの眉間に皺が寄った顔は止めて欲しいな。
せめて、ここでは昔のような明るいおまえの笑顔がみたいよ。」
「失礼な奴だな。女性に向かって…。それに私はおまえの誕生日に
欲しい物を尋ねたのだ。私の顔について意見を求めたわけではない!」
「…そうはいっても、最近のおまえは、こんな顔ばかりしているぞ。」
アンドレは、わざと大げさに眉間に皺を寄せて、私の顔だと主張した。
「う、うるさい!おまえになんか言われたくない。」
私は怒りながら、馬を素早く走らせた。彼は遅れまいと必死で追いかけてきた。
「オスカル、謝るからあまり森の奥へ行くな。危険だ!」
私は、彼のあまりに心配そうな叫び声に思わず、馬の足を緩め、
木の下で休むことにした。
追いついた彼は、安心したように私の横に腰を下ろした。
「…すまなかった、冗談だよ。最近のおまえは、難しい顔をして考えごとばかりして
いたから。 せっかく、 こんな美しい自然に囲まれた地にいるのだから、
もう少しゆったりと過ごして、昔のように元気になって欲しかっただけだよ。」
「わかっている。おまえが悪いわけではない。ただ、ここにいても、
昔ほどゆったりとした気分になれないだけだ。」
「少しこの木の下で、昼寝でもしよう。きっと気持ち良いぞ。」
「相変らずのんきな奴だな。おまえは…」
「ご主人様の足りないところを補うのが、出来の良い従僕ってものだろう?違うか
?」
「どこが?…ははは…ものは言いようだな。」
彼が一生懸命に私を休ませようとしている気持ちが嬉しくて、私は彼の提案を
素直に受け入れた。
ここでは、風は若い頃と同じように流れ、パリやヴェルサイユとはまた違った時間
が、
私達の上を通り過ぎて行くようだった。

 昔、彼が私に強引に愛の告白をして以来、二人だけでいても、彼は決して
必要以上に私に近寄らなくなった。
昔と違うのは、私だけではない。彼とて同じことだ。
二人で芝生に寝転び、風の音や川のせせらぎに耳をすませていたら、
自然と眠気が誘い、何時の間にか昼寝をしていた。
私が起きてみると、彼は少し離れた隣で、まだ軽い寝息を立てていた。
私は、不思議と彼の寝顔を見つめていることが、楽しかった。
以前とは明らかに違う自分の心に戸惑いながら…。
いつもは勤務の疲れに紛れて、あまり深く考えた事はなかった。
しかし、ここでは誰にも、何物にも邪魔されない。
彼は私にとって一体何なのだろう?
昔は単純に、信頼できる幼馴染みの従僕でしかなかった。
しかし、衛兵隊へ移り、同じように時を過ごすうちに、彼に対する感情が微妙に
自分の中で変化している事に気付いていた。
でも、それが、彼が私に望む恋人としての感情とは、とても思えなかった。

 彼が眠っている事を幸いに、私は思うさま彼の寝顔を観察していた。
黒髪が木々の木漏れ日に輝き、伸びやかな肢体には、風が遠慮なく戯れていた。
自分でもなぜだかわからないが、思わず指を伸ばし、彼を起さぬように、
黒髪をかきあげ、傷ついた瞳を指で触ってみたくなった。
そして、形の良い鼻筋をたどり、私の指先は彼の唇の上で留まった。
急に、彼にくちづけしたくなった。
熱っぽく弾力のある彼の唇は、私には懐かしいものだった。
「…ううん…オスカル…」
心臓が止まりそうなほど、彼の寝言に驚いた。
でも、どうやらいらぬ心配のようだ。
彼は気持ちよさそうに、長身の身を丸めて眠り込んでいた。
彼も私以上に疲れているのだ。
思わず彼の暖かそうな胸元へもぐり込み、彼の腕で私の体を包んだ。
ここでは昔に戻ろう。
子供の頃、彼と一緒に木陰で昼寝して、気持ちよく過ごした日々へ。
それが何より私の身心を癒してくれるだろう。
何時の間にか、私は再び心地よい眠りに落ちこんでいった。

 「オスカル、起きろ。風邪を引くぞ。風が冷たくなってきた。俺も寝過ごした。
そろそろ準備に帰らないと、祈りの時間に間に合わなくなるぞ。」
しばらくして、アンドレが少々赤い顔をしながら、私を起した。
気持ちよい眠りから起されて不機嫌な私は、彼の首に腕をまわして、
抱き上げるようにねだった。
「手間のかかるお嬢様だ。」
彼はぼやきながら、私を抱き上げ、大きな木を支えにさせると、服についた草を
払ってくれた。
「ああ、ありがとう。久しぶりに気持ちよく、こんな素敵な自然の中で昼寝した
な。」
「俺は準備があるから、先に行くぞ。ゆっくりと着いて来い。オスカル」
彼は顔を赤らめたまま、馬に乗り、私を置いていってしまった。
「変な奴だな。あいつ…」

 それからしばらく、ゆったりと自然の中で過ごし、静かな音を立てながら、
私の体の中を流れている不思議な感情に思いを馳せていた。
それは今まで感じたことのない不思議な「生きる歓び」を私に与えてくれた。
でも、この感情が一体なんなのか?
…結局、休暇が終わっても、私には、はっきりとわからなかった。
彼の誕生日までには、この不思議な感情について、私はしかと自分で
理解することができるのだろうか?

 休み明けには、また政治のゴタゴタが私達を待ちうけていた。
アンドレの誕生日には、一日の警備の仕事を終えて、夕方から、パリを囲んで
巡らされている税関の壁のすぐ外側のガンゲット(酒場)で、 二人だけで酒を飲ん
でいた。
テーブルと椅子が屋外にある田舎風のつくりで、ここは私達のお気に入りの店だっ
た。
彼の望み通り、誕生日のその日、私はできるだけ笑顔で過ごした。
その夜、屋敷に帰りついた私に、アンドレは、
「ありがとう。素敵な誕生日の贈り物を貰ったよ。」
と囁き、自室へ引き上げて行った。
彼の言葉は、不思議なほどの幸福感を私の胸に広げてくれた。

 その後、フランス国内の性急な変化だけでなく、私の身辺にも嵐のような変化が、
つぎつぎと巻き起こった。
突然の結婚申し込みと父からの結婚命令、そして、いつもは落ちついているはずの
アンドレの不思議な行動の数々…。
そして、二人の乗った馬車が襲われて、フェルゼンに助けられた。
私はその時初めて、ロワイヨモン修道院を囲む自然の中で感じていた、
自分の心の不思議な感情に名を付けるべきかもしれないと思った。
あれは、私のアンドレへの「ただの女としての愛」だったのだ。
私は結婚話を自ら断り、軍人として生きていくと父の前で誓った。
年が明けると、まもなく三部会に伴う騒乱が、フランス中に吹き荒れた。
三部会が開催され、王太子様が幼い命を失い、その後、私は初めて上官の
命令に背き、父との対決を迎えた。
その父の刃から私を守ってくれたのは、アンドレだった。
その時初めて、私は迷ったあげく、彼に私の心を告白した。「愛している」と…。

 ベルナールの力を借りて、部下のアベイ牢獄からの釈放を勝ち取った。
その次の日、私は、珍しく高熱をだした。
ラソンヌ医師の診断では、極度の緊張から解放されたせいで、ゆっくりと休めば、
熱も下がるだろうというものだった。
効き目の強い苦い煎じ薬を飲むようにと、医師は私に言い聞かせて帰っていった。
いつもなら、私の看病は、ばあやの仕事なのだが、彼女も寝込んでおり、
私も侍女より、アンドレにそばにいて欲しかったので、大人しくしていた。
しかし、この薬は効くのだが、特別苦いのだ。
「さあ、オスカル…口を開けて。」
「アンドレ…気のせいか…おまえ…楽しそうだな。これは苦いのだ。知っているだろ
う?」
「あとで、良い物をあげるから、飲むんだ!」
「ふん、子供扱いするな。熱なんて寝てれば、下がるさ。寝不足なだけだ。」
私は、なんとなく悔しくて、羽根枕に顔を埋めた。
彼は私の髪をかきあげて、首の後ろにくちづけして、耳元で楽しそうに囁いた。
「薬を飲まないなら、弱っている今のうちに襲ってやろうかな?
熱のせいか、瞳が潤んで、唇は紅くて、たまらなく魅力的だ。
煎じ薬と俺に襲われるのと、どちらがお好みですか? お嬢様」
私を見つめる黒曜石の隻眼が憎らしいほど楽しげで、悔しかったが、
選択は一つしかない。
「わかったよ。飲めばいいんだろう?飲めば…。苦くても飲むよ。」
まるで子供の頃のように、彼が差し出す薬を飲み込んだ。
「うん、良い子だ。では、ご褒美に砂糖菓子をあげよう。はい、目をつぶって…オス
カル」
悔しかったが、しかたなく彼の言うとおりに、目をつぶった。
口の中の苦さを早く砂糖菓子でごまかしたかったからだ。
ところが、彼は私にくちづけして、甘めのヴァンを口移しで、流し込んでくれたの
だった。
砂糖菓子より、この方が私には効き目があった。
結局、私は彼に降伏して、彼の首に自分の腕を巻きつけ、思いがけない
甘い贈り物に溺れた。
その後、彼は私の寝台の端に腰掛けて、私が眠るまで髪を撫で、そばに
ついていてくれた。
夜中にふと目覚めると、寝台のすぐ横に長椅子を運び、眠り込んでいる
アンドレを見つけた。
熱も下がったらしい私は、さっきの仕返しのつもりで、彼の腕を動かし、
胸の中にもぐり込んだ。
彼もここ2日間ほど、まともに眠っていなかったせいか、起きる気配もなかった。
私は、やっと安心して彼の腕の中で、眠りについた。

 アンドレが、もぞもぞと動いたので、目が醒めると、彼がひどく驚いた顔で、
私を見つめていた。
「す、すまなかった…俺…おまえを勝手に寝台から連れ出たのか?
ごめん。悪気はなかったんだ。いや、記憶すらないんだ…熱はどうだ?気分は?
しかし、またやってしまったな …俺ってどうしようもない男だ!
はあ、一度先生に相談した方がいいだろうか?」
私は、彼が何を狼狽しているのか、さっぱりわからなかった。
でも、とりあえず説明してやらないと、悩んでいるらしい彼が、かわいそうに思えて
きた。
「熱がさがって、夜中に起きたら、おまえがここで付いていてくれたから。
おまえの胸の中なら寝台より気持ちよさそうで、私が勝手に入り込んだだけだよ。
おまえが私に何かしたわけじゃないよ。安心しろ、アンドレ…
おまえは、紳士だったぞ。」
おはようの軽いくちづけを彼にしながら、事情を説明してやった。
「よかった〜。俺が勝手に寝台からおまえを連れ出していたわけじゃなかったんだ
な。
安心したよ。自分に理性が残っていた証拠だ。よかった!」
「でも、またやってしまったって、何のことだ?アンドレ」
「う…つまり、白状すると…去年、ロワイヨモン修道院の近くの森まで遠乗りに
行った時に、二人で昼寝しただろう。覚えているか?オスカル」
「…ああ、そういえば、そんなことがあったな。あの昼寝もすごく気持ちよかったけ
ど…
でも、それが、一体何だったんだ?」
「あの時、昼寝しているうちに…どうもおまえを勝手に抱きしめていたらしい…。
べ、別におまえに何かしようなんて下心はなかったんだ。
本当だ、信じてくれ。オスカル」
私は彼の告白を聞いて、なぜ昼寝から起きた時、彼の顔が妙に赤くなっていたのか、
やっと理由がわかった気がした。
私は内心笑いたかったのだが、さっきの砂糖菓子の仕返しを
していなかったことに気がついた。
「ふうん、おまえ…昔、私に誓ったことを破っていたんだな。
これは、罰が必要だな。」
「で、でも、今はもう必要ないだろう?俺達は恋人同士で、おまえは俺だけのもの
だ。
そうだろう?オスカル」
アンドレは私を抱きしめて、必死に言い訳を考えているようだった。
いつも落ちつきはらっている彼が、子供みたいでおかしかった。
「でも、罰は必要さ。アンドレ、さあ、目を閉じて…絶対に開けるなよ。」
「しょうがない。俺の恋人は、厳しいからな。覚悟を決めました。
何なりと罰をお与え下さいませ。女神様」
彼は神妙な顔つきで、私の言うとおりに目を閉じ、次の行動を待っていた。
私が平手打ちでもすると思っているのだろうか?
そんなことをするわけないだろう…こんなに愛しているのに。
ふい彼の耳元で囁いてやった。
「では、私も告白しよう。あれは、私がおまえの胸の中に勝手にもぐり込んだんだ。
私の意思さ。おまえが心配するようなことは、全然なかったよ。」
ふいに目を開けた彼は、驚いて私を見つめていた。
でも、次の瞬間、私を強く抱きしめ、態勢を逆転した。

私は彼の下になってしまった。これはまずい。形勢が不利だ。
彼はとびきり甘い声で、私に囁いた。
「オスカル、俺は修道院から帰ってからも、しばらくずっと悩んでいたんだ。
おまえこそ、お仕置きが必要だな。それも、おまえが一番苦手なお仕置きがな…」
そう言い終わらないうちに、彼は私をくすぐり始めた。
「やめろ、バカ!くすぐったい…やめてくれ…アンドレ、お願いだから。」
これでは、恋人同士ではなくて、子供同士の喧嘩だ。
「“やめろ”じゃないだろう。“止めてください”だ。それから、もう一つ…」
「もう一つ、何?アンドレ」
「甘いくちづけをつけること、もちろん、俺が満足するまでだ。」
勝ち誇って、嬉しそうな彼の顔が、子供の時みたいでおかしかった。
「はい、畏まりました。モン・シェリ」
「大変素直でよろしい。マ・シェリ」
二人とも思わず、笑い出していた。
アンドレのことを「モン・シェリ」なんて、甘い言葉で呼ぶ日がこようとは、思わな
かった。
きっと彼も同じようなことを考えていたのだろう。
突然、真面目な顔になると、私に告げた。
「おまえを、こんなに抱きしめることができるなんて…夢のようだよ。」
「私も、こんなに寝心地の良い場所を無償で提供してもらえるなんて、夢のようだ
よ。」
私の言葉にまだ喧嘩の名残を見つけた彼は、とうとうお仕置きを再開した。
私の唇に、くちづけの嵐を落とし始めた。

 ひとしきり、くちづけの嵐が止むと、私は真剣な顔で彼に囁いた。
「…フランス各地の軍隊がパリに集結を始めた。
これから、また世情は一段と厳しくなるだろう。
時間はかかるだろうが、もし、この騒ぎが落ちついて、また休暇が取れたら、
もう一度、あのロワイヨモン修道院の近くの森に行こう。
今度こそ、ただの恋人同士のように、二人だけで森の声を聞き、
川のせせらぎに耳を澄ませ、木漏れ日の中で戯れて、自然の美しさを、
優しさを思いきり楽しもう。
できれば、今度のおまえの誕生日に間に合うと良いけどな。アンドレ」
「ああ、いつか、きっとまた二人で行こう。オスカル」
私はもう一度彼の胸に顔を埋めて、今だけの幸せを噛み締めていた。
私は、急に昨年ロワイヨモン修道院の院長をしていた伯父が、最後に呟いていた
言葉を思い出した。
『これは、おまえ自身で気付くべきことだろう。おまえの本質的なものなのだか
ら…』
そうか、伯父は私自身の女としての微妙な変化を感じ取っていたのだ。
年寄りの目はごまかせなかったというわけだったのか?
「ふふふ…」
「何がおかしいのだ?一人笑いなんてして…」
「いや、ロワイヨモン修道院での静かな休暇が開けた途端、つまり、休み開け
(ラントレ) は、私も世間もずっと忙しかったな…と思ってな。
今度のラントレは、もっと静かに過ごしたいよ。アンドレ」
「…それは永遠に無理だろうな。諦めろ。あいつら衛兵隊員がいる限り、
静かなラントレなんて、おまえには永遠に無いと覚悟しておいたほうがいいぞ。」
「なんてつれない恋人だ…おまえの誕生日には、ばあやが泣いて喜ぶくらい
精一杯着飾って、私一人で、もっともっと優しい男を探しに舞踏会へでも行ってや
る。見ていろよ。ふん…」
「オスカル…それだけは、止めてくれ。前言は撤回する。
できるだけ静かなラントレをご用意させていただきますから。マ・シェリ・オスカ
ル」
「私に勝つなんて、十年早いぞ。モン・シェリ・アンドレ…」
「ふうん、じゃ、こうしたら、どうかな?」
ふいに、また私にくちづけの雨を降らしながら、彼は嬉しそうにささやいた。
彼は私の出仕を既に1時間も遅らせてくれている。あとでお仕置きだ。見ていろよ。
「これこそ俺には、本当のラントレ(収穫物を収納すること)だな。オスカル」
「私は、おまえの収穫物なのか?アンドレ」
「ああ、何十年もかけて育て上げた大事な大事な恋人だからな。マ・シェリ・オスカ
ル」
何を顔が赤くなるような言葉を嬉しそうに言っているのか?
ふん、まあ、いい…お仕置きは止めておこう…。
そんなに嬉しそうに笑っているおまえは、 かわいいからな。 アンドレ

 私達はお互いに、多分、この先巡って来ることはないだろう楽しい夢を思い描いて
いた。
あと数時間もすれば、私はまた軍服を着込み、衛兵隊の兵舎で、兵士達に
上官の顔をして接しているだろう。
そして、その傍らには、アンドレが部下の顔をして控えているのだろう。

                       FIN
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嘆く風、 吐息する葦、湖水のかぐわしい大気のほのかなかおり、
人が耳にし、目にし、呼吸するすべてのものが言ってほしい
《ふたりは愛し合ったのだ!》と

アルフォンソ・ド・ラマルティーヌ作 瞑想詩集「湖」よリ抜粋
河盛好蔵・平岡昇・佐藤朔編『フランス文学史』より