*****ひろのうたびとのしおり・・・其の壱拾壱*****


出すぎたことをした!?(5/27)

 昨日、長女のバスケの県大会が岐阜でありました。いろんな高校にいろんな知っている子がいて、正直あれもこれもで地区の予選から楽しみではありました。それぞれの学校にはそれぞれの指導者がいて、子ども達はそれぞれの環境で、同じ競技の中にもいろんなチーム色があるもんだと感心します。

 残念ながら、長女のチームは初戦敗退・・・。4点差でした。なんとも無念です。この負けたときの子どもたちにはなんとも近寄りがたい空気があって。部外者の私が声をかけるのは、はなはだおこがましいと思えます。「ご苦労様・・・」と言うのが精一杯でした。知っている子のいるチームにはみんないい思いをしてもらいたい・・・と思う反面、トーナメント戦である以上、1度負けてしまったらおしまいなのですから、非情なことも事実です。参加チームがいくつあろうが、全部勝てるのは1チームだけですから、あとのチームが負けを経験するのです。負けなくちゃわからないことがあって、負けて強くなるのも事実です。

 先の地区予選で優勝をしました。このときは大いに盛り上がり、強くなったなぁ・・・という印象を持ちました。ベンチも含め一生懸命な姿に強く感動しました。何度観ても良いものです。私は変な大人です。希にいるこんなおっさんです。決して自分が目立ちたい訳でもなく、ましてやお金に余裕があるわけでもないのですが、部旗を新調してプレゼントしてしまいました。出すぎたことかな?と危惧する気持ちもあります。でも何かしてやりたい!と思ってしまったのです。子ども達の技術を更にあげるのはモチベーションです。そこを刺激したかったのですが、役に立てなかったようです。むしろいらぬおせっかいから余計な気を遣わせてしまったのかもしれません。平常心でいられなかったのかな?と敗因を思います。少しばかり凹んでいる私です。

線路は続くよどこまでも(5/23)

 昨日、付知へ出かけました。裏木曽街道・・・という看板が目に付きます。高い山を越えればそこは信州長野県です。お得意先のすぐ近くに、昔はあった北恵那鉄道の終着駅の下付知駅跡があります。木材の運搬も兼ねていたため、駅の構内は結構広くなっているように感じます。大好きなM先生の故郷でもある付知町・・・。先生の高校時代はこの鉄道が通学沿線だったそうです。30年位前・・・もっと前?この鉄道は廃線になったそうです。先生にとっては青春の場所だったのですね。

 私にとっての思い出の沿線・・・子供の頃、よく連れて行ってもらったのが岐阜への買い物。岐阜駅からタクシーに乗って柳ヶ瀬まで。あの頃はとっても賑わって岐阜の街は、私にとって大都会でした。国鉄高山線美濃太田駅から蒸気機関車に乗って連れて行ってもらいました。今でも売っているのですが、美濃太田駅には駅弁があります。釜飯の炊き込み御飯・・・。これが子供心に妙に美味しく感じられて、買ってもらったことがあります。器は陶器で釜の格好をして茶色でちょっとテカッテいるのです。グリーンピースだけが今1つ美味しくありませんでした。

 この高山線、坂祝〜鵜沼間に2つのトンネルがあります。木曽川沿いに走る区間で眺めはとても爽快です。しかし、この2つのトンネルは難所?でもありました。この区間に近づくと車掌さんが、「トンネルを通りますので、窓をお締め下さい」と言ってあるくのです。心得た乗客はすでに締めてあるのですが、慣れない乗客は慌てて窓を締めます。両側の取っ手をつまんでガチャンと降ろしますが、どうかするとこの取っ手が固くてなかなか締められない物があったりします。すると事態は緊迫した物へと変わっていくのです。汽車は走ります。トンネルは近づいていきます。ボワァ〜っと汽笛が鳴ります。焦ります・・・。何とか成れば良いのですが、トンネルに入ってしまうと、間に合わない窓や乗客がいない座席で開けたままの窓からは、黒煙がもくもくと入ってきます。すると皆さんの鼻の中はススで黒くなって困ったチャンになるのです。そうでなくても窓のサンに触れるとススで黒ずんで、服を汚しておかあちゃんに怒られ困ったチャンになったりもしました。

 私が住んでいるこの美濃加茂の主要駅は美濃太田駅、太多線や以前は越美南線(現長良川鉄道)の発着駅だったりで、駅名は市名の美濃加茂駅ではないのです。たまに「美濃加茂の駅はどこですか?」と聞かれます。美濃太田と言うと「そうなんですか。」と大半の人は、美濃太田駅=美濃加茂駅という事を知る様子です。数年前にこの駅名を代えよう!と言う愛称を一般公募したところ、結局「美濃太田(みの太田)駅」に落ち着いたのです。

 この美濃太田駅を通学のために利用した事が1年くらいありました。行き先は名古屋。美濃太田〜鵜沼の2区間だけを乗り、名鉄電車に乗り換え名古屋へと通っていましたが、行きは良いのですが、帰りの利便性が悪く1年後可児側にある最寄駅から名鉄線で通い、それも時間が不規則になり、夜遅くなることや、楽器を運ぶ事が多くなって来たことも有り・・・何しに学校へ行っているのでしょう?・・・車で通ったりして私にとっての「線路は続くよ何処までも・・・」は知らないうちに消えて行きました。そうそうこの学校唱歌、音楽の授業で一人一人歌わされて・・・恥ずかしい思い出です。


コミュニケーションとは・・・礼儀とは・・・?(5/15)

 毎年職業体験にやってくる地元中学生、この秋にもまた数人の子供たちがやってくる事と思います。ある年の子供たち・・・テーマは「礼儀」。難しい事をテーマにしたなぁ?と聞いた時は思いました。子ども達は私たちとお行儀良く接する事と考えたようです。確かにそうですが、大半の子は、大人しくなってしまうのです。緊張しているのかな?と思い、こちらからいろいろ話し掛けても、うなずいたり、ジーッとしていて、借りてきたネコのようです。

 後日、学校で彼らに会いますと、それは元気です。「おっはようございます!!」と大きな声で挨拶をしてくれましたし、笑ってくれました。おいおいそれが君らの礼儀のあり方なんじゃない?まだまだ足りない事は感じましたが、大人しくすることが、良い子・・・・って思っているようです。礼儀?まずは気持ちを通わせる事を子ども達に期待します。屈託無く大人と会話ができる子は、なかなかいないのかもしれません。大人とちゃんと会話ができる事は、何も子供に一歩的に押し付ける事ではありません。大人にだって子供に気持ちを寄せる事があって、初めて子供は口を開いてくれます。

 コミュニケーションは会話を持って生まれます。信頼関係・・・腹を割って話せる関係。そんな友達がいますか?社会に出るとなかなかそんな関係が築けなくなります。だから子供たちには、学校でたくさん友達を作ると良いよ・・・と話します。大学に行かせてもらいましたが、友達を作って来い!と父に言われた事を覚えています。父にしてみれば、私には地元の自動車関係の学校へ行って欲しかったようですが、最後に4大は友達を作るために行って来い!と言ってくれました。大学生活にそれ以外は何も口を出さない父親でした。おかげでたくさん全国に友達を作る事が出来ました。

 店で働いているK太、彼は夜学に通っています。仕事も一生懸命、学校での姿は見たことはありませんが、頑張って勉強しているようです。K太も中学時代にこの店に職業体験にやって来ました。当時からK太は屈託のない表情を私たちに見せます。業者の人やお客さんにも可愛がられています。店長が常日頃K太の教育係。親子ほどの歳の差があります。

 そんなK太が夕方、学校へ行くために早く上がります。自転車に乗って店長に「お疲れ様。行って来ます。」という挨拶のつもりでチリンチリン♪・・・とベルを鳴らし、手を上げて走り去って行きました。その後の店長・・・「K太に手を上げられちまった・・・」と苦笑。「舐められたもんだ・・・」とそれを受けて私・・・。

 そして後日、学校へ行くK太を見送ると、同じように私にも手を上げて走り去って行きました。「舐められたもんだ・・・」と家内と笑っていましたが、次の日、ちゃんとK太には礼儀としてやってはいけない事として注意しました。しかし、日頃長女・次女の友達に会った時、手を振られると思わずニッコリとしてしまう私がいるのも事実なのです。困ったもんだ・・・。


もっとも昔の思い出は?(5/6)

 年々記憶が曖昧になってきた私ですが、もとよりあまり人の顔とか、どこそこへ行ったとか、何を食べたとか・・・覚えていない性質のようで・・・。仕事の内容もいつ頃何をした・・・何てことはあまり覚えていません・・・。でも感心なのは、スタッフのWちゃん。何をした・・・いつやった・・・誰だった・・・とか、その車の車種はもとより、車番やサイズまで覚えています。本当にたよりになる記憶力の持ち主です。その他スタッフも「いついつの何がどうだった・・・?」という会話には感心させられる記憶力を発揮します。

 一番ダメダメ記憶力の持ち主は私のようです。なんでだろう?と考えてみた事は一度もないのですが、こうして思うに、前ばかり観ているからかもしれません。次は・・・次は・・・と何かに追われている感覚がいつも着いて回ります。済んだことはOK!と思ってしまうからでしょうか・・・?OKではないことまで・・・。矢面に立つものは全てにおいて責任を・・・。でも人間ですし・・・。スタッフに助けられている私です。

 そんな私の最も昔・・・幼少の記憶・・・をたどってみると、昔住んでいた家の縁側で・・・と言ってもそこは屋根があり、下は土間でした。そこで誰か(両親かおばあちゃん)に靴を履かせてもらっているのです。歩き始めたばかりの子どもに履かせる類のあの靴ですから1〜2歳くらいでしょうか。ちゃんと覚えている記憶では無いのかもしれませんが、靴の種類からして幼い時だということでこれが一番昔の記憶かな?と思っています。

 2人の娘たちに同じ質問をしてみましたら、次女は結構大きくなっていた時の記憶のようですが、驚いたのは長女。階段から落ちた時の事を覚えているのです。まだヨチヨチとはっていた時ですから1歳になっていません。私たちが覚えていますから証言できますし。その記憶を話し始めたときは驚きました。怖い記憶として残っていたようです。

 こうやって書きながらいつの時代の記憶を思い出しても、そこに浮かぶ情景は、一枚の写真のように浮かんできます。動いているようなドラマに観る回想シーンではありません。そうです、だからドラマを観ていてこの回想シーンに何か違和感を感じていたのですが、こう言ったことが原因だったのです。記憶はあくまで断片的です。近い記憶でも断片的なシーンが次から次に思い出されるというのが私の記憶・・・なのです。

ラジオから(4/29)

 先日ラジオを聴いていて共感した事をひとつ・・・。桜について語っておりました俳優・歌手の武田鉄矢氏。ここ数年のヒットを飛ばすJ-POPには「桜」という言葉が多く使われている。また桜を思わせる言葉が使われている。日本人にはこの「桜」、どうしてもただの花ではない!という妖憐は花ではないだろうか・・・?と言う事でした。

 木全体にバ〜ッと咲くその見事さは、「春ですよ〜!!」という私たちにとっては決定的なお知らせ。そこで気になったのは、この冬の暖冬で、桜が3月中には散ってしまうのではないか?という懸念。でもしっかり桜は4月中旬頃まで、なんとか持ちこたえていてくれました。人間の都合であるところの卒業・入学・春祭りにあわせるかのように・・・まるで桜には意識して咲いているかのような気さえしました。演出をしてくれる春になくてはならない桜の花の優しい心を見た気がしました。暖かくなったからそろそろ咲こうかな?ではなくて「もうすぐ4月!」というGO!サインがあって咲き始めてくれたような気がします。桜自身が「花咲かせるのはこの時期です。」という決め事を持っているかのような、みんないっせいに咲くという規律性(そんなもんあるのか?)を感じさせてくれました。

 武田氏は、花はその植物の生殖器であるから、いっせいに花を咲かせる必要があり、ある時期になると一緒に咲き始める・・・という事を言っていました。更に面白いことに、桜の花が咲くと、何故か必ず嵐のような雨風の日がやって来ます。私たちは、桜の花が、この嵐によって散ってしまうんではないかと気をもみます。でも桜はしっかりと散り際をわきまえてちゃんと一定期間私たちの目を楽しませてくれます。これは偶然ではなくて、生殖活動をするために花が咲くのですから、花粉を飛散させる必要があるわけで、この嵐の強い風に乗って花粉をより多く遠く飛ばすためにこの時期を選んで桜は咲いているのではないか?という話です。

 まさに桜は意思を持って咲いているのではないか?というその一点に私は深く共感した次第です。知らず知らず私たち人間(日本人)は、桜の生き方の妖憐な魅力に惹かれているのではないでしょうか?

Kさん、それから「涙そうそう」(4/21)

 Kさんと初めて会ったのは、今から12年くらい前・・・もっと前かもしれないけれどある団体(決して怪しいものではありません)に私が入ったとき・・・そのくらい前に知り合いました。歳は私より一歳上・・・正確には半年くらい上になります。

 この方とはいろんな事で気が合い、助け合って事を行ってきました。助けたと言うより、助けられた・・・という思いのほうが結局強い良い思い出です。40になって1年遅れでここを卒業し、今は滅多に会うう事もない日々でしたが、ここんところ店の一角を改装して欲しいとKさんに御願いしました。Kさんは快く引き受けてくれています。改装したものを心待ちにしている私たちです。

 Kさんが打ち合わせでこの店に脚を運んでくれるたびに、懐かしくなかなか話せなかった時間を埋めるように私は話します。するとKさんはニコニコといつも聞いてくれています。かといってのんびりしている性格ではなくて、むしろ洞察力が鋭い人で、鋭い事を合間合間に言われたりします。いろいろ勉強させてくれたりもします。

 マラソンが趣味のようで、先日も長野マラソンに出場し、フルマラソンを完走(大したもんだこのおっさん!!)してきたそうです。私のウォーキングの話にもちゃんと耳を傾けてくれます。決して馬鹿にする様子など無く、納得しながら聞いている様子です。私の愚行とも言える33kmなどの一連の完歩の話もちゃんと理解して、何処そこが痛かった・・・という事を聞いて、股関節回りの筋肉が弱い!とも指摘してくれました。後日たまたま観たTV番組で、脚力の衰え・・・を題材にして、鍛錬の話を聞いているうちに、「なるほど・・・」とKさんの指摘が正しいんだと分かりました。私の歩き方で、どうも鍛えられて来たのは、ふくらはぎのようです。ひざから下が、キュットなってきましたし、子持ちシシャモのようになっています。

 「おもいっきり泣ける映画が観たいわぁ」と言っていたKさん、私が一昨年観た100本を越える映画の中からオススメの題目をお伝えしたのですが、きっと観る事はないでしょう・・・(笑)。そう言えば昨日観た「涙そうそう」はあまりにもベタな映画でしたが、主人公の兄妹が、とっても観る側の気持ちを揺さぶります。「涙そうそう」涙が止めどなく流れることを言うのだそうです。血の繋がっていない兄妹ですが、そこには兄妹の思いが・・・でも大切な人としての思いも垣間見れ、その結末を観る者は見届けようとするのですが、兄は風邪をこじらせ亡くなってしまうのです。まさに歌の歌詞そのもので・・・ちょっとなぁ・・・と。しかも時間の経過がちょっと速過ぎるのです。それと妻夫木聡と長澤まさみ・・・こてこての主人公で、長澤まさみは可愛いのですが、できればオーデションを行って、新人を使ってくれるともっと良かったのではないかなぁ・・・と思ってしまいました。最後のシーンで幼い頃の2人が海岸を手をつないで歩いています。「カオルはぁ〜大きくなったら、に〜に〜のお嫁さんなるぅ〜」するとに〜に〜は「兄妹は結婚できないんだぜ」と。それを受けて「なんでぇ?」すると「う〜ん・・・わからん」。何度も聞かれても「わからん・・・」このシーンで映画は終わります。なんとも切ない思いが残ります。

 更に21日に観た「ローッキー ザ ファイナル」・・・どうなんでしょうね・・・。言いたい事はわかるのです。感銘も受けました。60であの肉体は脅威です。凄いです。NEVER GIVEUP!なのです。成せば成る!成さねば成らぬ何事も・・・!!です。勇気です。やってダメならあきらめもつく、やらずにあきらめて後悔はしたくない!燃えるものがあれば必ずやり遂げられる!!肉体じゃない!心の問題だ!スポーツは若者のためだけにあるんじゃありませんからね。素直に見なくちゃいけないロッキーでした。

桜と芝桜(4/14)

 桜と芝桜が見事に咲いてもう2週間くらい経ちますが、いつも必ず咲いていて欲しい場所が2つあって、ひとつは裏の堤防に咲く桜です。うららかな春の陽気のいい天気に犬のさくらを連れて散歩をするのですが、これが実にいいのです。まったりとした時間と空間があるのです。

 もう1つは高校生の頃、近くの小道を通って学校へ通いました。その小道に石垣があるのですが、春になると芝桜が綺麗に咲くのです。赤・紫・白・・・小さな花ですが、うわぁ〜っと咲いているので綺麗です。あれから20年経ってもその石垣にある芝桜はず〜っと春になると咲いてくれています。

 いつもこの芝桜を見て「いつか家にも植えよう!」と思っていたのですが、花が消えてしまうといつも忘れてしまうのです。去年も一昨年も、その前も・・・ずっと前からも。1度買おうとして苗を見に行ったら、時期が終わりました・・・と言われ断念した事がありました。そんなことを繰り返し・・・そして今年、母親が「あんたの好きな芝桜買ってきたで・・・」と苗を5鉢。別にそんなに思い入れがあるわけでもないんですが・・・「いいなぁ」と感じる程度の・・・忘れる程度の話ですので、花好きな母親の思いと・・・その温度差はかなりあるわけで・・・一緒の思いで迫られてもちょっと物怖じしてしまう・・・と言った今回の5つの鉢なのです。

 それを受け取って早速庭に植えましたが、5鉢ではさすがに見栄えがしません。まぁいずれ数が増えていくんだろう・・・と間隔を置いて離れ離れに植えたのですが、これがどうも締りが悪い・・・。そこでまたまた母親の登場・・・更に10鉢ほどを買ってきました。そして植えてくれたのはいいのですが、先日、事務所の日差し対策として、朝顔の種を蒔いたところに植え始めたので慌てました。ちょっと憤慨した私です・・・。

 一応他の場所に植えられたのですが、これがあの石垣のような芝桜になるにはちょっと時間が、年月がきっとかかるのでしょうね。忘れた頃に増えていた・・・ 、この苗がしっかり根付いてくれる事を祈ります。


世界GPのおじさん(4/4)


 
1983年頃、興味を持ったバイクの世界、あれほど苦労をして取得した大型二輪の免許も今では宝の持ち腐れか・・・。いやいやそんな事は無い、大きくなったら!?またバイクに乗りたいと思う自分がいるような気がする。大型バイクに乗るのかはわかりませんが、のんびりゆったりと走ろうと言う事に惹かれるものが今でもあります。

 以前も書いた片山敬済という二輪レーサーが、世界を相手に戦っていました。当時を知るものにとっては、彼はカリスマ性を持った偉大なライダーだったのです。今でも彼が日本人で一番速かったレーサーだと信じています。彼はホンダに当時乗っていました。チームはHRCと言います。

 当時惹かれてよく観ていた1983年のWGPの総集編のビデオ。何度も何度も繰り返し観ました。#8のNS500に乗った彼を探すうち、だんだん回りに目が行きます。同じカラーリングの#3、赤い#4、これがこの年の全ての優勝を分けるアメリカ人の2人(フレディ・スペンサーとケニー・ロバーツ)であることも知りました。そして回数を重ねるたびに更にいろんな所に目が行きます。すると・・・時折日本人で、HRCの帽子をかぶったおじさんが写っています。メカニックの人かな?と最初は思ったのですが、どうももっと上の人らしい・・・と。

 翌84年、ホンダは4気筒のNSRを投入します。しかし、片山にはそれが与えられませんでした。彼は83年終盤に大怪我を負い、84年は復帰に向けてのシーズンだったためです。そんなシーズン中のパドックでの一コマに彼とそのおじさんが会話をしています。「4つに乗ってみたいねぇ・・・」と片山。まるでお願いしますという懇願の意味が込められているようです。それを受けてそのおじさんは「怪我が治ったらねぇ・・・」とちょっと困ったようにはにかんだ様子で答えています。

 そしてそのおじさんがHRCの総監督の尾熊洋一という人だと知りました。そしてその秋、84年の鈴鹿での雨の日本GP。友人と観に行きました。雨の中、片山は第2コーナーからS字へと水しぶきを上げながら走り去って行く姿を目の当たりにして「あぁあれが片山か・・・」と感激したものです。しかし、彼はシールドが曇った事を理由にリタイヤしてしまったのです。そんなHRCの様子をTVのインタビュアーが尾熊さんに聞いている映像が帰ってからの観たビデオにありました。

 そんな尾熊さんが、縁あって私たちの近くに来てくれたのです。お会いするのは3回目。尾熊さんの話は、ちょっとべらんめぇ調でそれでいて面白く聞いていて飽きる事がありません。屈託の無い気さくなごきげんなおじさんで、お世辞なんて似合わない(失礼)感じのおじさんです。HRCを勇退後、尾熊さんは、ロシアのなんとかという戦闘機をレストアし、このたび仲間と一緒にオーストラリアの大空を飛んだ!という夢を実現されたのです。私は飛行機はちょっと・・・というか全くわかりません。その時に撮った映像が、結構その世界では類を見ない物らしく、DVDにして皆に観てもらおう!ということになったとDVDのセールスも兼ねて来岐されたのです。興味のある方はこちら

 当店にもそのご案内チラシが設置してあります。必要な方はお越しください。今回はそれも兼ねて書かせていただきました。

よかったよかった(3/30)

 この辺りでもやっとほころび始めた桜です。ちらほらとソメイヨシノが咲いています。記録的な暖冬でしたが、心配していた桜は、例年並にちゃんと咲いてくれるようですね。入学式には、綺麗な桜の下で、記念写真を撮ることができそうです。よかったよかった・・・。

 我が家のPCはTVも観られる優れもの!?で、当然リモコンがあるわけですが、先日、このリモコンが動かなくなりまして・・・。電池かな?と思って交換してもダメ、リモコンそのものの故障かな?と思って、赤外線?が発射される部分を電波を飛ばした状態(ボタンを押す状態)で、デジカメで撮ると赤いランプが写れば正常とのことで、やってみると写ります。念のため電器屋M君にも専用の機械でチェックをしてもらったところ、全てのボタンが正常とのこと・・・。とすれば本体か?ってことになり、ちょっと憂鬱になっていたのです。取り説をいろいろ読んでみたのですが、該当する勘違い原因ではなさそうで、益々憂鬱に・・・。壊れたとしても、本体のスイッチ類を触ればちゃんと作動しますし、問題はありませんから「まぁいいか!」と半ば強引に納得しようと思いました。

 でも、リモコンは本体の主電源を切る装置ではありません。と言う事は・・・「!!」ひらめきと言うかこう言った場合、1度コンセントを抜いて、ただの物にしてやる事から復旧できる事が多々あった事を思い出しました。PCなど電子機器はこう行ったことが良く行われます。半分以上はこれもPCですから迷わず、コンセントを抜いて・・・また入れてやりました。そして、ちょっとドキドキしながらリモコンのボタンを押すと・・・「ボチ」っという独特な音を発してTVは深夜番組を写したのです・・・「よかったよかった・・・」

 それからこの間の井戸のポンプ・・・昨日水道屋さんが来てあれこれチェックをした後、にわかに新しいポンプを付けると「どわ〜」っと井戸水が出始めました・・・。「ポンプ、えらい!」水道屋さんさすが!プロは「なぁ〜に日常ですから・・・」と言ったようなはにかんだお顔で「ありがとうございました」と一礼をして帰って行かれました。

 この時期連日、新聞で見る人事異動の欄。気になるのは大好きなM先生の異動先。長男が中学の時、バスケの試合で県大会に連れて行ってもらったとき、この年でお辞めになる当時の校長先生がコートを指差し「あそこに見える方がね、私の次に校長になるかもしれない方」と教えていただいたことがあります。目の悪い私にはあまりに遠くて良くわからなかったのですが、その次の春、その方は縁あって校長先生に就任されました。役員の1人であった私はいろいろお話をする機会も多く、2年間お世話になりました。私が役員を終えると同時に、そのM先生も中学を移動されることに・・・。その一報を聞いた時は「寂しい」気持ちになりましたが、異動先がなんと私の店の隣りにあります庁舎だったのです。「近くなったねぇ・・・」とそれから以前より頻繁にお見かけするM先生になりました。

 しかし、またまた2年の月日が流れ、M先生は異動の時期を迎えられました。遠くへ行っちゃうと寂しいなぁ・・・と新聞を見ると・・・M先生は、市内のO小学校の校長先生に就任です。「よかったぁ・・・」と安堵しながら仕事をしていると電話が鳴りました。M先生からです。「新聞見た?ちょっと遠くなっちゃうけど・・・(笑い)」と相変わらずおちゃめな電話のお声でした。「最後の学校です」と結んで電話は切れました。先生、またドームへ行きましょう。DとGに分かれての応援になりますけど・・・。


水神様(3/21)

 今日はお中日・・・ドラゴンズではありません・・・。お彼岸なのです。朝にお墓参りを済ませてきました。祖母が亡くなりこの春で4年です。実に時の経つのは速い・・・。

 暮れから起ったちょっとした出来事です。井戸水をくみ上げるポンプが時折止まってしまいます。生活用の水としては使っていないのですが、我が家にはちょっとした池がありまして、ここにはかれこれ40年以上井戸水が注ぎ込まれています。この池には様々な魚が泳いでいまして、鯉・鮒・うぐい・ハヤなど・・・ひょっとしたらまっかちんもいるかもしれません。梅雨の頃にはアマガエルが鳴きます。池の周りにはいろんな草花が生きています。次女がいたずらに植えたどんぐりの木が背丈を越すほどに伸びてしまいました。今の季節には、野鳥がやって来ます。困った事に、ネコも来ます。トカゲもいます。以前シマヘビもいました。

 この店に建てかえをする時、我が家を移し、店舗を設計する際にある方が「この池はつぶしてはいけません。」と言われました。水神様が宿っています・・・との事。この店のちょっと南には木曽川が流れています。この堤防沿いには、古くから水神様の碑がいろんなところに建てられています。神様がこの池を選んでくれたのかな?という不思議〜な気持ち!?半信半疑と言うよりも信じておこう!という思いから若干小さくなりましたが、この池は残されて、今はお客様に少しでも癒しの空間として存在しています。

 その池に注いでいる井戸水を汲み上げるポンプがくたびれたのか?水が少ないのか?時折止まってしまうようになり、ちょっと慌てている私たちです。水道屋さんに観てもらったところポンプの寿命だとのこと・・・。10年位前に取り替えたのですが「もうダメ?」という気がしてしまいます。まぁ休み無くひっきりなしに汲み上げつづけていたポンプですから、壊れてしまうこともあるのでしょうね。水神様の声が聞こえる(そんなことはありませんが)・・・なんて言うとドンビキされそうですけど、早いうちに新しいポンプに換えて、水をまた注いであげないといけませんね。じいちゃん・ばぁちゃんがうるさいですし・・・。でも誰がお金払うの?


花粉症(3/13)

 結婚した当初(1986年)、花粉症なる言葉を他人事に聞いていました。正直言えばそんな言葉があったのかな?と思うほど関心がありませんでした。それがその数年後突如として襲ってきたくしゃみ・鼻水・鼻詰まり・・・目のかゆみも若干ありましたっけ・・・。そしてそれが花粉症の症状と言われるまで大して気にしていませんでした。

 それが年々花粉症というものがTVなどで取りざたされるようになって自分も花粉症なんだと改めて認識してからか、ぐっと症状が大きい事になり、大変な症状を訴える症状を持つ人へとなって行きました。知り合いの漢方K薬局のKさんに「ひどいわ〜・・・」とおそらく他の患者さんと比べても・・・と言う意味合いを含んでの言葉だったと思いますが言われるほど。

 そんなつら〜い春先を送っていた私でしたが、1999年の春。何故か苦しんでいた症状が軽減し始めたのです。理由はわかりません。ただその年はいつもと違って、事の外ストレスをバンバンに感じていた年でした。ストレスが花粉症の起因する事項に含まれていたと思うのですが、何故かストレスが過剰に架かったこの年の春、花粉症を忘れているかのような日々を送っていました。それから次の年もその次の年も、全くではないのですが、ウソのように花粉で苦しめられるという毎日ではなくなりました。猛威を奮った花粉の量のときでもそれほど苦しんだ覚えもありません。少ない時は何も無かったほどです。何故なんでしょうか?

 あの頃と今と違う点・・・ここ数年はスポーツをしています。日々歩いています。夜更かしをする事もありません。食生活も年齢から食べる好みも変わってきたこともあり脂っこいもの・・・肉などはあまり食べなくなりました。珈琲は良く飲みます。お茶も飲みます。間食もします。決して健康オタクではありません。鍛えている訳でもありません。好きな時に好きな事をしている・・・のかもしれません。

 年齢から来るのかもしれません・・・。いずれにしてもその年毎に症状を看て薬を調合してくださったK薬局のKさんには、お世話になっています。今では時折朝に一服飲むだけで大丈夫です。そのお礼との意味をこめていろんな方に「この薬飲んでみやぁ〜」と勧めています。「ありがとう・・・いい薬です・・・♪」

プリンターが壊れた(3/1)

 一昨日、突如として止まったプリンター・・・、エラーメッセージなるものが出て早速購入先へ連絡。何でも個人が解決できないらしいトラブルらしく、仕方が無いのでプリンターをそこまで持っていくことに・・・。すると修理が完了するのに約1ヶ月かかるとの事。「えっ!」と驚く。ここでは直せないので・・・メーカーに持ち込むとの事。どこにあるんだそのメーカーのアジトは?地球の裏側にでもあるのか?と思ってしまうほど時間がかかる。いや、今の時代流通にかかる時間はそんなにかからない。そんな事は皆知っている。

 じゃぁ何故?考えた・・・今、考えた・・・。以前プリンターが安いのには訳がある・・・、と言った事を書いた気がしますが、これにもこう言った背景が感じられるのです。以前は、プリンターが物の大きさの割には、機能の割には安く売られているのは皆さんも分かるでしょう・・・。使用するインクが専用のカートリッジに身を包み、高価な物として売られています。しかも単色・・・例えば黒一色で印刷をしていても、微妙に減っていく他の色たち・・・。何故?WHY?なのです。消耗品であるインクは、高いのです。プリンターは安いのですが、このインクで利益を上げるメーカーのしたたかさ。ユーザーは自分の都合でインクを使うのですから、たまに買うであろうインクの価格には「?」と思いながらも「まぁいいか、無いと困るし・・・」的な感覚で買っていくのです。しかし、大量に印刷する時がある我々のような場合、そのインクの消費スピードがめっぽう速い事を知ります。大量に買って置いて、印刷を繰り返すのです。決して安くは無い事に気がつくのです。

 そして今回の1ヶ月の訳・・・ですが、こう言った背景から、壊れるまでのインターバルがきっと個人の使用頻度の場合、壊れるまでには時間がもっとかかるのだということです。いくらかかるということももちろんですが、おそらく新品より少し安い程度・・・。そしてこの修理までの時間。「そんなに値段がかかるの?そんなに時間がかかるの?」という事で、「もうかなり使ったから買い替え時かな?」と言う感覚が芽生え、おもむろに新機種に目が向く・・・という寸法です。店員にそれらしい事を言おうものなら、新しい機能充実のこの機種はどうたらこうたら・・・という説明を受けることは必至!そしてその十数分後、新機種が台車に乗せられ、店員が満足そうな笑顔で送ってくれると言う事になるのです。

 それでも今回の私たちはちょっと違いました。結論から言えば新機種を買ったのですが、一番の理由は1ヶ月も待てない!と言うことです。印刷物はタイムリーな物が多いわけで、今刷らないと何のためにやっているのか意味がなくなるからです。じゃぁ・・・と新機種を・・・と気を向けると、やっぱり店員のマシンガントークの説明が始まりました。私は、適当に聞いて「これ!」と指差し似たような機能の物を購入しました。店員はそれ!とばかりに学んだ知識を炸裂させようとした矢先に、その思いは不発に終り、一瞬不快な表情を浮かべましたが、買わせた!という事実は残った訳で、すぐ満足そうな笑顔へと変わっていきました。その十数分後、新機種は台車に揺られお買い上げ〜となったのです。

 しかし!私は壊れてしまったプリンターを直してくれ!と迫りました。「え?直すの?」という感じです。あったりまえです。今回、買い込んだインクがまだたくさんあるのです。プリンターは我が家のPCで使います。このインク、高価なものから最近では空のカートリッジにインクを詰め替えたリサイクルインクなるのもが他社から売られ始めました。このエコの時代、当然です。しかし、プリンターメーカーの注意書きには「純正品を使いましょう!」と謳ってあります。壊れるから・・・みたいなことを言っているのでしょうが、消費者はあまりにも価格差があるため、リサイクル品に手を出します。私も当然そうしました。それゆえ今回の故障になったのかもしれませんが、摩訶不思議なのが、自社製品のリサイクルインクが無い!と言うことと旧タイプのカートリッジを新機種にまったく互換性を持たせないと言う事です。インクそのものには大して改良はされていないでしょうし、されていてもその付加価値をユーザーである私たちが感じる事はまずないでしょう・・・。新機種には旧タイプのカートリッジが使えるようにしてはいけないのです。

 物造りをするメーカーこそが率先して環境を考えなくてはいけないのに・・・。今回のプリンターが壊れたことによって改めて「訳がある!」事のメーカー主導のあり方に不満を覚えた1消費者でした。

 


歩きネタ(2/18)

 13日の火曜日、久しぶりに自由になる休みだったので、以前からやろう!と思っていた震災後の雑踏の中、歩いて帰ってこられるのか?という体験を1度しておこう!と言うことにしました。その当事者となる長男、どうせ暇こいている訳だから「行こう!」と誘うと「わかった・・・」と、早速実行したのです。

 甥っ子から借りた大き目のリュックを2つ。家内が大げさやし・・・と言う冷ややかな視線を浴びながらせっせと準備に取り掛かかりました。持ち物は、支援帰宅マップ、バンドエイド、タオル、ティッシュ、ニット帽、手袋、上着、着替え様のシャツ。そして出発点になる長男が通う某大学近くのコンビニで飲料水とちょっとしたカロリー補給できる食べ物と乾燥しているため唇が乾く事が予想されたので思いつきでリップクリームを買い、予定よりちょっと遅めの10時20分ころスタートしました。

 実際は、我が家まで45km以上はあると思う道のり・・・。時間の関係と、この支援マップが犬山近辺までしか掲載されていない事や犬山まで戻ってこられれば、なんとかこちら(家)からも迎えにいけるのではないか?と思い通学沿線の犬山駅まで歩いた訳です。

 最初は、私自身の学生の頃の思い出の街と言う事もあって、「ここがどうだ!あそこがどうだ!」と長男と話しながら楽しく歩いていたのです。飯田街道を西へ・・・川原通りを7丁目交差点で右折し北上するのですが、いつもウォーキングと称して歩いている堤防と違って、都会と言えども歩道は結構状況が悪いのです。大まかな坂道があるのはわかっていましたが、進行方向に対して右側へ傾いているのです。当然道路のセンターラインから左右へ雨水などが側溝へ流れるように、いわゆる馬の背の造りをしているわけですから、当然このような状況が歩道にはあります。大きく歩道が造られている市内の路はいいのですが、旧41号(木曽街道)などは、まさしく歩道が幅50cm程しかなく、右足は側溝の上、左足は斜めなっている状況がずっと続きます。足首が外側に曲がった状態で歩きつづける訳です。これが20km・・・30kmと歩いていると足首だけでなく、それをかばおうとするうちに、いたるところに違った痛みを覚えてくるのです。長男は、歩き終わった後、左わき腹に筋肉痛を訴えておりました。万歩計を使って歩いた歩数は47221歩 33km 所要時間約9時間でした。

 道中感じた事・・・事の外、歩道に段差が多いこと・・・です。疲れてくると所々剥がれているアスファルトにあるクボミ・・・段差にして1〜2センチに足をひっかけおっとっと・・・になるのです。震災時には比べ物にならないような障害がいっぱいあるでしょうからもっともっと大変な思いをするでしょう・・・。この日は、コマ目に水分補給をし、500mlの飲料水(スポーツドリンクとお茶)を2本飲み干しました。季節によっては大きく違ってくるでしょう・・・。今回は乾燥こそしていましたが、暖かい日で、暑くも寒くもなく、帽子や上着を着る必要は無かったです。ただ日が沈んでから、若干私だけですが、手が冷たかったので軍手程度の手袋をはめました。持って行って良かったのが、バンドエイドです。履きなれた靴なら大丈夫!なんてことはありません。長い距離を歩いていれば、ましてや先にも書いた平坦な道路でないのですから、足のいたるところに負荷がかかって、靴擦れができます。おかげで水ぶくれができたのですが、手当てをすることが出来ました。

 対処した事として、痛くなった脚の筋肉に、鎮痛効果のあるエアーサロンパスとシップを途中買いました。そう思うと、このリュックを持ってきたということは、決して大げさな事ではなくて、しかも歩くに支障なく、両手が使え、荷物がたくさん入る優れものな訳です。備えあれば憂いなし・・・、歩くぞ!と気張って行ったのですが、素人の2人にはたかが歩く・・・という事が様々な経験をさせてくれ、いろいろ感じる事が出来、とても勉強になった試みでした。

健康か?(2/10)

 以前続いている東海道の旅・・・。1/8に日本橋をスタートして、今は静岡県(遠州)は丸子(まりこ)宿目前。約180kmを歩いた事になっています。実際日常生活の中での歩数はその半分にも満たないと思います。努めて歩いている日常ですから、生活の中での歩数は、1日3000歩くらいではないでしょうか。10000歩を歩こう!と誰が言ったか判りませんが、7km程を歩いてやっと到達できる歩数です。なかなか今の生活の中ではできるもんじゃないでしょう・・・。

 歩く事が健康にいいとは何となく分かるのですが、この具体的な10000歩という数字は何故なんでしょう?そしてここからウォーキングが盛んになり、目安になる万歩計という代物が登場・・・、「万」という数値が使われて更に10000歩以上歩くと健康だ!それ以下だとダメだ!というような強迫観念が作られてしまい、日々私は10000歩を気にしながら歩いているのです。

 ただ、カロリーのとり過ぎでウェイトオーバーになり、メタボリックシンドロームなる症状に怯え、体に溜まった無駄なエネルギーを体を鍛えるかのような思いでただ浪費している行為が、健康ブームとして皆体を動かしているのです。なんかおかしいですよね?心や体を鍛える、健康を保つために運動をする・・・そして腹が減る・・・必要なカロリーだけ摂取すれば太る事もないのでしょうから・・・。逆なんですね、やっていることが・・・。私はどこか後者のつもりで前者になっています。だからダメなのさぁ〜・・・。

ここんとこ2(2/1)

 同じ題目ですが、ここんとこの話です。あっという間の1月でした。これをあと11回過ごせば正月です(笑)。こんなことを言っている輩は、世間にはきっとたくさんいる事でしょう・・・。

 昨日、親戚の伯父が亡くなりました。親父の姉のご主人ですから、私とは血の繋がりはありません。小さい時に良くしてもらった思い出があります。伯母もすでに亡くなって、ここ近年はお会いする事もありませんでした。でも訃報を聞いて、通夜にでかけました。父母と叔母2人と一緒に・・・。遅くに兄夫婦も駆けつけ、本当に従兄弟やら久しぶりの身内が集まりました。こんな時にしかお互い顔を見ないなんて・・・。私自身も周りから見れば、「誰?」だったことでしょう・・・。故人は最後に、身内を引き合わせてくれる・・・とは誰かがつぶやいた言葉でした。
 
ここんとこ(1/21)

 今年になって、夜のウォーキングだけでなく1日に何歩あるいたか?を糧に万歩計を手に入れました。同じ物を以前母が持っていたそうで、それを聞いて手に入れました。東海道53次を踏破する!というゲーム感覚で楽しめて歩けると言う代物です。ついつい歩数を記録しているうちに、宿場から次の宿場までが6〜7km離れているとその日のうちにたどり着こうと、空想の旅が行われます。すると日々の生活の中でその距離を稼ごうとすると、なかなか容易ではありません。ついついオーバーペースで旅は続いています。昨夜は、残り7キロ程を1時間も無いうちにたどり着こうと、走った走った・・・。おかげで今日は疲労感がタップリです・・・。

 夏に毎年やっているバスケの試合のため、体を絞る?鍛える???ためにやり始めたのですが、不思議と寒い時期は思うように減ってはくれません。これが夏になると同じ事をしているうちに少しずつではありますが、変化が現れます。だんだん体が軽く感じられるようになりますし、毎日の事で体から「動きたい!」と言うような欲求が出てきます。一番嬉しかったのは、ある年に全力で走ってみたのですが、脚が上がらないのです。速く走る感覚ではないのです。重いのです。脚に力が入らない感じです。そしてその夏に、こうしてウォーキングやら自転車やらで体を・・・脚力を着ける事をし始めました。ある程度過ぎた頃、体重を量ると6kgほど減っていました。そして堤防を全力で走ってみると・・・速く走っている感覚です。それほど速度はないかもしれませんが、地面をしっかり蹴っている感じです。その時のふくらはぎは筋肉がしっかり着いていました。「お〜っ!感激!!」でした。今は以前と一緒の状態ですが・・・(あかんのう〜・・・)。もう一度そうなりたいと思います。

 痩せるだけでは、やっぱりダメでしょう。筋力を着けないとデブ(私はこっち)もそうですが、ガリガリもみっともないです。運動をする事によって体にはちゃんとした人間の体型があって、そういった体型になるそうです。ですから、訳のわからない楽して痩せても、しっかりした体にはならないのではないかなぁ?と思います。納豆は良く食べますが、朝晩食べる事で痩せられた・・・という某TV番組の捏造が発覚・・・。納豆は体に良い食べ物で、学術的には痩せらるらしいのですが、その裏づけを適当な編集ででっち上げ、視聴率獲得に使われた・・・。納豆を商品として扱っている業界の人たちにははなはだ迷惑な話です。

 プロ野球の話、来年度の去就での事、43歳になる工藤投手。人間的には可も無く不可も無く・・・と言った印象の選手でした。それが、門倉という投手がFAで巨人に移籍・・・横浜はその人的保証として工藤を選択。高額で高齢の工藤をまさか指名しないだろうという巨人の思惑もあってかプロテクト枠の28人の選手の中に工藤の名は無かった・・・。それを横浜は「あれ?」と思い喜んで指名。「あれ?」と思ったか分かりませんが巨人は工藤を手放す事に・・・。そんな状況の中、当の工藤は「あれ?」っと思ったでしょうが、さばさばした様子でこれを快諾。なんとも風当たりが良くない巨人にいるよりも、自分を欲しいと思ってくれる横浜に対し、感謝の念も感じた様子。「これでもう1年野球ができる・・・」という工藤ならではの心境が発する言葉の重み。それに対して、昨年の優勝に大きく貢献した中日の福留の球団に対する評価への期待度の表れ・・・。3億8千万の金額提示を「ちょっとがっかり」と感想。脂の乗り切った選手ならではの意識が見られます。自分の値はどんな物か?という意識がその立場によって出ていると感じます。どちらからも感じるのは、年齢がそうさせているという事。それぞれが逆の事を言ったとしたら・・・、欲や哀れ・・・すら感じる言葉になってしまいます。この2人からは、夢と希望を感じる事が出来ました。福留にはモチロン、工藤にも注目したい気持ちを抱きました。

他人の応援(1/13)

 バスケットをしながら今までたくさんの子供たちと係わって来ました。4年間で何十人という数になるかと思います。男の子や女の子たち・・・、みんなバスケットで連れあった仲間です。大学生になってもバスケを続けている者もいます。やめてしまった子もいます。それでも細々とこのBOBの集まりに気が向くとやって来てバスケを楽しんで行く子もいます。夢を追い求めて単身アメリカへ行った子もいます。みなさまざま、もうここへは戻ることも無いでしょうがたくさんの子がいました。

 そんな中に、気になる子がたくさんいます。一生懸命頑張る姿は、大人の私たちの心も動かすほどです。私はそんな姿を見るとつい応援したくなってしまうのです。私のようなタイミングで応援する他人であるところの大人は、この子たちにとって異質な存在でしょうし、時には迷惑な存在であるかもしれません。別にいてもいなくてもいいのでしょう・・・。
 一生懸命頑張ることは、きっとこの子たちにとっては時にはつらく感じることもあるでしょうが、楽しいことの延長なのでしょう・・・。そんな姿を他人に応援される・・・という状況は頑張るこの子たちにとって、自分の姿が本物なんだと認識してくれているんじゃないか?と私はなんとなく思うのです。

 一応の区切りをつけたとき、頑張ったか?ごまかしてきたか?他人には本当のところはわかりません。それが悪い事なのかどうか?許されるかどうか?だから何なんだ!?・・・なんてことは誰が決めるものでもないでしょうし・・・。しいて言うなら自分はどう過ごしてきたか?それを自分だけは知っている・・・ということです。本当に目標をもって努力してきたか?たまには怠けてしまったこともあるけれど、それなりに頑張ってきたんだと思えたら、それが1番大切なことです。そんな時、自分で自分を褒めてやれるんじゃないかと思うのです。そんな経験が1つや2つ出来たら素敵な人生を送れるのではないでしょうか。そんな姿で頑張っている気になる存在の子が、私の廻りにたくさんいるのです。

みんな頑張れ!応援しているぞ!! 

暖かい正月(1/5)

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
このコラムのページの切り替えは、半年くらいに行っておりますが、どうせやるならちゃんと新年1発目の区切りで替えればいいのですが、中途半端な展開で続けております。今更急に変更するのも面倒くさいので、このまま時の流れに・・・「明けてしまえば昨日の今日・・・」というなんとも怠慢な気持ちのまま、このコラムだけは進めて行こうと思います・・・。

 今年の正月は、何をしていたかといいますと、元日は、明けて近所の古井神社へお参りに・・・、ここで毎度近所の人たちと新年のご挨拶をします。家族とさくらも行きました・・・。さくらにとってはどうしてこんな夜中に起こされて?しかも引っ張りまわされるの?どこここ????というような気持ちだったでしょう・・・。

 私は、数年ぶりに兄の誘いのゴルフに出かけました。本当に久しぶりのゴルフは何やってんの?という内容・・・。肩を痛める寸前には、80台を連発していた自分がいたのにあれは誰だったの?という自分で56・55の111でした。そうそう久しぶりにZで出かけました。

2日は、下呂温泉へ・・・、小川屋という老舗の旅館へ日帰り昼食温泉ツアーへ・・・。何と無しに過ごしている母をつれていく事が目的です。美味しい物を食べて、のんびり温泉に浸かって・・・「ゆっくりできた・・・」という感じでした。夕方は裏の堤防を1時間くらい歩いて走って・・・。気持ちのいい汗をかきました。遠くに観える御嶽山が雪をかぶって綺麗でした。

3日は、兄夫婦とお多賀さんへ・・・。10時半に出発。途中養老のSAで休憩と昼ご飯を買って車中で食べて、一路お多賀さんへ・・・。彦根のICで後続車に、なにわナンバーのちょっとおうちゃくい車が着きました。渋滞がどうしても気に入らない様子。強引に割って入るは・・・、右折車線から左折するは・・・、少しでも先へ先へ行こうとする傲慢振りです・・・。「たぁけぃ!!おまぁいつか事故るぞぉ!!」ときっと回りの車中の人たちは思っていたと思います。

 でも我々は、毎度の裏道を通ります。塩田さんちの横を通ってくるくると・・・。しかし、しかし、昨年は雪が降る寒い3日だったのですが、今年はポカポカ陽気の3日・・・というかお正月です。参拝者で溢れんばかりの車車・・・。駐車場が無い!!そろそろ・・・と走っていると1台なら空いたよ・・・という誘導してくれるおじさんの合図・・・。さっそく入ってしまいました。後続の兄たちの車とは、ここで分かれることに・・・。携帯で連絡を取り合って、境内で無事再会・・・。古い御守を納めて、今年の安全を祈念して御守と参拝をします。終わるともう何もする事が無いので、さっさと帰路に着く事に・・・。ここで兄たちと1度別れます。家で会いましょう・・・。

 我々もクレープを食べながら車に戻り、高速道路をひた走り、途中川島SAで水族館を見学・・・。いやぁ・・・立ち寄った事は幾度とあるのですが、水族館は初めてです。ちっぽけな水族館だろうと思っていたのですが、結構楽しめました。身近な川魚のオンパレード・・・。今年こそは釣ってみたい真鯉など・・・。さすがに世界の淡水魚には閉口させられましたが、なかなかの水族館です。夕飯は、兄姉家族と大所帯でワイワイと・・・。これが決まりのようなものです・・・。

 4日は、嫁さんの実家へ・・・。車で5分くらいですから、食事をすると言った集まりになります。嫁さんの姉夫婦と今度は一緒にいろいろ話しながら、美味しいご飯を食べました。ゆっくりのんびり・・・の4日間です。太ったよなぁ・・・。残念なのは正月になるや否や・・・長女が体調を崩してしまったことです。彼女にとってつまらない正月のようです・・・。

 それにしても暖かいお正月でした。何か心配になるほど・・・、夜中に地震もあったし・・・、でも大事無く、今年もいい年でありますように・・・。


お餅(12/29)

 あっという間に今年も過ぎて行きました。昨年の雪の多い12月は本当にしんどかった・・・。そんな身も心も疲れていたんでしょう・・・今年の冬を意識しながら、心のどこかで今年は準備万端で・・・といろいろ策を講じていたのです。まずもって身にしみたのは人手が足りない事・・・。ハローワークに出かけて行って募集をかけようとしていましたら、思わぬ事態になって通常で働ける人員が2人現れました・・・。そして土日は長男も手伝ってくれるわけですから、昨年とは比較にならないほどの体制です。

 いつものように商品とDMを揃え、準備万端で12月を迎えられる!と思っていましたら、暖冬・・・との予報。毎年暖冬・・・と言う声があって、昨年なんかはそれでも予期せぬ大雪となり、凄い12月になったわけです・・・。そんな慌てなくてもいい様にと冬の装備を早めにされる方が11月の半ば過ぎからお見えになったのです。毎日順調に装着は進み、12月の初旬、中旬の土曜日が忙しい・・・状態であとはスムーズにできました。店は31日の午前中までやっておりますが、この年の瀬の雪でも慌てる事も無く、今日が、従業員の仕事納めとなるのです。

 そんな折、配達で車を走らせていると、あるお米屋さんの前を通ったとき、大切そうにお餅を抱えて配達に出かけようとするお店の方を見かけました。1升くらいのお餅でしょうか?最近は我が家では見なくなったお餅の姿です。子どもの頃、今頃になると、我が家に大きく伸ばしたお餅がやって来たものです。それを見ると、気持ちが何となくワサワサ・・・としてきて嬉しかった事を思い出しました。母とおばあちゃんが包丁を入れ、ちょっと大き目のサイズの四角に切っていきます。つきたてのお餅はまだ軟らかく、待ちきれず端っこをもらって醤油を付けて一口でほおばります・・・。「うまい!」のです。何てうまいんだろうと感じたものです。

 10代の頃、正月に朝、雑煮で10個、昼いそべにして6個、間食で4個、夕飯で6個、夜食に更に4個と1日で30個のちょっと大き目のお餅を食べた事があります。まさに育ち盛りのた〜け喰い・・・です。あの頃はどうってことなく食べられたもんですが、今じゃ日に2個を朝の雑煮で食べるだけで「もういい・・・」のです。嫌いではないのですが、食べられなくなったのでしょうか?胃がもたれる・・・胸焼けがする・・・そんな心配がふと頭を過ぎるからでしょうか・・・。

 でも餅つきをした時のつきたてのお餅は、やっぱり「うまい!!」のです。なんやかんやで今年もあと少しです。1年間本当にありがとうございました。来年もいい年でありますように・・・。

指先(12/20)

 この時期になるとお肌のカサカサとかしもやけ・アカギレとか・・・CMで若い奥様が食器を洗っているシーンで、そんなになるかぁ?と悲壮感が漂うほどの症状をどアップで写し、これを塗るとほら治った!!みたいなことを観ますね・・・。

 私の場合、もう何年前からでしょうか?手の爪の両サイドがアカギレて痛くなるのです。お休み前に必ずハンドクリームを塗って寝るのですが、完治には至りません。そこで仕事中に指先にいろんな負荷がかかって両サイドが切れるわけなので、バンソウコウを巻いて防御と言いますか保護をしています。さながらバレーボールをするかのような様相です。「どうしたの?」と聞かれると「バレーボルを始めたんやて・・・」と応えると「そうなんや・・・」と皆一応に納得されてしまいます・・・(笑)。
 
 これも年齢から来ることのようで、指先に脂分が無くなってきた証拠ですね・・・。本を読んでいてもページがなかなかめくれない・・・思わず指先をペロン・・・と舐めてしまうという行動に出ます。子供の頃そんなことをする大人を観て、心なしかそんな仕草を嫌っていた自分がいましたが、そんな自分になっています・・・。私もなんら特別ではない人間なんですねぇ・・・。若い頃は年老いた人たちをさげすんで感じていた事がよくあった気がします。でも何の事はない・・・自分も一緒でした・・・。だから自分の子どもや他の子供たちを観ていると、若かった頃の自分を見ているようでおかしいく感じます。君らもいつかは同じになるんだよ・・・。わかるはずもなく説教地味たことを言ってしまう自分もいます。

 むしろ、今になって、歳をとるということの味と言いますか・・・深みと言いますか・・・「あぁ・・・こう言う意味だったんだ・・・」と良く感じます。歳を重ねると言う事は、ある意味面白いなぁ・・・と思うのです。年配の方を軽軽しく感じる事は決してしてはいけないと思う毎日です。



重い映画(12/11)

 土曜の夜、長男と映画を観て来ました。話題の「硫黄島からの手紙」・・・。「父親たちの星条旗」は観ていないのですが監督はあのクイント・イーストウッド。太平洋戦争末期の硫黄島を舞台にした戦争映画です。感想は、涙が出てかないませんでした。実話です。戦争はいけません。人間はどうして争いをしてしまうのでしょう。日本もアメリカも正義なのです。

 敗戦濃厚で応援部隊も支援物資もかなわず、兵力も兵器も圧倒的に不利な状況で、この島を時間を少しでも稼ぐ事に意味があると、そして天皇陛下、国家、そして1個人にとっての家族を守る事に意義を唱え、正義を唱え命をささげたたくさんの人たち。戦争って何で起こるのでしょう?私の親が戦争時代を生きて来ました。兵役に出て行く事はありませんでしたが、当時の若い頃の話を私が子供の頃、一緒に風呂に入っている時によく聞かせてくれました。

 こう言った思い出話は、いつか風化して行くのでしょうか?とてつもなく悲惨な悲しみを・・・感情を伝授することは難しいのでしょう・・・。戦国の世の殺りくは、当時の人たちにとってたまらない惨劇だったことでしょう。でも今では物語なのです。時代絵巻としてドラマに見る物語なのです。

 こうやって思えば、いつかの世にこの戦争の惨劇は、物語として語られる事になるのでしょうか?いつかどこかの国が核を使う時がやってきてしまうのでしょうか?な〜んかいたたまれなくなって涙が出てたまりませんでした。

若い連中と(12/5)

 先日の日曜日、店長はじめ数人は休日です。しかし、事のほか前日の土曜日がすごい仕事量になった事もあり、急遽息子、甥っ子の助っ人を頼んだ訳です。K太も入れて平均年齢がぐっと若返った当店になりました。仕事は乗用車ばかりの作業になったわけですが、時には、1台に5人が群がる・・・というさながらF-1のピットストップの様相でした。

 思い出せば、去年の今日、突然の雪で大混乱になったのです。普通は降雪前線は、当然北からやってきますが、昨年はいきなり日本列島雪まるけ・・・になったのです。おかげで商品が入ってこず、忙しいのは良いのですが、お客様には怒られっぱなしでした。本当に申し訳ありませんでした。そんな昨年と言う事もあってか、11月中にスノー商戦が始まったのです。今のところスムーズに物もお届けできている感じですが、若干物によっては欠品が出始めているようです。私どもでも昨年は5人の現場スタッフでヒーヒー言って頑張っていたのですが、今年は昨年のような事はないようにと、アルバイト4人を入れて万全の体制?をとっています。

 スタッフが若いと言う事で、店内が生き生きしています。動きが機敏で声も大きく、笑い声も聞こえます。それに刺激されて私たちの動きも心無しか軽やか?になっています。若いと言う事は、同じ仕事をしていてもこうも違った動きをするもんだと感心させられます。そつの無い動きを歳を重ねて行くとするものですが、いわゆる熟練・・の域です。しかし、若い連中は、動きが速く力で事をこなそうとするのです。私たちの年齢から観ると、無駄な動きにも見えたりします。しかし、実にテキパキと動く姿は若さゆえの特権なんですね。それと疲れてどこそこが痛い・・・なんて言いません。うらやましい・・・。

まんだ出る?(11/27)

 昨日久しぶりの休日を頂きました。11/3依頼です。長女と映画と買い物へ・・・。仕事で着るGパンと薄くて暖かいシャツをしこたま買い込んで来ました。長女にはカバンとスエット。映画は淡路の大震災をテーマにした「ありがとう」です。特別観たかった訳ではないのですが、観てみよう・・・と観ました。現実の話ですから、考えさせられる内容でした。不運にも亡くなられた人、助かった人・・・、そんな命のあり方に「生かされているんだ。生きている事に感謝して生きていこう。だから・・・ありがとう。」というジワ〜ッと来る映画でした。

 そんな休日を終えて、夕飯も食べいつに無く睡魔が襲って来たのです。風呂に入って大河を観て、いっぱいいっぱいで起きていたのですが、もう寝ようと11時前には床に入ったのですが・・・。ウトウトとした時、耳元に「ぷ〜ん」という奴の羽音を聞いたのです!「えっ!!」と思い耳をパチンと叩きましたが、奴は消えていました。気づくと右手中指がしっかり喰われているのです。程なくしてたまらないかゆみを覚えました。「くっそ〜!!」としばらく灯りをつけて辺りを見渡したのですが・・・いません。TVをつけました。もうしっかり目は覚めています。30分くらいしたでしょうか・・・。やっぱり寝よう・・・と灯りを消します。TVはまだついたまま・・・。奴のことは忘れた頃、再び「ぷ〜ん!!」と右耳に襲来の音。思わずパチン!と鼓膜がピ〜ンとなるほど叩き灯りを点けて確認をします。すると手には私の鮮血と思しき血痕が・・・。「やった!!」と耳の辺りを確かめると、つぶされて形をとどめない奴の姿が・・・。

 11月も終わる頃に「まんだ出る?」と右手中指にキンカンをヌリヌリする私でした・・・。


トムトリオ、エリックそして歯痛(11/19)

 昨日、子どもの参観日の催しで、JAZZを聴きました。トム・・・とは、JAZZギターリストで隣町在住の人です。高校時代からの友人で、一緒にバンドを組んだ経験があります。彼は高校卒業後、単身、アメリカバークレー音楽大学へ進学、数年の後帰国。そしてプロのJAZZミュージシャンとして今日に至っています。人柄がいいユニークな友人です。そんな彼が、次女のいる吹奏楽部とジョイントするという事態になったのであります。応援に行かない訳には行きません。内容はここでは書きませんが、私が関心を寄せていた事に、子供たちがどんな反応を示すか・・・という事がありました。JAZZ・・・好きな人は好きですが、分からない人には分からない・・・分野なのです。私自身も、全般を受け入れられるか?というとそうではありません。演奏できたら楽しいのかもしれませんが、好んで聴く・・・という気持ちにはなかなか・・・。でもライブはいいのです。あの友人が演るのですから楽しみでした。

 会場は体育館・・・仕方ありません。音響が悪い・・・少し残念です。語りが上手く聞こえない・・・のです。友人は一生懸命演奏してくれました。プロです。一緒にやっていた努ちゃんではなくTOM・KANEMATSUでした。そんな演奏を聴く子ども達は・・・?最初は集中していたようですが、やっぱり中盤になると、態度に変化が現れてきます。たいくつそうにしている者、眠っている者(ある意味BGMとして受け入れているのかもしてない・・・)、一生懸命理解しようと聴く者、楽しそうに聴いている者・・・と様々です。でも質の高い音楽を、聴く機会というのはそうそうこの歳であるものではありません。何らかの影響を植え付けた素晴らしい試みであったと思います。

 その後、この友人がなんと行きたかったE・クラプトンのコンサートに誘ってくれたのです。道中、努ちゃんと一緒にやったジェームス(ドラム)と会話した時は、一生懸命、無い語学力を発揮して?「ドラムを今もやっているのかい?」とジェームズ・・・「結婚を期にやめちまったんだ」と私。「お〜っ、それは残念だ!」とジェームズ・・・。「トムとは高校生の時に一緒にやったんだ」と私。「ごきげんだね。じゃぁ僕らは同じ仲間だ!」とジェームズ・・・。という込み入った会話がされなかったことは当たり前ですが、ごきげんな車中でした。残念ながら開始時間を1時間遅刻して到着。1時間15分ほどしか聴く事が出来ませんでしたが終盤の生「♪いとしのレイラ」は鳥肌もんでした。ブルース・バラード・・・クラプトンの音楽は大人の音楽ですね。何歌っているのか解らないのが・・・自分の語学力の無さを卑下する一日(涙)となりました。

 さらに・・・その晩、私は治療中の奥歯が痛み出し、夜中に目が覚めて・・・寝不足のまま仕事に精を出しているのであります・・・。

市民音楽祭(11/12)

 仕事の合間に行って来ました、市民音楽祭。会場は町内にある文化会館、歩いて1〜2分の場所にあります。13時開演、お目当てはK高校の吹奏楽部の演奏と次女所属する中学の吹奏楽部の演奏です。さすが高校生は人数の多さもあってか、JAZZを聞かせてくれ、リズムも歯切れ良く、気持ちよく聴く事ができました。以前も紹介したSちゃんも最前列でピッコロ?を一生懸命吹いていました。驚くことは私が高校生だった頃もいたR先生が元気に相変わらずタクトを振っている事です。確か昔この先生、自主製作のレコードを出した事が話題になりましたっけ・・・。題名は木曽川慕情?(違ったかな?)だったような・・・。OS通りがどうのこうの・・・という歌詞を覚えています。

 高校生の演奏が終わって、次女達の演奏です。これに先立ってなんと次女は大切なパート楽器(バリトンサックス)を落としてしまい、ボッコリとへこませてしまったそうです。修理に出しているため、隣りの中学校から急遽借りてきた楽器で演奏をしていました。相変わらず、大物ぶりの次女であります。学校の関係者の皆様、申し訳ありませんでした。そしてお貸しいただいた隣町の中学校の皆様ありがとうございました。

 ゆっくりと聞くこともままならず、演奏が終わるや否や、店に戻って仕事の合間にこれを書いています。昨年と違ってちょっと寒い日が続く事と昨年の二の舞にならぬ用に準備を考えているお客様でちょっと忙しい状態です。ありがたいことです。そんな我が家も昨日は一足早くスタッドレスを装着しましたし、夜には家族でカラオケ大会を開催しました。3時間の歌いまくりで少々疲れている私です。本当に音楽は良いですね。


眼精疲労(11/1)

 ここのところパソコンに向かっていろんな資料を作ってばかり、冬の準備や請求書の作成やら。目を酷使する毎日です。先日の人間ドックでは、視力の低下を指摘され(もともと悪いんですけど・・・今更言われてもねぇ)、左右の視力が全然違うので、自分でも困っている以前でしたが、ソフトコンタクトを使用する様になって快適な遠方を手に入れたんですが、今度は近くが見えない・・・。伝票に文字を書き込もうとしてもダメで、コンタクトが合わないのか?と思っていたら、突然誰かが「老眼?」という言葉を・・・。「え?まさか?」と程度の軽い老眼鏡をかけてみると・・・。見えるではないですか!困ったもんだ・・・。後々友人たちにこのことを話すと、皆同様の思いをし始めているようです。

 時々起こるのが、起きてから全く視力が合わない・・・ということが時々あります。漫然と見えるのですが、遠くだろうと近くだろうと凝視すると視点がピントが合わない・・・そしてテレビでやっているような肩こりがあったり頭痛がしたり・・・たまらないのです。新聞も読めやしないのです。そこで今朝はアリナミンを服用しました。眼精疲労にもってこい!かかってこんかい!のあれです。でも初めてではないのですが、このアリナミン・・・服用して1時間もすると胃の中で溶解して、ビタミンのなんとも言えぬ臭いが鼻をついて来ます。あまり良い臭いではありません。ピーマンを食べると1日中ピーマンの匂いがするというあれと似ている状態です。こうしている今ももわ〜っと臭うのです。嫌な感じです。目の疲れは?と気にしても良くわかりません。こうやってパソコンに打ち込んでいるという事は、目にとって良くは無いわけでマッサージしながら運動をしているようなものです。緊張の連続をといてやると良いそうなので、今回はこの辺で終りにします。ではまた・・・。

1匹の蚊(10/26)

 ぷ〜ん・・・という蚊独特の羽音。皆さんもご経験がおありだと思いますが、就寝時のこの音は実に不快ですね。それで刺されちゃったりした時なんざぁたまらないわけです。そんなご経験がおありならこの ぷ〜ん を聞いただけで目が覚めるってもんですよね。まさに今日の未明・・・私、この目に遭っちゃいました・・・。

 時は4時頃、突如右耳にぷ〜んという迫り来る羽音。パッと目が覚め、小さな灯りを点け、目を凝らします。すると薄明るい中をキラッと羽根に反射する光を確認。アカイエ蚊です。凝視したままガバッと起き上がり、蚊を追うのですが、見失ってしまいました。しばらく起き上がったまま、耳をすまして奴(アカイエ蚊)を待ちます。すると部屋のどこかで飛んでいるだろう羽音がかすかに聞こえます。しかし、時折どこかに止まるのでしょう・・・羽音が消えます。奴を確認できないまま、また浅い睡魔がやって来て私は横になりました。ウトウト・・・と眠りかかった時、またぷ〜んという奴の襲来です。今度は部屋の灯りを全開にします。時計を見ると5時少し前・・・。外はうっすらと白みはじめています。辺りを見渡しますとなかなか奴を確認できません。じ〜っと待つ事10分くらい・・・あきらめて横になりました。しばらく回りを見渡すのですが、どこにもいません。「え〜い、ままよ」と灯りを消して寝ます・・・。

 すると奴はまたぷ〜んと羽音をたてて気配をばら撒きます。私の気持ちはヤスリでゴキゴキやられたように毛羽立っていきます。イライラしまくり状態・・・。今度こそ・・・と奴を探すのですが・・・いましたいました・・・奴はCD棚にひっそりと停まっています。チャ〜ンス!!そ〜っと近づくと奴はサッと飛び立ちました・・・しかし今度は見逃しません。追っているとなんと布団の上であぐらをかいている左ひざに停まりました。「ちゃ〜んす!!!」とバシッ!!!と叩きました!!でも直ぐには叩いた手を上げません。はずしたか辺りを飛んでいく奴を探します・・・。どうやら居ないようです。やっとやっとやったと手を上げたら・・・ぷ〜んとそこから飛び立つ奴・・・。どうやら隙間に入っていて命拾いをしたようです。慌ててバシッと中で一戦、しかし確認した手のひらには奴の姿はありませんでした・・・。時は既に6時少し前・・・。いっそのこともう起きる時間に近くなってしまいましたので起きようと思ったのです。でもあと30分・・・とよこになってしばらく・・・。外はもう新聞配達の自転車?の音。散歩に行く母の物音。国道を走り始めた大型自動車の音。様々な音で奴の羽音も聞き辛くなってきましたが、はっきり感じる奴の羽音・・・。左を向いて寝ているので右耳が上を向いているわけで・・・すませて聞いてみると・・・何故か左耳(枕に伏せている状態)ではっきり聞こえるのです・・・。あれ?と思って起き上がって枕もとを観ると・・・なんと奴は枕にひっついているではないですか・・・。バタバタしています。千載一遇のチャ〜ンス!!バシッと今度こそ今度こそ思いを遂げた私でした・・・。

 しかし、今日は体が非常にダルダルなのであります・・・。なんとかしてくれよ〜ドラゴンズ!!負けるんじゃねぇぞ〜!!ナゴヤへ帰って来いよ〜(絶叫)!!!!!

中山道太田の渡し(10/17)
 
 ドラゴンズの優勝マジックに一喜一憂していた頃、実際は5日の日、NHKの街道てくてく旅・・・という番組が太田宿を訪れたらしい・・・。先日夜中、知らずにテレビを点けたらよ〜く知っている場所が映っているではないですか・・・。直ぐ裏の木曽川の堤防・・・同じ町内に位地する所なのですが、なにやらリポーター役のオリンピックに出場したショートトラックの勅使川原郁恵さんが、お手玉を地元のおばちゃんとやっているのです・・・。その後、木曽川の太田の渡し跡の記念写真を撮って、足早に日本ラインを楽しんで前日いた鵜沼宿の方へ下って行って、車でまたこの場所へ戻って次の宿場町・・・伏見宿へ行かれました・・・。上の写真は太田の渡しの浮世絵と今の場所を写して来ました。後方の鳩吹山の稜線が面影を残していて感慨にふけるってもんですね。

 広重の宿場町の浮世絵は、構図的にデフォルメされているようです。その場に立ち、180度の展望をぐるっと描き込んでしまう・・・。そんな様子が上の絵には感じます。この渡し舟は昭和2年に太田橋なる物ができるまで、行われていたようです。今は化石林公園として整備されていますが、私が子供の頃は、この辺りはそのままの河川敷でした。ここに至るまでに石畳の路もあって、子どもの頃はそれ程古い物とは思いもせず、自転車で通るには非常に難所だった記憶があります。そうそう難所と言えば、この太田の渡しは、「木曽の掛け橋、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい・・・」とうたわれた中山道の難所の1つだったそうです。でもここから上流1kmにダムができた事で、川の流れも穏やかに成った事もあるのでしょうが、今は難所にはとても見えません。

 太田と言う地名は、ここから1.5kmほど下に当たる地域の地名で、実際この太田の渡しのある場所は、古井(こび)と言います。太田村・古井村の隣村だったそうです。今は美濃加茂市御門町・・・と言う場所です。渡しに替わって架けられた太田橋のたもとから、日本ライン下りが1時間ほど楽しめます。私も過去に2回ほど下った事がありますが、なかなか夏の時期には涼感があって、またスリリングで爽快な気分にさせてくれます。お値段がちと高い気もしますが、その気になって行けばそれもまた楽しからずや・・・です。

 昨夜、またまたNHKの何て番組か判りませんが、壮年の方たちが、自転車に乗って旅をしている様子が映っていました。その中のお一人がパンクしてしまい。直していると、そこで自転車で日本1週をしている15歳の少年と出会います。この壮年の73歳の方は、この少年との出会いを大変感慨深く語るのです。正直にこの少年の若さと、幼さと、それでいて自分よりも壮大な旅を続けている事への敬意を感じて、すがすがしいお顔をして、「うらやましいなぁ」とニコニコとつぶやくシーンが印象的でした。

 私からすれば、仕事とはいえ歩いて中山道を踏破する勅使川原郁恵さんやこの壮年や少年の環境に思わず「うらやましいなぁ・・・」と思ってしまいました。やりたくても今はまだできない・・・やれるようになる時がキット来る・・・それまで我慢がまん・・・。