5 天使のゆびきり

 

 

陽が高くなってきたころ、廊下の奥のドアが開いた。

鉄格子にもたれかかってウトウトしていたガルヴァが顔を向けると、二人の人間がやってきたところだ。いや、一人の人間と、一体の天使、というのが正しいか。

天使ルファエル。下級天使を護衛に持つ、月からの使者。マリオンの上司でもある。

もう一人は初めて見る顔だが、知った顔だった。

グレゴリー・ザン・ゲインズブール。マリオンを養っていた神父であり、教皇に次ぐ高位聖職者、枢機卿の一員でもある。

立派なヒゲを蓄えた、眼鏡の犬人。当然かもしれないが、牢番やルファエルよりも立派な法衣を着ている。パッと見は人が良さそうに見えるが、教会、それも法王庁の人間だ。油断はできない。

「ほう。ずいぶん元気になったのね」

ルファエルがガルヴァを見下して言う。

「・・・おかげさまでね」

殺される寸前まで痛めつけられた相手だ。ガルヴァは本能的に恐怖を覚えたが、意地とプライドを総動員してそれだけ答えた。

声を聞きつけてマリオンが目を覚ます。

「・・・神父様・・・」

「マリオン・・・」

グレゴリーは悲しそうな顔をして言った。

「教皇様の承認を得た。・・・イニシエーションは、明後日行う」

イニシエーション?

ガルヴァが首を傾げた。

教皇といえば、教会を統べる、ギュスターヴ・ヴァン・ヴァレンタインの事だろう。三権分立の頂点、この国の三大君主の一人だ。

「オイ、なんの話だ?」

俯いているマリオンに声をかけるが、答えは返ってこなかった。

「出なさい。イニシエーションの前に、禊ぎを・・・」

「神父様、ボク・・・儀式までここにいたい」

「ここに? ・・・しかし・・・」

グレゴリーは困った顔でルファの様子をうかがう。

彼女は肩をすくめて「それなら、その方が都合がいい」とだけ言った。

「いいでしょう。好きにしなさい」

「ありがとうございます」

「オイ、さっきから何のハナシしてやがる?」

「貴様には関係のない話だ。・・・だがまあ、感謝はしている。貴様のおかげで、こうもすんなりとゲート・オブ・バビロンの管理権が得られたのだからな」

「?」

わけがわからずに、ガルヴァは再び首を傾げた。天使語だろうか。

「ルファさん、約束は・・・」

「わかっている。・・・ガルヴァ・ウォーレス、貴様は明日釈放だ。どこへなりと消えるがいい」

「釈放? こんなにあっさり・・・?」

訊ねようとして気付いた。

マリオンは今「約束」と言った。ガルヴァの身の安全と引き替えに、ルファとマリオンがなにか契約を交わしたらしい事は、いかなガルヴァにも理解できた。

「最後の一日だ。せいぜい有意義に過ごすがいい」

背中を向けて歩き去るルファ。

それを見送ったあと、グレゴリーは鉄格子の隙間から持っていた包みを差し出す。

それはガルヴァの着ていた服だった。ポケットの中身は改められ、脱獄に使えそうな物は取り上げられていた。

「残りの荷物は明日渡します」

「・・・おう」

複雑な表情で受け取り、服を纏うガルヴァ。

「・・・私はあなたに感謝していますが、こういう形で再会するのは、残念です」

何?

ガルヴァが聞き返そうとするより早く、グレゴリーは立ち去った。

「何なんだよ、一体」

「ガルヴァさん、神父様とお知り合いだったんですか?」

「まさか。オレぁ生まれてこの方、教会に関わった事なんざねェよ。法王庁なんて、もってのほかだ」

とは言ったが、グレゴリーのあのセリフ。どう解釈しても二人は知り合いだったとしか思えない。

「んー・・・思い出せねェなあ」

「そうですか」

「っつーか、なんなんだよ、約束って。おめェ、あの女とどんな約束したんだ?」

「あ、それは・・・」

うつむき、毛布に顔を埋めるマリオン。

ガルヴァは畳みかけるように問い詰めた。

「ゲート、なんたらってのは何だ? イニシエーションって? 最後の一日ってどういう意味だよ? まさかおめェ・・・」

「最後の一日っていうのは、ボクとガルヴァさんが一緒にいられる最後の一日、って意味ですよ。・・・なにも命を奪われるような事はされませんから、安心してください」

それを聞いてガルヴァは安心した。

最悪の場合、生贄とか想像していたのだ。

「・・・で、何されるんだよ?」

命を奪われるような事はされない。だがそれは、裏を返せばそれ以下の事ならされるという意味だ。

「・・・大したことじゃありません。天使の力の使用権限と・・・あと記憶の一部を封印してルファさんに渡すだけですから」

「記憶を渡す? ・・・おい、それのどこが大したことじゃねェんだよ」

「一部ですよ、一部。全部が全部忘れてしまうわけじゃありません」

それにしたって、記憶を奪われる事に変わりはない。

そもそも、記憶なんてものは人格を形成する上で欠かせない大切な要素だ。一部とはいえ、それを奪われてしまったら果たしてその後のマリオンはどうなってしまうのか。

ガルヴァは、ウルズエルの感情の欠落した瞳を思い起こし、ゾッとした。

「お、おい冗談じゃねェぞ。オレのためにそんな事、させやしねェからな!」

「いいんです。遅かれ早かれ、ボクはこうなる予定だったんですから。そのために、ボクは作られたんです」

「作られ・・・?」

「はい。・・・えへへ」

悲しい顔でマリオンは笑った。

その表情から、ガルヴァは自分の考えが正しい事を悟る。アイツに、ルファエルにとって、マリオンやウルズエルは単なる「道具」に過ぎないのだ。容赦はすまい。

しかし、だからといって、自分に何かできるわけではなかった。

自分の無力さに歯がみしながら、ガルヴァは訊く。

「・・・ゲート、なんたらってェのは?」

「ゲート・オブ・バビロン。ボクの特殊能力の事です」

「特殊能力?」

「ええ。ボクは、その名の通り、月・・・天国とこの地上を結ぶ『扉』を生成する事ができるそうです」

妙な言い回しにガルヴァが首を傾げた。

「できるそうです、って、自分の事だろ?」

「だって、試した事ありませんから。・・・今のボクの翼では、とても月まで届きませんし」

「じゃァ、ちょっとその辺まで、ってのは? ンな便利能力があるんだったら、こんな牢屋、カンタンに脱獄できるんじゃねェのか?」

「無理ですよ。アクセスポイントがありませんし、第一、ルファさんの承認無しにそんなレベルの高い奇跡が起こせるわけないじゃないですか」

「・・・いや、起こせるわけないじゃないですか、とか言われても」

ガルヴァに天使社会の仕組みなど理解できるわけがない。

ともあれ、あの女の許可がないと使えない特殊能力など、無いに等しい。

「でもま、天国への扉の話は、ホントだったんだな」

「ええ、まあ」

「聖地のヘブンスラダーとは違うのか?」

「あれはただ単に地上と月の中継基地です。ボクのとは根本から違いますよ」

ヘブンスラダー。

聖都バルトエレーナに存在する神聖科学の遺産で、その名の通り月にまで届くハシゴの事だ。

もっとも、その根元は神の手によって断ち切られている。地上まで届いていないそのハシゴに、飛ぶ事を禁忌とされた人類が手をかける事はできない。

「そうなのか。・・・で?」

「え?」

「その扉を開いて、天使共はどうするつもりなんだよ?」

「もちろん、この大地に来るつもりです」

「いやだから。何しに来るんだよ?」

「天使が地上に降臨する理由は一つしかありません。救済です」

「救済? ・・・助けてくれるってェのか? 一体何を?」

「大地です。・・・この、呪われた世界を」

 

牢に沈黙が満ちる。

世界が呪われている、なんて話を聞いたのは初めてだ。

で、天使達はその呪いを解くために色々やっているらしい。

もちろんガルヴァにとってそんな事はどうだっていい。世界が呪われていようと、腐っていようと関係ない。どんな世界であろうと、そこで生きていくだけだ。

確実な事は、このままマリオンを教会に引き渡せば、いずれ多くの天使がこの地上にやってくる。

復讐すべき相手が、向こうからやって来てくれるのだ。オマケに呪いとやらも解いてくれるらしい。ガルヴァにとっては、まさに願ってもない話。

ただ一つ、マリオンの記憶が犠牲になる事を除けば。

「・・・全部忘れちまうワケじゃ、ねェんだよな?」

「ええ。人格が破綻してしまっては元も子もないですからね」

「そっか・・・なら・・・」

「そんな事よりガルヴァさん、もっと色々お話ししましょうよ。せっかく一緒にいられるんですから」

「でも、おめェ・・・」

話をしたところで、きっとその記憶は奪われてしまう。

あのルファエルが、自分に必要のない情報をマリオンに残しておくわけがない。

下手をしたら、ここ数日の記憶をスッパリ忘れさせるかもしれない。

しかし、だからといって。

マリオンに残された最後の一日を、無駄に過ごすわけにはいかなかった。

「・・・いいぜ。何が聞きてェ? 何だって教えてやる、ダテに長く生きちゃいねェんだ」

「はい」

にっこり笑うマリオンの笑顔は、なぜか胸を締め付けるほど悲しかった。

 

 

色々な話をした。

ガルヴァの故郷、雪に覆われたブランニーナでの日々。

陽を照り返す大海原の雄大さ。

朱に染まる砂丘。

遠い国の市場で、見た事もない食べ物が並べられていた事。

神聖科学の暴走で起きた爆心地が、今では死の湖になっている事。

見渡す限り不毛の荒野で魔物と死闘を演じた事。

貴族の屋敷で目玉が飛び出るほど高価な酒を飲んだ事。

ガルヴァが旅して見てきた事全てを語るように、少しでも多くの話をして、一つでもマリオンの記憶の中に残るように。

気が付くと夜は更け、深夜と呼べる時間帯になっていた。

マリオンが話に相づちを打ちながらも、時折眠そうに目をこする。

ムリもない。昨夜はガルヴァの傷を治すために歌い続け、ほとんど寝ていないはず。

「・・・もう寝るか」

「え、あ、いえ、大丈夫・・・もっと、話を・・・」

虚ろな目で説得力のない事を言うマリオン。

「バカ野郎。そんな状態じゃ頭に入らねェだろ。いいから寝ろ。続きは明日だ」

「・・・はい・・・あの・・・」

「ん?」

「・・・えっと・・・」

言いにくそうに、マリオンは俯いた。

何を言いたいのか悟ったガルヴァは、「よっこらしょ」と立ち上がってベッドに腰掛ける。

「・・・ガルヴァさん?」

「もうちょっと詰めろ。このベッド一人用なんだから」

「あ、はい!」

二人して一つの毛布にくるまる。

狭いベッドの中、ほとんど抱き合うようにして二人は眠った。

「・・・ここが牢屋じゃなかったら、絶対手ェ出してたな・・・」

何一つ疑わず自分にしがみついて眠るマリオンの頭を撫でて、ガルヴァはため息をついた。

 

 

翌朝。

運ばれてきた質素な朝食を取りながら、ガルヴァは昨夜の続きを話して聞かせた。

中でもマリオンが気に入ったのはガルヴァの故郷の話だった。

「ボクも一度でいいから雪遊びをしてみたいな」

堅いパンを噛みちぎりながら、マリオン。虎人のガルヴァでさえ噛みちぎるのに苦労する堅さだ。人であるマリオンには堪えるだろう。

「ヨシ、じゃあ行くか」

「え? どこへですか?」

「ブランニーナだよ。雪が見てェんだろ?」

「ええ、でも・・・」

俯くマリオン。

やはり二人はもう二度と会えないのか、たとえ会えたとしても、ガルヴァの事がわからないほどに記憶をいじられるのか。

そこにはあえて触れず、ガルヴァは軽い口調で言った。

「オレが見せてやるよ、雪」

「え、ホントですか?」

「ああ。――約束だ」

「約束・・・?」

「おう。だからおめェも、オレの事忘れんじゃねェぞ」

頷いて指を差し出すガルヴァ。

その太短い小指に、マリオンは恐る恐る自分の小指を絡めた。

「指切りげんまん、ウソついたら針千本飲ーます、っと!」

指が離れる。

そのタイミングに合わせたかのように、扉が開いた。

「ガルヴァ・ウォーレスさん。釈放です」

やって来たのは神父グレゴリー。

「・・・はいよ」

立ち上がって牢を出る。

「ガルヴァさん・・・」

「じゃあな、マリオン」

「はい・・・さようなら」

笑顔で見送るマリオン。

ガルヴァの出ていった扉が、大きな音を立てて閉ざされた。

牢に一人取り残されたマリオンは、感情があふれ出す前に、抱えた膝にその顔を埋めた。

 

 

長い廊下を歩きながら、間が持たなくなったガルヴァが話しかける。

「枢機卿ともあろうお方が、護衛も付けずにオレみてェなならず者と・・・ちょっと無防備なんじゃねェの?」

「護衛とかそういう、堅苦しいのは苦手なのでね」

「って、それ神父のセリフじゃねェな」

「ははは。・・・実は向いてないのかもしれませんね」

寂しく笑うグレゴリーに、ガルヴァは首を傾げる。

枢機卿といえば貴族どころか、王族、元老院にさえ匹敵する権力の持ち主だ。もっとずっと鼻持ちならないイヤなヤツだとタカをくくっていたのだが。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

沈黙。

やがて、グレゴリーがポツリと言った。

「・・・マリオンの儀式は、明日の正午に大聖堂で行われます」

「・・・なんでそんな事をオレに話す?」

「私にはできない事を、あなたならできるからです」

「フン。あんた人を見る目がねェな。オレは悪人だぜ?」

「私はそうは思っていませんよ」

再び会話が途切れ、廊下の石を蹴る音がやけに大きく響く。

グレゴリーの言葉からは、やはりガルヴァの事を知っているように感じられる。しばらく記憶を探っていたガルヴァだったが、じきに音を上げた。

「・・・思い出せねェな。あんた、オレと会った事あんのか?」

「ええ。・・・ムリもありません。私にとってあなたは生涯ただ一人の人ですが、あなたにとって私は大勢の中の一人でしかないでしょうからね」

「?」

「以前・・・もう20年も前になりますか。私が巡回牧師として各地を回っていたときの事です。

ある街で、心に深い傷を負った虎人と出会ったのです」

「・・・それが、オレか?」

「ええ」

「・・・悪ィ。まったく覚えてねェや」

「構いませんよ。私があなたに感謝している事に変わりはありません。・・・あの日、私はあなたを救ったつもりでいましたが、本当に救われたのは私の方だったんです」

「人違いじゃねェのか?」

「いいえ」

そうこうしているうちに、二人は教会の出口までやって来た。

「それでは。あなたに神のご加護がありますように」

「ケッ。生憎、オレぁ神様なんざ信じてねェんだ」

仮にいたとしても、それは間違いなく味方ではない。

「・・・神はあなたの心の中に、たしかにいますよ」

ガルヴァは肩越しに手を振ってその言葉を聞いた。

その歩みがふと止まる。

「・・・アンタ、あん時の・・・」

振り向いたその先に、グレゴリーの姿は無かった。

「チッ、どいつもこいつも・・・」

小指に残った感触を断ち切るように、ガルヴァは再び歩き出した。

「悪ィな、マリオン。オレぁこの期に及んで針千本飲むくれェ、どってことねェんだ」

 

 

 

モドル              →雑談へススム