10 雷音

 

 

ガルヴァがホテルに戻った時、すでに部屋はもぬけの殻だった。

「チッ、遅かったか!」

マリオンのことだ。

誰かが訪ねてきたら確認もせずドアを開け、相手の言葉に何の疑いも抱かず付いていくだろう。

あのクソガキ・・・!

縛っておくべきだったか。いや、せっかく得た信頼を失うわけにはいかない。そのために下手な芝居まで打ったのだ。

部屋を飛び出してフロントに訊ねる。

「オイ! オレの連れのガキ、見なかったか!?」

フロントにいたボーイは犬人だった。

彼はキョトンとすると、

「ええ。あの可愛らしいお嬢さんでしたら、先ほど一人で出掛けられましたよ」

と証言した。

「一人でだと?」

「はい。たしかにお一人でした」

犬人が嘘を吐いているようには見えなかった。そもそもそうする理由がない。

「ありがとよ」

手短に礼を言ってホテルを出る。

ということは、マリオンはまだ敵の手に落ちたわけではない。

「一人でウロウロすんな、つったのに!」

 

 

「それで? ガルヴァがどこに行くか聞いてないの?」

マリオンと並んで歩きながら、ルシアは訊ねた。

「はい、お風呂屋さんに行く、って言ってました」

「お風呂屋さん? なに、この街って温泉があるの!?」

顔を輝かせて、ルシア。

実は彼女は湯治が大好きだった。

「温泉? なんですか、それ?」

「知らないの? まあ、この国にはあんまり無いから、ムリもないかー」

「・・・っていうか、ボクずっと教会で暮らしてましたから。外のこと、ほとんど知らないんです」

「そう。・・・温泉って言うのはね、んーと、まあ、自然が作った天然のお風呂ね。すっごく気持ちいいわよー」

「へえ・・・」

「今の時期もいいけど、やっぱり冬の温泉は格別よー。露天で雪見風呂なんて、そりゃもう天国なんだから」

「露天? 雪見風呂?」

「そうよ。屋外にある温泉でね、雪景色を見ながらゆっくり暖まるの」

「でも、雪って冷たいんですよね? お湯、すぐ冷めちゃうんじゃないですか? それに外で裸になったら、風邪ひいちゃいますよ」

「そうならないのが、温泉のいいところなの。体の芯まで暖まるから、外でも全然寒くないのよ」

「へえー・・・」

「見つけたら一緒に入ろうか?」

「え・・・」

そんなことになれば、男だとバレてしまう。

マリオンは慌てて首を振った。

「照れない、照れない。女の子同士じゃない。・・・っていっても、この国には裸の付き合いって習慣無いからなー」

「あ、いや、その・・・っていうか、女子供は入れないんじゃないですか?」

「は? なによそれ」

マリオンはガルヴァに言われたとおりのことを馬鹿正直に話した。

話を聞いていたルシアの顔が、見る見る沈んでいく。

「・・・えっと。違うんですか?」

「・・・違うわ。・・・それ、ただの風俗よ・・・」

ため息とともに答える。

マリオンは申し訳ない気持ちになって謝った。

「ごめんなさい。・・・でも、風俗ってなんですか?」

今度はルシアが慌てる番だった。

「えっと、それは、その・・・」

言うべきだろうか。

逡巡したが、答えることにした。

面白そうだったから。

「えーとね、風俗っていうのはね・・・」

 

――現在、不適切な表現が記述されております。

――読者の皆様は、健全な音楽でも聴いて少々お待ちください。

 

「・・・っていうお店よ」

身振り手振りを交えた説明を終える頃には、マリオンの顔は真っ赤に染まっていた。

「な、なんですかそれは! お、お、女の人を、なんだと思っているんですか!」

「いや、あたしに言われても。・・・そもそも男ってのはみんなそうよ」

とある二人組を思い出し、

「・・・そうじゃないのも若干いるけどね」

「あたりまえです! そ、そういう愛の営みっていうのは、もっと、えと、もっとですね!」

「いやだから、あたしに言われても」

「見損ないました! ボク、ガルヴァさんのこと、尊敬していたのに! ガルヴァさんには、もっと愛の尊さと大切さを知ってもらう必要があります!」

・・・どうやら今夜、彼には堅いお説教が待っていそうだ。

ごめんね、ガルヴァ。

心の中で手を合わせるルシア。

もちろん悪いことをしたなんてこれっぽっちも思っていない。

むしろその光景を見られないことが残念だった。

「まったくもう!」

マリオンの怒りは収まらない。

ルシアは苦笑しながら歩き出す。

「でもまあ、そういうことならあたしと一緒で良かったわ。ああいういかがわしい界隈に、か弱い女の子が一人で出向くなんて、自殺行為だもの」

「・・・そうなんですか?」

「そうよー。男はみんなオオカミなのよ」

マリオンは首を傾げた。

ガルヴァさんは虎人だけど、ホントは狼人なのだろうか。

「何から何まで、ありがとうござい・・・」

「――ルシア・シャーナードッ!」

「!?」

きんっ、と鋭い音が響き、青白い火花が散った。

見ると、襲いかかってきた黒服の女の刀を、ルシアが同じく刀で受け止めていた。

「――アスカ!?」

「ここで会ったが百年目! 師の仇、覚悟!」

「え、えっ!?」

おろおろするマリオンの目の前で、二人のヤマト女が二度、三度と斬り結ぶ。

周囲の人間が蜘蛛の子を散らすようにして逃げていった。

「ちょっ・・・! なんであんたがここに!?」

「問答無用!」

黒服の女、アスカは二刀流だった。

両手に一本ずつの刀を持って、踊るようにして絶え間なく剣戟を繰り出す。

「姐さん!」

少し遅れて、獅子人が駆けつけた。

金色の鬣を持つ、精悍な大男だった。

「あ、かっこいい人・・・」

「ありがとよ、お嬢ちゃん! ・・・ってそうじゃなくって! 姐さん!」

「うるさいよ! ちょっと黙ってな!」

「アスカ、あんたねえ!」

ルシアが刀を一閃。

攻撃を弾かれたアスカが、吹き飛ばされるようにして下がる。

「くっ」

「いきなり斬りつけるなんて危ないじゃない!」

どの口が言うのか。

「あたしじゃなかったら、反撃で即死よ!?」

それは間違いだ。

実はアスカの殺気を受けたルシアは、ほぼ反射的に相手を殺せるだけの一撃を放っていた。

それをかろうじて受け止めたのは、アスカの方だ。

「よく言うね! お師さんを殺めて逃げた女が!」

「ちょ、ちょっと姐さん!」

「あれは事故よ!」

「事故なもんかい! 恩を仇で返すとは、よく言ったもんさ!」

「姐さん!」

「あの状況なら、仕方ないじゃない!」

「仕方ないで済む問題じゃないだろう!」

「だから、姐さんってば!」

『――うるさいっ!』

二人に同時に怒鳴られて、獅子人ライトリックがその大きな体を縮ませる。ぺた、と耳が寝た。

「なんなんだい、さっきから!」

「・・・いや、その」

「はっきりしなさいよ! でかいのは図体だけ!?」

さらに攻められ、ピンと立っていた尻尾も垂れた。

「えーと・・・こいつ、さらわれた娘・・・ですぜ?」

ぽん、とマリオンの肩に手を置く。

「――え!? ボク!?」

完全に部外者を決め込んでいたマリオンが、いきなり表舞台に立たされて背筋を伸ばした。

「あ! そういえば!」

「え? 何? あんた、マリオンと知り合いなの?」

「ルシア・シャーナード! あんた、師匠殺しだけじゃなく、誘拐にまで手を染めていたのかい!?」

「誘拐!? 誤解よ! あたしはただ・・・」

「問答無用! 同門の恥は、アタシが濯ぐ!」

再び斬り結ぶ二人の女。

マリオンとリックは思わず顔を見合わせた。

「・・・えーと」

「・・・どうしようか?」

「いや、ボクに言われても」

「そりゃそうだ」

しばらく二人の戦いを見守って、リックはひょいとマリオンを担ぎ上げた。

「え?」

「まあ、とりあえずこっちに来てもらおうか」

こう見えてオシャレさんなのか、リックの鬣からは香水のようないい香りがした。ガルヴァとは大違いである。

「そうだ、ガルヴァさん!」

「ああ、安心しろ。アイツは俺達が懲らしめてやったからな」

「――えっ」

リックの言葉は失言だった。

ガルヴァを懲らしめた、つまり、この獅子人は、敵。

そう理解するや否や、マリオンはその逞しい腕から逃れる。

「あっ! こら! 待て!」

そうは見えなかったが、教会の追っ手に違いない。

今捕まれば、セントリリアに連れ戻され、天使としての使命を全うするべく再教育を受けるだろう。

天使の使命に不満があるわけではなかったが、今はまだ、ガルヴァと共に世界を見て回りたかった。

「おい! くそっ! ・・・姐さん!」

「任せる! アタシはこいつと決着を付けたら行くよ!」

「アスカ、あんたねえ・・・! 人が手加減してればいい気になって・・・!」

ルシアはかなり怒り心頭のようだが、どういうワケかアスカを殺す気は無さそうだ。

リックは、仕方なくマリオンを追った。

 

 

人混みを掻き分けて、マリオンが走る。

途中、何度もガルヴァの「一人で出歩くんじゃねェぞ」という言葉を思い出し、自分を呪った。

「あっ」

足がもつれ、盛大に地面を転がるマリオン。

痛みに加え、買ってもらったばかりの服が汚れて涙が浮かんだ。

起きあがろうとする前に、マリオンの体が浮き上がった。

「・・・大丈夫か? おい」

ライトリックだった。

「は、離してください!」

「こ、こら、おとなしくしろっ」

ジタバタ暴れるが、逞しい獅子人の腕からは逃れられなかった。

「ガルヴァさん! ガルヴァさん!」

「おい、これじゃまるで俺が誘拐犯みたいじゃねえか!」

みたいもなにも、マリオンの目にはそうとしか映っていない。

「助けて! 誰か!」

――仕方ないな。

その声は、マリオンの頭の中から聞こえた。

「えっ、誰!?」

「?」

ぴたりと動きを止めて周囲を見渡すマリオンに、ライトリックが怪訝そうな顔をする。

しかし、それも一瞬のこと。

次の瞬間、マリオンの口から、大音量の歌声が迸っていた。

例えるなら、マイクとスピーカーを近づけた時のハウリング。

違う点を言えば、その歌声には天使の奇蹟が乗せられていた。

歌声は波紋となって広がり、物理的な力さえ伴って路地を駆け抜けた。砂利が吹き飛び、窓ガラスにはヒビが走る。

「――っ!?」

たまらず手を離し、ライトリックは耳を塞いだ。

投げ出されたマリオンが、フワリと地面に降り立つ。

その背中には、いつの間にか純白の光の翼が顕現していた。

「――え!? なんで・・・!」

自らの意志と関係なく出現した光の翼を畳むと、マリオンは我に返って駆けだした。

 

 

「――!」

ガルヴァの耳がぴくん、と動く。

これは・・・マリオンの歌!

彼に危険が迫っている!

「クソッ! 無事でいろよ!?」

毒突いて、彼は愕然とした。

・・・このオレが、マリオンのことを心配している・・・!?

マリオンは憎むべき敵の一味。殺しても殺しても飽き足りない、クソ天使の子供だ。

アンナマリーに引き渡した後、彼がどうなろうと知ったことではない。そのハズなのに、なぜ?

「・・・そうだ、アイツは大切な『商品』だ。傷物にされちゃこっちが困る。・・・それだけだ」

自分に言い聞かせるように言い訳して、ガルヴァは平常心を取り戻す。

その時、ズボンの中が熱く火照っていることに気が付いた。

反射的にポケットに手を入れてみると、なにか堅い物が触れた。

取り出してみると、それは以前手に入れた天使の本体。Iユニット、ウルズエル。

「・・・共鳴、しているのか?」

手の平の上で小さく震え、発熱するウルズエル。

ガルヴァはそれに導かれるまま、オルハーナの街を走った。

 

 

「――ガルヴァさん・・・!」

路地裏の物陰でうずくまり、マリオンはガルヴァの名を呼んだ。

頭の中に響く「誰か」の声。

勝手に口を突いて出た天使の歌。

いつの間にか具現化していた光の翼。

自らの意志とは関係なく、Iユニットが起動している。

自分の体に何が起きているのかわからないという不安に、マリオンの胸は押しつぶされそうになった。

「――ガルヴァさん・・・っ!」

すがるように、その名を呼ぶ。

「あいよ」

と、今にでも聞こえてきそうなガルヴァの声。

空耳・・・いや、違う!

マリオンはハッと顔を上げた。

「無事か? マリオン」

逆光で影になってはいるものの、その太いシルエットは、まさしくガルヴァ・ウォーレスその人だった。

「――ガルヴァさんっ!」

思わず抱きつき、虎人の毛皮に顔を埋める。

汗とタバコの匂いが混じり合った、ガルヴァの体臭。いい匂いのハズはないのに、ひどく安心できる匂いだった。

「・・・よしよし」

頭を撫で、少し迷ったような間を置いてから、ガルヴァはマリオンを抱きしめた。

まるで何かを決意したかのように、その逞しい腕にぎゅっと力がこもる。

「ガルヴァさん、ボク・・・。ごめんなさい、ボク・・・」

「いいんだ、おめェが無事なら、それだけでいい」

今まで見たどの表情よりも穏やかに、ガルヴァ。

堅く抱き合う二人の間を裂くかのように、獅子人の雄叫びが突き刺さった。

「ガルヴァ・ウォーレス! 貴様、どうやって!?」

ガルヴァが顔を上げる。

その眼光は、いつもの鋭さを取り戻していた。

「・・・悪ィな。おめェらが相手じゃ、役不足なんだよ」

マリオンを乱暴に突き飛ばし、ハンマーを構える。

それを見て、獅子人ライトリックが顔色を変えた。

「貴様、ブルをどうした!?」

「さァなっ!」

巨大なハンマーが空を切る。

地震すら起こす勢いで、それは大地に打ち据えられた。

「くっ・・・!」

バックステップで距離を取り、間髪入れず駆け込んだリックが拳を繰り出す。

ガルヴァは肘を上げてその拳を払うと、ハンマーを横殴りに払った。

ぶんっ、と空を切る巨大なハンマー。

この威力を前にしたら躱す他に手はない。リックは慌てて離れ、なにやらモゴモゴと呟いた。

「!?」

その拳に光が宿る。

「ライトニング・ペイン!」

拳を突き出すと、そこから光が走る。

放たれた雷はガルヴァを反れて建物の壁に突き刺さった。

ジジッ、と音を立てて壁が焼け焦げる。

「! ――魔法使い(スペルキャスター)だと!?」

「フッ、この俺様が、まさか格闘家(グラップラー)だとでも思ったか!?」

思っていた。

ヒョロヒョロかヨボヨボ、もしくはキャピキャピというのが魔法使いのパブリック・イメージというやつである。ムキムキの魔法使いというものに、ガルヴァはこれまで出会ったことがなかった。

「健全な精神は健全な肉体に宿る! 魔法使いは己の肉体を可能な限り鍛えるのだ! すわ、魔法は筋肉!」

無茶な理屈を振りかざし、呪文を唱えるリック。

相手の武器がロングレンジであるならば、ハンマーのような足の遅い重武器は不利だ。

ガルヴァは舌打ちし、ハンマーを力の限り放り投げた。

リックの放った雷と中空で激突し、周囲に雨のような電撃の矢が降り注ぐ。

その矢をものともせずに、ガルヴァが走る。

「!」

慌てて距離を取ろうとするリック。だがしかし。

「遅ェッ!」

ずん、とガルヴァの拳がリックの腕を打ち据えた。

否、詠唱を遮るためにボディーを狙ったガルヴァの拳を、リックがガードしたのだ。鍛え上げられた筋肉は、伊達ではない模様。

「っ・・・! ディバイン・ゲイル!」

リックは、腕の痛みに顔を歪ませながらも、魔法を発動させる。

刹那、強風が巻き起こり、ガルヴァの毛皮を引き裂いた。

「ガルヴァさん!」

「おめェは下がってろ!」

顔をかばいながら、マリオンを怒鳴りつけるガルヴァ。

この魔法は殺傷能力の少ない低級魔法だ。おそらくは足止め、魔法使いの距離を保つための牽制術だろう。

「チッ」

呪文の詠唱中に攻撃を叩き込む。それが、魔法使いとの戦闘における常套手段だ。

そうとわかっていながら、ガルヴァは追撃ができなかった。

風による足止めのせいではない。近くにあのアスカとかいう女がいるはずだ。マリオンから離れすぎるわけには行かない。

体のあちこちから血を流すガルヴァを見かねて、マリオンが口を開いた。

周囲に流れる天使の歌声。

傷が癒されていくのを感じながら、ガルヴァはリックを睨みつける。

距離を取った彼は、悠々と呪文を詠唱していた。彼の周囲に集まった魔力が、螺旋を描いて昇華しているのが見える。おそらく、次に来る魔法は大出力の砲撃魔法だ。果たして耐え凌ぐことができるか・・・?

その時、木の壁をぶち破って何か黒い塊が転がり出てきた。

それは、黒ずくめの女、アスカ・キサラギ。

「何!?」

「――クッ!」

両手に持った刀を杖代わりにして立ち上がるアスカ。

その目の前に、抜き身の刀を手にしたルシアが現れた。

「アスカ、あんたねえ。いい加減にしないと、殺すわよ・・・!?」

ゾッとするような低い声。

彼女は本気だった。

「――姐さん!?」

詠唱を止めてリックが叫ぶ。

「リック! それに・・・ガルヴァ・ウォーレス!」

「あら、ガルヴァじゃない」

立ち上る殺気を霧散させ、ハァイ、と軽く手を挙げるルシア。

「おめェは・・・」

「ルシアさん!」

「ハァイ、マリオン。ガルヴァには逢えたのね」

「はい! おかげさまで!」

「おめェ・・・何やってんだ、こんなトコで」

「まあ、あたしにも色々あるのよ」

「ちょうどいい。ちょっと手伝え!」

「な、なによ、もう」

ガルヴァはルシアの腰に視線を走らせると、手を差し出した。

そこには、鞘に収められたままの刀、脇差しがあった。

「オイ、それ貸してくれ」

「は? イヤよ。なんでサムライの魂をあんたなんかに・・・」

「いいからよこせ!」

渋々、ルシアは脇差しをガルヴァに渡した。

「貸すだけだからね。折らないでよ?」

「任せろ。武器の扱いにゃ、自信がある」

「・・・刀、使ったことあるの?」

「んなもん、・・・あるわきゃねェだろっ!」

怒鳴りながらガルヴァが地を蹴る。

狙うは当然、魔法使いであるライトリック。

呪文を唱えていない彼なら、一撃入れればそれでおしまいだ。

が、しかし。

リックが印を結ぶと、消えていたはずの魔力が噴き出すように渦を巻いた。

「!」

ディレイ・マジック。

チャージアップした魔法を、トリガーとなるインストラクションのみを残しておいてプールしておき、任意のタイミングで発動させる高等技術だ。

彼は呪文を中断したのではなかった。唱え終わっていたのだ。

「――ファランクス・レイ!」

指を組んだ腕をまっすぐに伸ばすと、そこから魔力で作られた雷が奔流する。

まるで散弾銃のごとく、広範囲に降り注ぐ雷の矢。

「クッ!」

「いけない!」

マリオンが口を開き、歌った。

透き通る歌声が、奇蹟を乗せて伝播する。

春の日差しを浴びたように、薄いヴェールに覆われたかのように、ガルヴァは身体が暖かくなったのを感じた。対魔法防御の歌だ。

「ありがてェッ!」

雷の矢を刀で払い除けながら、ガルヴァは走った。

むろん全てを弾くことができるわけはないし、ダメージを完全に無効化できるわけでもない。それでも、リックを攻撃範囲に捉えることができれば重畳。

脇差しが弧を描き、それはリックの腕を切り裂いた。

「――っ!」

「リック!」

血飛沫をまき散らしながら、リックは下がった。

腕を落とすまでは行かなかったが、かなりの深手だ。

トドメを刺すべく、ガルヴァが刀を振りかざす。

「させないよっ!」

二人の間に入るアスカ。

ガルヴァの刀を二本の刀で受け止め、押し返す。

「チッ!」

「――引くよ! リック!」

形勢の不利を悟ったアスカが転身する。なかなかに判断が速い。

「へっ・・・へいっ!」

「あ、ちょっと待ちなさいよ!」

「――逃がすかよッ!」

後を追うガルヴァ。

リックが振り返り、何かを地面に叩き付けた。

それは指輪だった。

宝石が爆発するかのように弾け、白い炎が大地を舐める。

実はそれはただのこけおどしなのだが、それを知らないガルヴァは足を止めることを余儀なくされる。

「クソッ!」

メラメラと立ちのぼる炎に紛れ、二人は姿を消した。

「あーあ。派手に逃げたわねー」

「・・・しゃあねェ。人が集まる前にオレ達もずらかるぞ」

「あ、はいっ」

「ちょ、ちょっと! あたしの脇差し!」

うやむやの内に二人に付いていくルシア。

 

 

 

 

モドル          →あとがきにススム