1 路地裏の天使
綺麗な、澄んだ歌声。
ガルヴァは耳を疑った。
ここはセントリリアの工場区域。唄など聞こえるはずがない。
――セントリリア。その美しい名前とは裏腹に、錆と埃に覆われた、朽ちた街。
そんな街にはとても似つかわしくない歌声だった。ともすれば工場の機械音に紛れて消えてしまいそうな、繊細なメロディ。それはアスファルトに咲く一輪の花を彷彿とさせた。
ガルヴァは、気が付くとその歌声の元に足を進めていた。
この綺麗な歌声の主に興味を持ったのか、唄に魅せられ、惹き付けられたのか。
ビルとビルの隙間にできた狭い路地の奥。換気扇の汚れが染みついたコンクリートの壁。野良猫に荒らされ、倒れたままのゴミのバケツ。
歌声がだんだんと大きくなる。
裏路地を抜けると、そこはちょっとした広間になっていた。
元は公園だったのか、フェンスに囲まれた広場には鎖の切れたブランコや、とても滑りそうにない滑り台が放置されていた。工場が建ち、環境も日当たりも悪くなったおかげで放棄されたのだろう。
そこに、一人の人間がいた。
正真正銘の人間、すなわち女。それも、まだ年端も行かない少女だった。
歳は10歳とちょっとだろうか。彫刻のように端正な顔立ちには、まだハッキリと幼さが残っている。
髪は、肩まで届く、金糸のようなブロンド。
目を閉じているので、瞳の色はわからない。だが、なんとなく青い瞳だろうな、とガルヴァは思った。
容姿とその歌声は素晴らしいの一言に尽きるのだが、身なりだけはみすぼらしかった。
所々につぎはぎの当てられたズボンに、薄汚れたシャツ。胸のところでクロスした飾りが十字架のように見える。ひょっとしたら、本当に十字架を模して作られたものかもしれないが。
ガルヴァは、背負っていた荷物を下ろして、しばらく歌に聴き入った。
どこかで聴いたことのある歌だと思ったら、それは賛美歌だった。名前などはわからない。たまに教会から聞こえてくる、あの歌だ。
やがて少女の唄は終わり、ガルヴァは半ば無意識に拍手を送った。
ひときわ大きな拍手の音に、少女が驚いてこちらを向く。
大きく見開かれた瞳は、思った通り、サファイアのように澄んだブルーだった。
「・・・あ」
ガルヴァの顔を見て、少女が半身を引いた。
どうやら怖がっているらしい。
ガルヴァの顔は、かなり人相が悪い。大の男でも怖がるほどなのだから、無理もない。
「怖がらせちまったか? 悪ィ、悪ィ」
ガルヴァはニッと笑って警戒を解こうとしたが、直後に逆効果だろうなと気付いて後悔した。
少女はおずおずと頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去ろうとする。
「待ちな」
ガルヴァが引き留めると、少女はビクッと身を縮めて足を止めた。
・・・って、これじゃオレ、悪者みてェだな。
苦笑して、ポケットから取り出したコインを放り投げた。
あれだけの歌を聴かせてもらったのだ。金を払う価値は充分にある。
「え?」
「いいモン聞かせてくれた礼だ。とっときな」
といっても銀貨一枚。甘いものを2、3個買えば底をつくような金額だが。
「・・・あの、ダメです。いただけません」
「あ? なんでだ?」
「ボク・・・ホントは人前で歌ってはいけないんです。・・・お金をもらったら、規則を破ったことが知られてしまいますから」
少年のようなしゃべり方をするな、とガルヴァは思った。
声も中性的で、声変わり前の少年だと言われれば誰もが納得しただろう。
しかし、この星には人間の男という生き物が存在しない。
男は皆、半人半獣。いわゆる獣人なのだ。
もちろんガルヴァも例外ではなく、その姿は獣人。骨格は人間のそれなのだが、鋭い眼光に尖った牙、丸い耳に太い尻尾。そして全身を覆う黄色に黒のしましま模様の毛皮は、虎そのもの。虎人と呼ばれる種族だった。
「人前で歌っちゃいけない? なんでだ?」
「えっとその・・・いろいろ事情がありまして・・・」
「フーン。ま、いいや。とにかく、その金はおめェのモンだ」
「い、いえ、ですから、受け取れませんよ」
なんとも無欲な少女だ。
その格好を見る限り、裕福な生活は送っていないだろうに。
「家のヤツにバレなきゃいいんだろ? っつーか、いちいち報告しなきゃ済む話じゃねェか」
「そう、ですけど・・・」
「オレは金を払いてェんだ。それでいいだろ」
その時、少女が名案を思いついたとばかりに手を打った。
「わかりました。じゃあ、このお金は教会に寄付させていただきます」
「あぁ?」
「そうすれば、おじさんはお金を払うことができるし、ボクはお金を受け取らないで済みます。おまけに神様にも喜んでもらえます。みんなが幸せになれる、素敵な方法ですよね?」
正直言って、幸せになった気など全然しないガルヴァであったが、少女の喜びようを見ていると、そんなことはどうでも良くなってきた。
「やれやれ、無欲な嬢ちゃんだ」
ガルヴァはその場で荷物を広げた。
「ここ、使わせてもらっていいか?」
「? この公園をですか? いいと思いますけど・・・」
「そうか」
ガルヴァは、荷物の中からアウトドアのコンロを取り出して火をつける。
「へえ。今日はここで野宿ですか?」
「まァな。・・・茶でも飲んでくか? ・・・それとも、これも神様に寄付すんのか?」
「いいえ。ありがたくいただきます」
少女は天使の笑顔を見せた。
「おじさんは旅の人ですか?」
コーヒーの入ったマグカップを両手で包み込むように持って、少女が訊ねた。
その視線はガルヴァの大きな荷物に注がれている。
リュックに入りきらなかったのか、物騒なものが飛び出ている。それはマシンガンの銃身だった。
「おう。・・・ところで嬢ちゃん、オレが怖くねェのか?」
左眉の上から頬骨まで、大きな刀傷が通っている。目を通ってはいるが、失明はしていない。
右の頬には二本の傷。
この三本の傷が、ただでさえ怖い虎人の貫禄をいっそう引き立たせる。
幼い少女と気安く話をしていることに、ガルヴァは今更ながら驚いていた。
「え? 怖いって、なぜですか?」
「いや。別に」
この傷だらけの顔を見て何とも思わないとは、意外と肝が据わってるのかもしれん。
「そうですね。顔だけ見ると、ちょっと怖いかもしれません。でも、おじさんはきっといい人だと思います」
「いい人? オレが? ・・・おめェ、人を見る目がねェな」
「本当に悪い人は、そんなこと言いませんよ」
ガルヴァはケッと下品に笑った。
「・・・ガルヴァだ」
「?」
ガルヴァが自己紹介をしたということに気づき、少女もあわてて名乗った。
「あ、ボクはマリオン。マリオン・ゲインズブールです」
ガルヴァが眉をひそめる。その名前には聞き覚えがあった。
「・・・ゲインズブール? 教会のか?」
「はい。神父さまを知っているんですか?」
「まァな。会ったことはねェが」
「すばらしいお方ですよ。・・・旅の人にも名前が知られているなんて、素敵なことです」
――そいつァどうかな。
ガルヴァは心の中で呟いて、ようやく冷めたコーヒーをあおった。
猫舌なのは、猫科の獣人の特徴だ。
「おじさん、いつも野宿してるんですか?」
・・・自己紹介した意味がない。ガルヴァはため息をついた。
たしかに、彼はもうじき40の大台に乗る。11、2歳のマリオンから見れば、立派なおじさんだろう。
その上、最近では脂肪が付いて、逞しかった肉体も、全体的に丸みを帯びたシルエットになりつつある。
・・・やっぱ、おじさんかァ・・・
ガルヴァは、もう一度ため息をついた。
それを勘違いしたのか、マリオンが言う。
「よかったら教会に来ませんか? 宿坊もありますから、野宿よりは断然快適ですよ」
「教会に? オレが? ・・・よしてくれ」
ガルヴァは苦笑してコーヒーカップに口を付けた。
「教会が嫌いなんですか?」
意外そうにマリオン。
「キライだね。オレァ神様ってのを信じてねェからな」
無意識のうちに空を見上げる。
夕日に染められた赤い空。
ビルとビルに切り取られたその狭い空には、巨大な月が顔を覗かせていた。
月の楽園。天国。呼び方は様々あるが、月は神と天使の住む国だと考えられている。
千年前に月から神と天使がやってきて、この星に文明を伝えた。それまで石を削って魔物と戦っていた人間は、神の文化、神聖科学を得ることで万物の霊長とまでなった。
しかし、ここで終わらないのが人間のいいところ。奢った人類は例のごとく戦争を起こし、神に見放された。神と天使は月へと帰り、人間は神聖科学の恩恵を失ったのだ。それ以来、この世界の文明は停滞し続けている。
「・・・でもまあ、天国にゃ行ってみてェ気はするがな」
「天国に、ですか」
「ああ。オレァもう、この地上はほとんど旅して回ったんだ。あと行ってみてェのは、あそこぐれェのモンだ」
月を見上げながら言う。
「この世界のほとんどを・・・」
マリオンが呟いた。
「じゃあ、砂漠も?」
「ん? ああ、もう数え切れねェぐれェ行ったなァ」
「そんなに? いいなあ・・・。ボク、一度でいいから砂漠の夕陽を見てみたいんです」
「おう、ありゃァいいぞー。砂漠に沈む夕陽ってのァ、そりゃ綺麗でな。太陽が傾くたんびに砂丘の影もこう、変化していってな、ホントに時間の経つのも忘れちまうんだ」
「へぇー」
マリオンが顔を輝かせる。少女はどうやら旅に憧れているようだ。
「夜は寒いってホントですか?」
「おう。寒ィぞ。バケツの水が凍るからな」
もちろんそれは大袈裟だ。しかし、マリオンは鵜呑みにした。
「そうだ、海は? 海にも行ったことあります?」
「海だァ? んなもん、ちょっと南に歩けばすぐじゃねェか。なんだ、おめェ海見たことねェのか?」
ガルヴァが聞き返すと、マリオンは表情を曇らせた。
「・・・はい。ボク、街から出たことないんです」
「ふうん。海も見たことねェのか・・・。ありゃァあれでいいぞー。波ってのがあってな、その音を聞いてるだけで気持ちが安らぐんだ」
「やだなあ。いくらボクでも、波ぐらい知ってますよ」
「バカ野郎、知ってるのと経験してるのとじゃ大違いなんだよ。波に揺られたことねェだろ? おかしなモンでなあ、一度波に揺られると、しばらく体が揺れてやがんだ。夜ベッドに入って目ェつぶると、まるでまだ波に揺られてるみてェな気になってな、変な気になるんだ」
「へえ・・・」
マリオンが尊敬のまなざしでガルヴァを見た。
そんな視線に慣れていないガルヴァは、照れ隠しにコーヒーカップをあおる。
「雪は?」
「雪?」
「ボク、雪も見たことないんです」
「雪もしらねェのか。この街にだって降るだろ?」
「いえ、滅多に降りませんよ。数年に一回くらいは降るらしいですけど、ボクはまだ見たことありません。積もらないから、朝起きると、もう溶けてなくなってるんです」
「そうか。オレァ、ブランニーナの生まれだから、雪なんかに特別感慨深いモンはねェな。あんなモン、ただ冷たくて頭に来るだけだ。次の日は絶対雪かきさせられっしな」
「そうなんですか?」
「そうだよ。あそこで雪が降ったからって喜んで見ろ。ぶん殴られっぞ」
マリオンは苦笑し、ふと遠い目をして言った。
「なにがだよ」
「だって、いろんなところに自由に行けるじゃないですか。・・・ボクも一度旅をしてみたいなぁ」
この世界にはガルヴァのように旅をしながら生活している人間は大勢いる。
しかし、そのほとんどがすねに傷を持つならず者で、街の人間から疎んじられることはあっても、あこがれを抱かれるような存在ではなかった。
ガルヴァは「変わった嬢ちゃんだ」と笑った。
「旅ぐらい、すりゃいいじゃねェか。なんならよ、賞金稼ぎになったっていい。あんがい食っていけるぜ?」
「そんな、無理ですよ。ボク、力ありませんし、それに、人を傷つけるなんて・・・」
「賞金首を捕まえるだけが賞金稼ぎじゃねェ。他にもイロイロ仕事はあるだろ」
「ボク、行動力もないですから。自分で仕事を探して働くなんて、出来そうにありません」
「ギルドの仲介を受けりゃいい。っつーか、ほとんどの冒険者はそうやってるぞ」
「ギルド?」
「知らねェのか。賞金稼ぎギルドっつって、オレ達みてェなヤツに仕事回してくれる役所があるんだよ」
「へえー」
「それに、荒っぽいことだけが仕事じゃねェ。おめェの歌声なら、充分に商売になるんだがな」
「ありがとうございます」
マリオンは笑った。
こういうのを天使のほほえみって言うんだろうな。ガルヴァはふと思った。
「そりゃ、できるものなら、旅に出たいです。でも・・・」
マリオンは表情を曇らせた。何か、旅が出来ない理由があるようだ。
「でも?」
「あ、いえ、その・・・ほ、ほら、外って魔物がいるじゃないですか」
なにか言いかけたマリオンは、あわてた様子で取り繕った。
確かに魔物はいるが、それだけが理由ではなさそうだ。
ガルヴァはそれ以上の追求を避けた。
「・・・なァ、もう一曲歌ってくれねェか?」
「え? ・・・でも、ボク・・・」
「人前で歌っちゃダメなんだろ? さっき聞いたよ」
「ええ、ですから、その、ごめんなさい」
「なに言ってんだ。オレァもう、おめェの歌を聴いちまってるんだ。一回やるのも、二回やるのも同じじゃねェか」
「そ、そうなのかな・・・」
「実はオレもな、一つ楽器が出来るんだ」
ガルヴァは荷物の中から古びたハーモニカを取り出した。
所々に錆の浮いた、口を付けるのさえためらうような薄汚れたハーモニカだったが、彼は気にもせずに吹き鳴らしてみせた。
お世辞にも綺麗とは言い難い音色が響く。
「へえ。意外と上手じゃないですか」
「意外は余計だ。これでもガキの頃はみんな褒めてくれたんだ。お世辞だろうがな。・・・さっきの歌。賛美歌ってのが気に入らねェが、あれならだいたいわかる」
ガルヴァはそう言って吹き始めた。
楽器の性質上、些細なミスは気にならない。
マリオンはしばらく逡巡していたが、やがてそのメロディに歌を乗せた。
ハーモニカの演奏技法など全く無視した男らしい旋律に、格調高く、気品ある歌声が重なる。全然バランスは取れていないように思えたが、不思議とまとまりのあるメロディになった。
月夜の公園に、危なっかしい音色が響いた。
「・・・へへへ。あんがいイケるな」
演奏が終わった後、ガルヴァは恥ずかしそうに笑って頭をかいた。
「ええ。こんなに楽しく歌ったのは初めてです」
「そっか。よかったな」
「はい。・・・本当はボク、人前で歌ってみたかったのかもしれません」
「それがいい。おめェの歌はすげェんだ。もっとバンバン歌えばいい」
「ふふふ、でも禁止されてますから」
「もったいねェな。・・・まあいいや。今夜のこたァ、二人だけの秘密な」
「はい!」
嬉しそうに、マリオンは笑った。
彼女の性格だ。きっと、規則を破った事など数えるほどしかないのだろう。
それ故に、「二人だけの秘密」などという言葉は甘美に響いて、特別嬉しかったに違いない。
「しっかし、おめェはホントにいい声してるな。まさしく天使の歌声ってヤツだな」
「え。あ、ありがとうございます・・・」
ガルヴァの最大の賛辞に、マリオンはなぜか戸惑った様子だった。
「そう言やァ、おめェは教会の子供だったな」
「はい。養子ですけど」
「そうか・・・」
ガルヴァは言いにくそうにしていたが、やがて意を決して訊ねた。
「・・・なァ。おめェは聞いた事ねェか?」
「なにをです?」
「・・・この街に、ホンモノの天使がいるってェ噂を」
風が吹いた。
朽ちた公園に伸びた二人の影が、大きく動く。
「天使・・・ですか」
最初に口を開いたのはマリオンだった。
声がわずかに震えていた。
「ああ。教会の人間から、そんなようなこと聞いてねェか?」
マリオンの態度に違和感を覚えつつ、訊ねる。
「・・・ごめんなさい。ボクにはわかりません」
「・・・そうか」
「おじさん、神様を信じてないんじゃなかったんですか?」
「信じてねェよ。でも、それに近いものが実在するってこたァわかる。現に神聖科学はそこにあるんだからな」
人間には仕組みどころか、その理論さえも理解できない超科学。
神が残したその技術を、人は神聖科学と呼んだ。
「聞いた話じゃ、その天使が天国への扉を開いてくれるんだとよ」
「・・・天国へ行きたいから、天使を探してるんですか?」
「いや。・・・さァな。どうなんだろうな」
「・・・その話、誰に聞いたんですか?」
「あ? いや、ちょっとした知り合いだよ」
「そうですか・・・」
そのとき、どこからか鐘の音が聞こえてきた。
街の中央にある教会の鐘の音だ。
「あ! いけない。もうこんな時間だ」
「門限か」
すでに日は暮れ、辺りには夜の帳が降りている。子供がうろうろしているような時間ではない。
「ホントは門限、とっくに過ぎてるんですけど、つい楽しくて」
「そうか。なら怒られない内に帰りな」
「はい」
「ああ、あとな」
立ち上がるマリオンを引き留める。
「・・・天使の話をして笑わなかったのは、おめェが初めてだ」
「・・・ごめんなさい、僕もう行かなきゃ」
答える代わりに、微妙な反応を残してマリオンは歩き出す。
「おじさん、しばらくこの街にいるんですか?」
後ろを向いたまま、マリオン。
「ああ。しばらくはいるな」
「そうですか・・・」
「じゃあな。また明日な」
「え? あ、はい。お休みなさい、おじさん。・・・また明日」
マリオンは最後に振り向いてにっこり笑うと、路地裏の闇に消えていった。