中間管理職の憂鬱

 

 

「この・・・馬鹿者がーっ!」

私の怒声に、オフィスがシンと静まりかえる。

デスクを挟んだ目の前には、薄いグレーの犬人が身を縮こまらせて恐縮していた。

いつもは元気良く振られている尻尾を垂れ下がらせ、両の耳を完全に寝せてションボリとうつむいているが、そんなことくらいでは私の気はとても収まらなかった。

「今すぐ先方にお詫びの電話を入れろ! 謝罪に行くぞ! 外出の支度をしろ!」

「は、はい・・・! あの、部長も来られるんですか・・・?」

「当たり前だ! お前一人で取れる責任じゃないだろう!」

部下の尻ぬぐいも上司の役目。

まったく、損な役回りである。

「でも、その・・・」

「デモもストライキもない! さっさとせんか!」

「はい・・・!」

泣きそうな顔で、犬人はデスクに戻って受話器を取った。

私はイラつく気持ちをぐっと堪え、煙草に火を付ける。

・・・泣きたいのは私の方だ。

 

 

私の名前は弓塚孝太郎。

当年取って37歳、働き盛りのサラリーマンだ。株式会社ボヤージで営業販売部長を務めている。肩書きだけ聞けばご立派だが、実体は中小企業のしがない中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは突き上げられる、ストレスと戦う悲しい企業戦士である。

そんな私の種族は虎人。それも、白虎の虎人。

冒頭でいきなり怒鳴ってしまったが、普段は温厚を地で行く物腰柔らかな性格。そうでなければ、こんな仕事はやっていられない。・・・本当である。そりゃ、たまには怒ることもあるが、堪忍袋の緒は切れるためにあるのだから、致し方ない。

30を過ぎた辺りで急激に肉が付き始め、これはマズイと思って摂生に努めるも、時既に遅し。結果、現在の体重は3桁手前。土俵際の攻防を繰り広げている。・・・洒落になっていない。

おかげで、なりたくもない独身貴族だ。爵位はいつもらえるのかと役所に問い合わせてみようか。

・・・冗談である。そんな不名誉な爵位は欲しくない。

周囲にもそんな私の心の叫びが届いているのか、ここのところよく見合い話を持ちかけられる。今年に入ってからでも既に2件の見合いをしたが、結果はごらんの通り。

・・・別にフラれたわけではない。1件は気乗りしなかったため、こちらから断ったのだ。もう1件に関してはノーコメントとさせていただく。

現在の所、4戦して2件断った。2勝2敗のイーブンというわけだ。

・・・まあ、世間様から見たら4戦全敗という見方も出来なくはないが、結婚は人生の墓場。しない方が幸せというものだ。

・・・・・・。

ハァ・・・嫁さん、欲しいなぁ。

 

 

そして、そんな私のストレスに拍車をかけているのが、冒頭で怒鳴った彼だ。

遠野修一。21歳。

さっきも言ったが、薄いグレーの犬人で、明朗快活な好青年だ。

・・・のだが、仕事はお世辞にも出来るとは言えない。今日もとんでもないポカをやらかして私の胃に大きなダメージを与えてくれた。・・・もしかしたら私の健康を心配して肥満を防ごうとしてくれているのかも知れないが、逆効果だ。ストレス太りという単語を勉強した方がいい。それともまさか、私の体重を3桁に押し上げようとする秘密結社からの刺客だろうか。そちらの可能性の方が高そうである。

とまあ、愚痴はこぼすが、本人はいいやつである。

私のことも慕ってくれているし、人当たりもいい。仕事のミスさえなければ、本当に好青年なのだ。

真摯に謝罪する彼の態度は先方にも伝わったのか、契約もなんとかまとまった。

被害は私と彼のサービス残業だけにとどまってくれて、私は突き出た胸をなで下ろしていた。

 

 

そして、舞台はオフィスに戻る。

時計の針は8時前。とりあえず今日の仕事はこのくらいでいいだろう。

私は背を反らせて大きく伸びをした。椅子が悲鳴を上げたが、大丈夫。私はそんなに重くない。軟弱な椅子である。

「あの・・・部長」

「ん?」

私は煙草に火を付けながら声のした方を見る。

そこには、相変わらずションボリとした犬人、遠野君がいた。

「今日は、本当にすみませんでした。・・・どんな処罰も覚悟の上です」

「処罰、ね。とりあえず君を解雇しても会社には一文の得にもならない。そんな無駄な覚悟を決めるより、失敗を取り返すための努力をしてください」

遠野君は申し訳なさそうに「はい」と答え、キーボードを叩き始めた。

・・・ふむ。ちょっと凹ませ過ぎたかもしれない。

「罰を与えてもらった方が気が楽かね?」

「えっ、いえ、そんなことは・・・」

「いいだろう。ではその書類をまとめたら私に付き合ってもらおう」

「え?」

「今夜は付き合いたまえ。これは罰である」

私は猪口をくいっ、と傾けるようにジェスチャーする。

「あ・・・はいっ」

遠野君は元気を取り戻し、弾む指でキーを叩く。

彼が呑兵衛だということは当然知っている。

先日、会社の近所のビル、その屋上にビアガーデンが開店したばかりだ。

ちょうどいい機会だから、そこへ行くことにしよう。

部下のメンタルケアも上司の仕事の内だ。まったく、私ほど優秀な中間管理職もそうそうはいないだろうに。

私は紫煙を燻らせながら、自画自賛した。

 

 

そして件のビアガーデン。

席はほぼ満席だったが、私たちは運良く空席にありつけた。

なんでも開店記念とかで1杯目が半額だとか。

とりあえず生中二つとつまみを頼み、運ばれてきたジョッキを煽る。

「・・・ぷはーっ!」

「やっぱ美味いっすね! 生は!」

同感だ。

この味には缶や瓶、ましてや発泡酒などではとても太刀打ちできない。

私は上機嫌でネクタイとズボンのベルトを緩めた。

「生中、もう一本!」

早くも一本空けた遠野君が追加注文をする。

うーむ。こりゃ確実に割り勘負けするな。

つまみのじゃがバターをつつきながら、私は唸った。まあ、別に構わないのだが、やはり面白くはない。

私は年甲斐もなく負けん気を起こし、ジョッキに残ったビールを飲み干した。

「私も一本!」

「部長、大丈夫ですか?」

「なんのこれしき! まだまだ若いモンには負けんぞ」

「いや、若いも何も、部長まだ37歳じゃないですか」

「うむ。だから大丈夫だ」

「・・・まあ、いいですけど・・・潰れないでくださいよ。部長、重いんだから・・・」

失敬な。私はまだ3桁行ってない。

バターをたっぷり乗せたジャガイモを口に放り込み、新しく手羽先とコーンバターを注文する。

「・・・部長、また太りますよ?」

・・・またとは失敬な。

「私はデブではない。ぽっちゃりしているだけだ」

「・・・・・・」

遠野君はなぜか微妙な表情を浮かべた。・・・いかんな、話題を変えよう。

「・・・そういえば遠野君、君は先月のアレには来なかったな」

「ちょ、部長。こんなところで何言い出すんですか」

「こんな所だから言えるんじゃないか」

アレというのは、ホラ、アレだ。

「先月は金無かったんすよ」

「そうか。いい娘いたぞ、もったいない」

「また今度ご一緒しますよ」

うむ。若いんだから、もっと積極的にならんといかん。

私は先輩風を吹かし、横柄な物言いで言った。

「君、付き合っている娘はいるのかね?」

いないはずである。

それを知りつつ聞くとは、私も意地が悪い。

「恋人っすか・・・今はいないですねー」

帰ってきた返事は予想通り。・・・だが、予想外の単語も混じっていた。

・・・今は? ということは、昔はいたのだろうか。

私でさえ彼女いない歴37年だというのに、生意気な。

・・・おっと!

勘違いしてもらっては困る。

私は決して童貞ではない。

たしかに彼女としたことはないが、今のご時世、金さえあれば大抵のことはできてしまうのだ。

一瞬、「素人童貞」という単語が頭をよぎったが、私は慌ててうち消す。そりゃ本番はさせてもらえないが、非童貞であることに変わりはないのだ。何も卑下することなど無い。

「そうか。若い内に相手を捕まえておかないと、私みたいに婚期を逃してしまうぞ」

若干自嘲めいて言う。

「いやいや、部長だってまだまだ若いっすよ」

「うむ。それはそうだが、この年になると嫁探しも楽じゃないからな」

「この間の見合いはどうしてダメだったんですか?」

・・・痛いところを突かれた。

藪をつついて蛇が出てしまったか。

「まあ、悪くはなかったんだがね。ちょっと趣味が合わなかったようなので、丁重にお断りしたよ」

「そっすか。・・・その前は?」

「・・・同じだ」

まあ、どちらにしろ断るつもりだったから、嘘は吐いていない・・・な。うん。

「なかなか趣味の合う相手って見つかりませんよねー。無理に付き合っても疲れるだけで、結局ダメになっちゃうんですよねえ」

「・・・まあな」

そうなのか。

不意に含蓄のある言葉を聞かされ、私は面食らった。

「遠野君は、その、今までにどれくらいの子と付き合ったのかね?」

「えー? 嫌だなあ、そんなの普通数えてませんよー」

・・・そうなのか。

なんだか、「お前は今までに食べたパンの耳の枚数を覚えているのか?」と言われたようで、私は少なからぬショックを受けた。

・・・パンの耳・・・?

まあいい。

私だってお店に行けば毎回違う娘を選ぶ。相手の数で言えば、きっと私の方が上に違いない。

「そういう部長は、どうなんですか?」

「・・・む。な、何がかね?」

「いやー、彼女とか。・・・いないんですよね、見合いするくらいだから」

「そ、そうだな、『今は』いないな」

見栄を張ったわけではない。

近い将来、私にもステキな彼女ができる予定なのだから、間違ったことは言っていない。

「お互い寂しいっすねえ。・・・今度の合コン、上手くいくといいけど」

合コン!?

「合コンがあるのかね?」

「え? ええ、まあ。・・・よかったら部長も来ますか?」

「是非!」胸元まで出かかった言葉を断腸の思いで飲み下す。

「・・・い、いや、私みたいなオジサンが行ってしまったら盛り上がらないだろう。若い者同士で行くがいい」

涙を飲んで私は言った。

そしてジョッキを煽る。

「ぷはあ!」

「・・・大丈夫っすか? 部長」

「かまわん! 今夜は飲むぞ!」

私は自棄になってガンガン注文を重ねた。

 

 

 

・・・気が付くと、私は見知らぬ部屋にいた。

「・・・あー・・・あ?」

ベッドの上に体を起こし、朦朧とする意識を手繰る。

・・・たしか・・・ビアガーデンで酔い潰れて・・・

時計を見ると12時を回っていた。こりゃ、終電は無理だな。

部屋を見渡す。

ごく普通のマンションだ。壁には私の上着とネクタイが掛けられている。

私はいつの間にかワイシャツのボタンを三つほど外し、ベルトもほどいてズボンのボタンまで外していた。降りたチャックから、ヘソに繋がる毛とブリーフの裾が覗いていた。

「あ、起きましたか? 部長」

「ん? ・・・遠野君か」

そういえば、遠野君に肩を借りて歩いた気がする。

・・・どうやら私は、ずいぶん情けない姿を晒してしまったようだ。

「すまなかったね。ちょっとメートルを上げすぎてしまったな・・・」

「?」

なぜか不思議そうな顔をして、彼は私に何かを差し出した。

それは灰皿だった。

私は気付かない内に煙草を探して胸ポケットを探っていたようだ。

「ありがとう」

壁に掛けられた上着のポケットから煙草を取り出し、くわえる。火を付ける直前になって私は気付いた。遠野君は煙草を吸わない人だ。犬人には嫌煙家が多い。

「・・・いいのかね?」

「はい。俺は吸いませんけど、友人が来た時とかはみんなパカパカ吸いますからね」

「そうか」

私は安心して火を付ける。

あー、美味い。

私が至高の一服を味わっていると、どこからか電子音が聞こえてきた。

「あ、風呂沸きました。入っていってください」

「いや、結構。すぐ帰るから」

「でも、もう電車ないっすよ?」

「かまわんよ。タクシー呼ぶから。遠野君、私に構わず入ってきなさい」

「そうっすか? じゃあお言葉に甘えて。・・・部長重いから、すげえ汗かいちゃいましたよ」

・・・失敬な。私はそんなに重くない。だがまあ、ここは素直に謝っておこう。

「・・・すまなかったね」

「いえいえ。あ、電話はそこに」

「ありがとう。携帯あるからいいよ」

「それもそっすね」

そう言い残し、遠野君はバスルームに消えた。

私は携帯を開き、馴染みのタクシー会社の番号を呼び出したところで気が付いた。・・・ここの住所がわからなければ、呼びつけられないではないか。

「・・・仕方ない。遠野君が出てくるまで待つか」

二本目の煙草に火を付け、もう一度部屋を見渡す。

やはりごく普通の若者の部屋だ。

AVラックにミニコンポ。テレビにパソコン。テレビの横に大きな空気清浄機があって不思議だったが、よく見たらテレビゲームのようだ。ピコピコ動かすヤツが繋がっていないところを見ると、遠野君はそれほど頻繁にゲームで遊ぶ人ではないようだ。

机の上には雑誌が何冊か置かれていて、床にも数冊散乱している。

「・・・まったく・・・だらしのない・・・」

私は机に戻そうと、そのうちの一冊を拾い上げて、違和感を覚えた。

小さいくせに妙に分厚いそれには、やけに露出度の高い男性が描かれている。

何とは無しに開いてみて、私は目を疑った。

巻頭のグラビアに、男性が二人写っている。一人は良く肥えた虎人。もう一人も良く肥えた猪人だ。そして二人とも、褌姿だった。

いや、それだけならまだいいが、その二人は明らかに抱き合って、そして、なんとキスをしているではないか。男同士であるにも関わらず、だ。それに、よく見ると褌も膨らんでいる。

「これは・・・ま、まさか・・・」

信じられない気持ちでページをめくる。

私は再び目を疑った。

二人は最後の良心であった褌を早くも脱ぎ去り、生まれたままの姿で組み合っていた。寝ころんだ虎人の上に猪人が跨り、チン・・・いや、男性器をくわえさせている。黒く塗りつぶされているが、間違いない。そして、恍惚の表情で男性器に舌を這わせているその虎人の性器もまた、大きく天を突いていた。

私はクラクラした。手が震え、ページをめくる指がおぼつかない。

ゴクリと唾を飲み込み、なんとか次のページへ。

そして私は、信じられない光景を目撃する。あまりの光景に、一瞬理解が追いつかないほどだった。

雑誌の中では、うつ伏せになった虎人に猪人がのしかかっているではないか。背後からの撮影な上、二人とも大きく股を広げているので、猪人の肛門が丸見えになってしまっている。が、一方の虎人の肛門は猪人の金玉に隠されて見えない。・・・いや! 違う!

虎人は、猪人に犯されているのだ! つ、つまり、虎人の肛門を・・・し、猪人の男性器が、貫いている・・・!

生々しい程よく撮れている写真から、二人の荒い息づかいまで聞こえてくる。汗を飛び散らせながら、何度も腰を打ち付ける猪人。嬌声を上げる虎人に気をよくし、猪人はさらに激しく腰を振る・・・。垂れ下がる四つの金玉が、ブラブラと揺れる様子まで鮮明に目に浮かんでしまう。

自分の妄想に吐き気すら覚えつつ、私はよせばいいのに懲りずにページをめくってしまった。

そのページは、もう大概のことでは驚かないと決めていた私の心に、さらに大きな衝撃を与えてくれた。

目尻に涙さえ浮かべて、恍惚の表情の虎。その顔面には、白い液体が飛び散っている。牛乳とか、もしかしたら生クリーム・・・いや、駄目だ。そんなごまかしが効かないほど、それは紛れもなく・・・精液だ。

私と同じ虎人は、猪人に犯された上に、顔射までされたのだ。

その証拠に、舌を伸ばす虎人の視線の先には、怒張した猪人の男性器が。そしてそれには、虎人の顔面にまぶせられたのと同じ体液が伝っている。

ハァ、ハァと荒い息づかいが聞こえ、私はハッとして雑誌を閉じた。

愕然とする。それは私の吐息だった。

息苦しくなり、ネクタイを緩めるが、ネクタイなどしていない。それどころかシャツのボタンも外しているというのに。

「・・・っ!?」

私は今になって自分の置かれた状況を理解する。

この雑誌の持ち主は、間違いなく遠野君だ。彼は・・・ホモだったのだ! 

そして、私は今、その遠野君のベッドの上で、無防備この上なく、だらしない格好を晒している。

このボタンを外したのも遠野君だ。ベルトを解いたのも、ズボンのボタンを外したのも!

恐ろしくなり、私は大慌てでズボンのチャックを上げた。いつもより穴一つきつめにベルトを締め、シャツのボタンも全て留める。指が震えて上手くいかない。まるでパンチドランカーになってしまったかのように。

彼が戻ってくる前にここから逃げ出さなければ!

さもなければ、私は・・・私は、グラビアの虎人と同じ運命を辿ってしまう!

冗談ではない。初めての相手が男だなんて・・・いや、初めてだろうが二度目だろうが、男に操を奪われるなんてのは絶対に御免だ。

雑誌に目を落とす。嬉しそうにしていた虎人の顔が浮かび、私はもう一度だけ、と心に決めてページを開いた。

体型といい、年齢といい、どことなく私に似ている。違うのは毛皮の色と虎縞模様くらいか。そして、相手の猪人はよくよく見れば社長にそっくりだ。

ガチャッ、と扉の開く音がして、私は悲鳴を上げた。

遠野君が、風呂から出てきてしまった。

私は神速の域で雑誌を閉じ、机の上に置く。

「ふー・・・」

遠野君が頭を拭きながらやってきた。

・・・裸だった。腰に一枚タオルを巻いただけの、裸だ。

「なっ、な、なんて格好を・・・!」

「え? 部長?」

私は立ち上がって後ずさり、上着を取った。

「部長?」

「あ、う、アレだ。その、帰る!」

「・・・え? タクシー呼んだんすか?」

「ああ、うん。も、もう来てるだろう」

「ここの住所、わかったんすか?」

な、なんでそんなに食い下がるんだよ・・・

私は恐怖で泣きそうになりながら、何度も頷いた。

「と、というわけだから、スマンね、じゃ!」

私はなんとか彼の横をすり抜け、玄関へ。

慌てて靴を履き、玄関の扉を開ける。逃げるように外へ飛び出て、扉を・・・閉められなかった。

遠野君が、内側からドアを支えている。

ドアの隙間から、私を見上げる遠野君の目は、底冷えするほど恐ろしかった。

「部長・・・もしかして、何か見ましたか?」

「!!」

身体が凍りつき、歯の根が合わない。ガチガチと鳴ってしまいそうで、歯を食いしばる。

だ、誰にも言わない! だから、許してくれ!

そう叫びそうになるのを必死に堪え、私は極めて冷静を装って答えた。

「い、いや・・・私は、何も・・・な、何も読んでいない!」

「・・・へぇ。そうですか」

遠野君は信じてくれたようだった。

なぜ、私がこんな目に・・・

あまりといえばあまりに理不尽な仕打ちだ。悔しさで目が滲む。

「じゃ、じゃあ、私はこ、これで」

「はい。・・・あ、部長」

「!?」

「おやすみなさい。また明日」

「!!」

答えられず、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている私をよそに、バタン、と扉が閉じられる。

同時に私は走り出していた。

ドタドタと腹を揺らしながら、なんとかエレベーターホールにたどり着き、ボタンを連打する。早く、早く来てくれ・・・!

気が付くと涙が流れていた。

やっと来たエレベーターに飛び乗り、閉まるのボタンを連打する。

エレベーターの扉が閉まると同時に、私は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

一階に着いてドアが開いても、私はしばらく立ち上がることが出来なかった。

 

 

 

翌日から、私の態度は一変してしまった。

遠野君に声を掛けられるたびに身がすくむ。

それに気付いているのか、いないのか、彼の態度もどこかよそよそしい。

・・・彼は、本当にホモなのだろうか。

あの雑誌が本物ならば、まず間違いなくそうだろう。そして、あのグラビアから察するに、やはり私を性欲の対象として捉えている・・・。

自分の考えに嫌気が差す。遠野君は相変わらず好青年だ。あの日だって、よくよく考えれば私に対して何もしなかったというのに。

もしかしたら、あの雑誌は友人が悪戯で置いていったもので、私が卑猥な誤解をしてしまっただけではなかろうか。

なんとか確認したいところだが、その手段は既に失われてしまっている。こんな事なら、あの時素直に雑誌を見たと言えば良かった。後の祭りであるが。

「弓塚部長?」

「んっ、な、何かね?」

部下の乾君に声を掛けられ、私は我に返る。

「えと・・・言いにくいですが、ここの数字、一桁違ってますよ」

「・・・あ!」

危ない危ない。

余所事にうつつを抜かしてポカをやらかすなんて、遠野君みたいじゃないか。

「すまん! すぐ訂正する! 教えてくれてありがとう」

・・・遠野君みたい、か・・・

チラリと遠野君のデスクを窺う。

彼は今、外に出ている。

「・・・・・・」

私はくしゃくしゃと頭を掻いて立ち上がった。

「ちょっと出てくる」

「はい。いってらっしゃい」

 

 

特に当てがあったわけではない。

私はビルを出て、街を歩いた。

ふと書店の看板が目にとまり、私は吸い寄せられるようにそこへ足を運んだ。

「・・・・・・」

ザッと本棚を見渡す。

別に欲しい本があったわけではないのだが・・・

・・・いや、正直に言おう。

私は、遠野君の部屋で見た、あの雑誌を探していた。

別に欲しかったわけではないが、いや、むしろ全然欲しくはないのだが、なんとなくだ。

「・・・・・・」

・・・見あたらない。

そりゃそうか。あんな本、一般の書店に置いてあるわけがないのだ。仮に置いてあったとしても、私は雑誌のタイトルすら覚えていない。見つけられるわけが・・・

ない、ハズだったのだが。

なんというご都合主義か、私の目には、小さいくせに妙に分厚い雑誌が映っていた。

「・・・これ、だったような・・・」

震える手で、雑誌を取ってみる。

ページを開いてみようとしたが、しっかりビニールで閉じられていて立ち読みできない。しかし、雑誌の表紙には良く肥えた男、ちなみに熊人だった、が描かれているし、雑誌の醸し出す雰囲気があの時ととてもよく似ていた。うん、間違いない。コレだ。

私は意を決して、その本を小脇に抱えた。

が、そこで気付く。

・・・これをレジに持っていくと言うことは、レジの人間に「私はホモです」と大声で告げると同義だ。

そんなことはとても出来ない。かといって、いまさら本棚に返すのもなぜかためらわれる。

私は雑誌を手にしたまま、書店をうろついた。

後々考えたら恥ずかしくて顔から火の出る行為だが、このときの私にはそこまで思考を巡らす余裕がなかったのだ。

・・・どうしよう。

なんとか、この雑誌を人に見られずに購入する方法はないだろうか。

通販・・・いやダメだ。宅配業者に知られてしまう。万が一郵便受けに入っているところを他の住人に見られぬとも限らない。

「・・・うぅ」

なんだろう、この微妙に懐かしい気持ちは。

ああ、そうだ。

まだ私が若かった頃、はじめてエッチな本を買った時の心境、まさにそれだ。

私は何度も手の中の雑誌とレジを見比べる。

手にじっとりと汗が滲み、雑誌がふやけてしまいそうだ。

一度外に出て、サングラスとマスクでもしてもう一度来ようか。

・・・それも怪しいな・・・

「!」

その時、私の脳裏に素晴らしいアイデアが飛来した。

そうだ、この手がある。

大人になった今だからこそ使える、とっておきの方法が。

私はいくつかの雑誌をダミーとして手に取り、人がいなくなるのを見計らって堂々とレジに着いた。

全ての雑誌を裏向きにレジに置き、

「あー、領収書を頼む。株式会社ボヤージ、資料室で!」

胸を張って告げた。

そう、これは会社の資料なのだ。

これなら、誰も私がホモだなんて思わない。完璧な作戦である。

「わかりました」

レジのお姉さんは私の言動に一欠片の疑いも抱かず、テキパキと自分の仕事をこなした。

うむ。好感の持てる女性である。

そう、私はこういう女性が好きなのだ。そんな私が、ホモであるわけがないではないか。

「・・・部長?」

不意に声を掛けられ、私は心臓が口から飛び出るのでは、というほど驚愕した。

振り向くと、そこにはなんと、遠野君がいるではないか!

「あっ! と、と、遠野君・・・!? なんで・・・ど、どうしてこんな所に・・・!?」

「いや、本を買いに」

まさか、私と同じ本を!?

そう思って彼の手を見る。違った。どうも、テレビゲームか何かの雑誌のようだった。

「あの、株式会社ボヤージ、資料室でよろしかったですか?」

レジのお姉さんが聞いてくる。

なんてタイミングで聞いてくるんだ、この人は!

私はこの女性に対する評価を一気に押し下げ、うんうんと頷いた。

大量にかいた冷や汗で、脇が滲むのを感じる。

「・・・資料室?」

不審そうに呟く遠野君。

私はできるだけレジの上が彼の視線に入らないように立ち位置を調整し、言い訳した。

「そ、そうそう! 資料室の友人にお使いを頼まれてね! ま、まあいいかと引き受けたんだ。決して私の私用の買い物ではないよ!」

「ふぅーん・・・そっすか。へぇー」

遠野君は素直に信じて、引き下がった。

「お待たせしました」

そう言うレジのお姉さんから本を受け取り、私は駆け足で書店を出る。

「あ、部長、待ってくださいよ。一緒に帰りましょう」

「う、うむ。そうだな」

せっかく上手く誤魔化したのに、下手に急いで怪しまれたら元も子もない。私は遠野君の買い物を待って、一緒に帰社した。

 

 

 

時計の針が、8時を回る。チクタクという秒針の音だけが、オフィスに響いていた。

オフィスには、既に誰もいない。

この時間に警備員の巡回が来て、それから2時間は誰も来ない。

「おや、残業お疲れさまです」

「そちらこそ、お疲れさまです」

いつも通りの挨拶を交わし、警備員は去っていった。

足音が遠ざかり、たっぷり5分は待ってから、私はデスクの引き出しを引いた。

そこにはもちろん、先ほど入手した雑誌が入っている。

逸る気持ちを押さえ、ビニールを剥がす。

いや、違う。別に早く読みたい訳じゃない。コレを読むことで、遠野君の誤解が解けるかも知れない。だから私は仕方なく・・・。

ゴクリと喉が鳴った。

おかしい。あの時は気持ち悪くて仕方なかった。それは間違いない。

だというのに、私は今、あろうことか、ほんの少しだけ興奮している。

私は、一度深呼吸をしてからページを開いた。

「・・・!」

今度のグラビアは熊人だ。

熊人らしく、がっちりした身体に程良く脂肪が乗っている。・・・いや、程良くというには乗りすぎている。もうちょっとダイエットした方がいいな。

そこで私は思いだした。そういえば、遠野君の家で見た雑誌でも、グラビアモデルはよく太っていた。

私は雑誌を閉じ、表紙を見渡してみる。

そこには、「デブ専」の文字が。

つまり、この雑誌はゲイで、その上デブが好きな人が買う雑誌、というわけだ。

・・・って誰が買うんだ! こんな本!

思わず突っ込んでしまいそうになるが、まあ、本意ではないとはいえ買ってしまった手前それもできない。そもそも、遠野君という生きた見本がいるではないか。

まあいい。気を取り直して私はページを開いた。

太った熊人が出迎える。今回は褌ではなく、トランクスだ。

次のページではそのトランクスの前から大きなチ・・・性器を覗かせ、照れくさそうに歯を見せている。

そして、相方の登場。相手は犬人、だろうか。なにせメインが熊人なので見切れてしまっている。それもそのハズだ。この犬人はたいして太っていない。この本のターゲットからは外れるのだろう。しかし、私としてはこの犬人の方が・・・はっ。いや違う違う! 別に私はホモではない!

ページをめくる。

ドキリとした。

股を広げ、自分の足を抱えた熊人が、肛門にバイブを挿入されて顔を歪めている。そのバイブを持つ手は犬人のものだ。男であるにも関わらず、男にこんなものを挿入されて呻いているのだ。

苦痛によるものか、快楽によるものか、はたまた屈辱によるものかはわからないが、正直に言ってちょっとだけそそる。

遠野君も、やはりこういうシチュエーションが好きなんだろうか。

格好が格好なので、性器がモロに見える。かなり大きいな、羨ましい。・・・こんな立派なモノを持っていながら男色に堕ちるとは、文字通り宝の持ち腐れだ。

そして次のシーンでは、バイブをくわえ込んだまま自らの手で射精していた。ちょうど射精の瞬間を捉えた写真で、太いチンポの先から胸元まで一直線に精液が飛んでいた。

とても恥ずかしい写真だ。こんな恥ずかしい写真を撮られてしまったら、私なら生きていけない。

見ると、写真の下にプロフィールが。浩太(さすがに偽名だろう)、178cm、102kg、37歳。・・・37歳! 私と同じ歳だ。

次のモデルはまたしても熊人。それも今度は二人組だ。・・・ふむ、今回は熊人特集なのかも知れない。

冒頭から全裸で、抱き合ってキス。

二人とも大きく膨らんだ腹の下でチンポを勃起させ、先端を擦り合わせるように重ねている。先ほどの浩太ほどではないが、まずまずの持ち物だ。・・・羨ましい。

片方が片方にのしかかり、おそらく挿入しているのだろう。正常位でのセックス。

次のページでは立場が入れ替わり、先ほど犯していた熊人が逆に犯されている。・・・男同士だから、こんなありえないシチュエーションも可能なのか。

そして最後は、互いの大きな腹に精液をかけ合っている。

私はクラクラする頭を押さえて、もう一度最初から読み直した。

・・・遠野君も、今頃この雑誌を見て自慰にふけっているのだろうか。それとももしかしたら、私を、その・・・オカズにして。

想像する。

あの部屋で、私を思い、一心不乱にチンポをしごく遠野君。

「・・・・・・」

気が付くと、私は勃起していた。

そっと席を立ち、遠野君のデスクに座る。

雑誌をめくり、何枚かある写真の中に虎人を見つける。相変わらず太っていて、少し私に似ていた。

きっと遠野君は、この虎人に私を重ねるだろう。

私は我慢できなくなり、スラックスの上からそっと股間を撫でる。シチュエーションのせいか、いつもにも増して強い快感が襲う。私は意を決してベルトを解いた。

ボタンを外し、チャックを降ろし、そっとスラックスを脱ぐ。

ブリーフは盛り上がり、既に先端にシミが浮いていた。

私は腰を浮かせてブリーフまでも脱ぎ去り、愚息を取り出した。

勃起しているにも関わらず、亀頭の先端しか覗かせていない包茎チンポ。長さも、太さも人並み以下。私の中指とほぼ同じサイズだ。

私は親指と人差し指でその包茎チンポをつまんで、ゆっくり皮を剥く。剥けきったところで、皮を戻し、先端に余った皮をつまんで捏ね、亀頭に刺激を与えてやる。

「ぁ・・・ぅう・・・」

声が漏れ、私はますます興奮した。

机の上に雑誌を置き、最初の方のページを開く。

そこでは、相変わらず熊人が犬人に苛められていた。この犬人、ちょっと遠野君に似ている・・・

「は・・・っ・・・と・・・の君・・・」

左手の指をなめ、唾液で湿らせてからシャツの下に忍ばせる。

自分の乳首を擦り、勃起したところでこりこりとつまんで、私は上り詰めた。

「と・・・君・・・!」

もう我慢できない。

チンポをつまんでいた指を輪っかにして、私は包皮をしごいた。

チラリと雑誌を見る。

そこには遠野君にバイブを挿入され、自ら射精する私がいた。

「・・・あっ! ああっ! と、遠野君ッ!」

彼の名を呼び、私はついに果てた。

ビュッ、と放物線を描いて精液が飛ぶ。

それは遠野君のデスクにかかり、引き出しをドロリと伝う。

私はそのままチンポをしごき、射精を続ける。包皮口からドクドクと溢れた精液が、縮み上がった玉袋を伝い、遠野君の椅子に垂れた。

「うぅっ、と、遠野君・・・! ・・・うッ!」

最後にぶるん、と腹を震わせて、私のオナニーは終わった。

「ハァ・・・ハァ・・・ああ・・・」

荒い息で、私は放心する。

・・・やってしまった。

私は、よりにもよってこんな雑誌で射精してしまったのだ。

雑誌を見る。

熊人の写真は、驚くほど私を興奮させなかった。

射精の直後だからか・・・? いや、違う。

私はこの写真に興奮したのではない。この雑誌を見て、いや、私を想像してオナニーする遠野君を想像して興奮したのだ。

・・・何とも回りくどいオカズである。

自嘲めいて口の端を持ち上げると、私は自らの精液を始末するため、席を立った。

萎えて縮こまった包茎チンポの先端から精液が垂れ、ポタリと床に落ちた。

 

 

つづく。

 

 

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