マンガ時評vol.36 98/4/15号

紫堂恭子の癒しの世界。

 ファンタジーを描くマンガ家は数多くいます。まあ元をたどれば結局手塚治虫の『リボンの騎士』あたりにいきつくわけですが、やはり日本のファンタジーマンガの第一人者と言えば何と言っても大島弓子。いや、中山星香だ、坂田靖子だ、はたまた藤子不二雄だ、萩尾望都だ、宮崎駿だと、ファンタジーの定義の仕方によって、それぞれ異論はあるかも知れませんが、ともあれ大島弓子の描く静かで優しくて可憐で、でもシュールで深く鋭い人間観察に溢れている作品世界は、日本マンガ界が生み出した奇跡のひとつだと僕は思います。特にすでに語り尽くされた感のある『綿の国星』の世界の美しさなど、宮沢賢治と比べても遜色ないものでしょう。

 大島弓子の素晴らしさは、静かに研ぎ澄まされた作者の感性が、マンガというカタチで表現する、ある種哲学的な鋭い観察眼にあります。彼女のマンガでは、いつも何かを欠落してきた社会的に恵まれない登場人物がいます。世の中に適合できるようになった大人ではなく、いつまでも大人になれない半端な存在。だからこそ見える、この世界の矛盾や退屈やいらだちを、大島弓子はアウトサイダーの視線から丹念に描き出します。しかし、その視線は決して冷笑的なものでも絶望的なものでもありません。むしろ深くて温かで柔らかい視線、何でも知っている、そして全てを許す仏様のそれなのです。人間の愚かしさ、社会の矛盾に対して絶望的・破壊的なSFファンタジーが多い中、大島弓子の優しさと深さは、読み手にとって心を癒されるものでした。

 ところがその大島弓子は90年代に入ってからは、あまり積極的な活動をしていません。同年代の萩尾望都や木原敏江らが相変わらず精力的に執筆活動をしているのに比べ実に残念なことです。猫とのノンビリした生活エッセイもいいですが、少し枯れすぎているような気がします。で、紫堂恭子。僕が初めて彼女の作品を読んだのは、「プチフラワー」で連載を始めた『辺境警備』からでした。都から辺境の町に左遷されてきた国境警備の隊長さん。スケベで怠け者の彼には退屈な田舎暮らしのはずだったのですが、真面目な神官さんや、のどかで温かい兵隊さんたちに囲まれて過ごすうちに、いろいろな事件が巻き起こります。辺境の町に流れ着く人は皆、心のどこかに解決しなければならない過去を抱えていて、今はひとときの休息の時。コミカルだけどせつなくて、温かいけどシニカルな、とてもキャリアの浅い作家の作品とは思えないような完成度の高いファンタジーでした。

 さらに彼女は同時期に『グラン・ローヴァ物語』という深い哲学的考察が混じった連作集を発表します。ひょんなことから大賢者と一緒に旅をすることになった元詐欺師。彼は大賢者とともに世界を変える魔力を持つ「銀晶球」を探す旅に出ます。「知識」とはなにか、「力」とはなにか、「知る」ことは「失う」ことではないのか。この作品に込められたメッセージには、単なるファンタジーを超える圧倒的な深さと、人間に対する温かさがありました。まさに紫堂恭子は大島弓子と入れ替わるように90年代を代表する「深くて温かい」ファンタジー作家に成長していったのです。

 その後、紫堂恭子は現代ビジネス社会を舞台にした作品も描いたりはしましたが、やはりファンタジーが似合うようで、昨年から新しい長編『癒しの葉』をスタートさせました。不思議な力を持つ「癒しの葉」携えてきた聖者と、彼を「護衛する」という名目で各国から派遣された4人の若者。各国の思惑と若者達の運命が聖者と「癒しの葉」の力を巡って交錯する本格ファンタジーロマンです。『辺境警備』と『グラン・ローヴァ物語』を合わせたような、まさに紫堂恭子のお得意の世界ですから、筆も滑らかに進んでいるようで、物語の展開もキャラクターの描き込みもよくできていて快調そのもの。彼女の特色であるバックの絵の丁寧さと質感も相変わらずで、草の匂い、木のざわめき、都会の喧噪が、マンガを読んでいると実にリアルに感じられます。「癒しの葉」とは紫堂恭子の作品世界そのものではないかと思わせる、ファンタジーマンガの新しい傑作が誕生する予感がします。