マンガ時評vol.35 98/3/29号

復活したデビルマンは世紀末になにを見るのか。

 週刊モーニングで連載中の『デビルマンレディー』。連載が始まった当初は永井豪自身の不朽の名作『デビルマン』を自らパロディし、ある意味冒涜するようなキワモノ(もっとも永井の作品は全てキワモノと言えなくもないですが)かと思っていましたが、ここにきて不動明(=デビルマン)らしき人物が登場し始めて、いよいよ永井ワールドらしい凶暴性と幻想性が連星のように連なって回り始めた感があります。

 この『デビルマンレディー』の本歌となっている『デビルマン』は、日本マンガ史上5本の指に入る傑作中の傑作(と言って本当に数え始めると多分指は10本を超えたりしますけど)だと僕は思っています。中学1年の時に友人に『デビルマン』全5巻のコミックスを貸してもらい、一晩でアッという間に読んでしまったのですが、その時の興奮と恐ろしさのないまぜになった心境は今でもまざまざと記憶しています。お風呂に入るのが怖かった思い出を持つのは僕だけではないはずです。繰り返し眺めた衝撃のラストシーン。文学作品を含めて広く読書という体験を振り返っても、あれほど精神に楔を打ち込まれたような読後感は、過去本当に数少ないものでした。

 『デビルマン』の素晴らしさは、暴走しているとしか言いようがないほどの永井豪の「妄想」力の凄さです。悪魔の側から地球の歴史を描くという視点、そこから広がり疾走していくスピード感、物語性の高さ、悪魔よりおぞましい姿を見せる人間、そしてまさにマンガ史上に残る壮大で感動的なラストシーン。エロスとバイオレンスをこれだけぶちまけながら、なおかつ詩的で品格すら感じさせる筆力と画力は並大抵のものではありません。

 永井作品に共通して感じるのは「少年の妄想」です。ギャグマンガであれSF怪奇マンガであれ、永井作品には子どもがワクワクしながら妄想しているような味わいがあります。『ハレンチ学園』の頃からHギャグをあれだけ描きながら、どこか永井作品の後味が良いのは、男の劣情を煽るだけの大人の男性のためのエロ劇画と違い、そのHさに実は少年の幼い妄想のような正義感と単純さと素直さを感じるからでしょう。また大便などのような汚いものを好んで描くのも、醜悪な怪物のデザインや、どぎついバイオレンスな描写にも、どこか子どもが頭の中で空想したことをノートに書きつけているような素直な視線を感じます。下品なんだけれども後味が良いというのは、その少年のような純粋さに起因しているのではないかと思います。

 さて話は戻って『デビルマンレディー』です。連載開始当初は単に『デビルマン』の不動明と飛鳥了を女性にしただけの、まさに20世紀末という時代に合わせてのリニューアル・バージョンかと思っていました。『デビルマン』連載当時では描けなかった性描写も今の時代と青年誌ということで、より頻繁に描かれ、逆にそのあたりに『デビルマン』に熱中した世代としては反発も感じました。少年の純粋さが永井作品の特徴としたら、『デビルマンレディー』には大人になってしまった悲しみがありました。ところがここにきて作品に永井豪らしい暴走感が出てきたのです。展開の速さとスケール感、そして幻想感。ぐるぐると怪しい世界が回り始めました。まだチラッとしか姿を見せていない不動明が、どうこれから『デビルマンレディー』の世界に関わってくるのか、不動ジュンとアスカ蘭の2人は、不動明と飛鳥了とどういう関係にあるのか、デーモン族は再び人間を襲うのか。神と悪魔の物語が再び始まりそうな予感を感じさせている『デビルマンレディー』は、俄然ここにきて注目の連載マンガに成長してきました。世紀末日本に降臨したデビルマンが、この世の中をどういうふうにぶっ壊してくれるのか、ちょっとワクワクします。