マンガ時評vol.30 98/1/11号

21世紀も、萩尾望都。

 根岸吉太郎監督の『ウッホッホ探検隊』という家族をテーマにした映画があります。もう10年以上前の作品ですが、その中で「好きな作家は?」と聞かれた少女が「萩尾望都」と答えるシーンがありました。当然小説家の名前を予想していた劇中の質問者(及び観客)を驚かせるとともに、その少女が単なるマンガ好きというだけではなく、どういう性格と嗜好をしているかを端的に表現できる素晴らしい答えでした。

 会社の先輩コピーライターで僕よりも16才年上の女性がいました。彼女は団塊世代より上ですから、マンガを読みはしますが、それは大人になってからの話。やはり子どもの頃からのマンガ好きとは感性が違います。その彼女が萩尾望都の評判をどこかで聞いて、その作品をひとつ読んでみたそうです。僕が「どうでした?」と聞いたら「さっぱりわからなかった」と言って怒っていました。彼女が読んだのは『銀の三角』。そりゃ初心者には難しい。他の作品を勧めましたが、以降彼女は頑として萩尾望都を読もうとはしませんでした。これもまた10年以上前の話です。

 なにかにつけて萩尾望都という人は取り上げられやすいというか、ある種の何かを象徴させられる作家です。大島弓子や竹宮恵子ら「花の24年組」と称される人たちの中でも、常にその名は独特の輝きを持ち、ある種「孤高」という言葉さえ似合います。60年代末にデビューしてから約30年。これほどのキャリアを誇りながら、未だに新鮮で、ときめきを感じさせるパワーは驚嘆すべきことでです。題材の幅広さと文学性の高さ、ストーリーテラーとしての才能、全てにおいて少女マンガ界のみならず、マンガ家、いや小説家まで含めても比肩しうる作家は日本に数少ないと思われます。

 高橋源一郎が週刊朝日のコラムで「野球小説には、野球を描くための小説と、小説の題材としてたまたま野球を選んでいる小説がある」というようなことを書いています。すなわちメディアはなんであれ、そのテーマを描きたいのか、そのメディア(それが小説でなくてもマンガでも芝居でも映画でも)の中で、たまたまあるテーマを選んだのか、という違いです。萩尾望都は一見後者のようです。マンガという表現を突き詰めていくために、いろんな題材、すなわち伝承であったりSFであったりサイコであったりダンスであったり、を選んでいるように見えます。しかし『イグアナの娘』のテレビ化が成功したことを見てもわかるように、彼女のストーリーテラーとしての才能は実はメディアを選ばないのです。マンガという表現方法が最も彼女にとって自由に、意のままに表現できる媒体だから用いているだけで、彼女の才能は小説でも映画でも芝居でも間違いなく大きな成功を生み出すことでしょう。萩尾望都とはそういうスケールの大きな作家です。

 さて、その萩尾望都がプチフラワー誌上で約5年間にわたり渾身の力を込めて描き続けているサイコサスペンス『残酷な神が支配する』が、いよいよクライマックスを迎えようとしています。いや、本当にここがクライマックスなのかどうかはわかりませんが、ひとつの山場であることは確かでしょう。「事実はひとつだが、真実はいくつもある」と言ったのは『めぞん一刻』の高橋留美子だったでしょうか。この作品は連載開始当初から、ドラマチックに、細やかに、文学の香気高く、「真実」というもののわかりにくさ、人の数だけ真実がある、という「こころ」の複雑さを描き続けてきました。常に何か挑発し続けてきているような苛立たしさと暗さ。それゆえ時には読んでいるのが辛くなる時もありますが、それでも続きを読まずにはいられない構成の巧みさ。まさに90年代の萩尾望都の代表作と呼んで良いクオリティを誇っています。これなら、21世紀にも「好きな作家は?」と問われて「萩尾望都」と答える少女がいるかも知れません。かなりマセガキでしょうが。