マンガ時評vol.29 97/12/30号

吉田秋生はジャンルを無効化する。

 かつての少女マンガというのは、まさに少女が女になるまでの物語でした。それゆえに自分たちに投影できる少女が「はしか」のように一時期はまり、逆に多くの男性からは「フン」と蔑まれる存在だったのです。ところがそれに飽き足らなくなってきたファンと作家が現れて、徐々に少女マンガの枠を広げてきました。それが「花の24年組」と呼ばれる萩尾望都・竹宮恵子・大島弓子らです。単なる少女の恋物語ではなく、もっと深く人間を描き始めた彼女たちの出現によって、少女マンガは表現として大きく飛躍することができ、またサブカルチャーの旗手的扱いを受けるようになったのです。

 しかし、従来の少女マンガの枠を広げ男の鑑賞に耐える作品を生み出した彼女たちにしても、依然として絵は少女マンガそのものであり、ストーリーも恋愛が主軸にあることには変わりがありませんでした。そういう意味では「お目々パッチリ」アレルギーの人たちにも勧められるとは言い難いものでした。その中で当時その限界を超えようとした一人が山岸涼子でした。切れ長でクールな目をした聖徳太子を主人公にした『日出処の天子』は、まさに少女マンガ史に残る歴史オカルトロマンでした。ただ、絵柄も内容的にも少々マニアックに過ぎて、少女マンガというジャンルを超越した作品と言うよりも、あくまでも少女マンガの領域を広げた作品にとどまりました。また同じ頃、青池保子も『エロイカより愛をこめて』を始めとして極めて骨太な作品群を描き始めました。彼女が描いたのは、少女の恋愛でも、その変形としての少年愛の世界でもなく、完全に男の大人の世界であり、内容的には少女マンガのジャンルを超えた普遍性のあるものでした。しかし、絵柄それ自体は相変わらず少女マンガの伝統を色濃く残していて、決して新しさを感じさせるものではありませんでした(最近の青池保子はかなり脱少女マンガした絵に変わってきました。時代がそういう絵を受け容れるようになったのでしょう)。

 そしてその頃、全く新鮮な感性で衝撃的な短編を描き始めたのが吉田秋生でした。初期の作品集『夢みる頃を過ぎても』や『夢の園』で、すでに内容も絵も従来の少女マンガというジャンルを飛び越えようとする萌芽を見せていました。また『河よりも長くゆるやかに』で飄々と描かれた男子高校生の性は、当時のどんなマンガよりも、そのリアルさにおいて抜きん出ていたと思います。そして最初の長編ヒット作となった『カリフォルニア物語』においては、病めるアメリカを舞台に人生の重さと過酷さをリアルな筆致で描き、それまでの少女の夢を描いてきた少女マンガの新しい表現を提示しました。

 この『カリフォルニア物語』の成功にとどまっていれば、吉田秋生は単なる少女マンガの一ジャンルを開拓した山岸涼子と変わらない存在で終わっていたと思います。実際成田美名子『エイリアン通り』は、『カリフォルニア物語』をより少女マンガテイストに明るく描いたフォロワーと見ることも可能です。吉田秋生も少女マンガの中で「その先」を模索しても良かったと思うのですが、さらに彼女はそこから次への飛躍を続けていきます。『櫻の園』で一転して日本の女子高校生の生理を冷静に描き、『吉祥天女』ではホラーテイストの中に女の業の深さを示しました。そして1985年、遂に彼女の最高傑作『BANANA FISH』が登場します。ベトナム戦争の後遺症やマフィアの抗争を絡めながら、国家的謀略に巻き込まれていくストリートギャングの少年アッシュを主人公にした、読者に息をつかせないサスペンス大作。スピーディでキレの良い展開は、少女マンガどころか、マンガというジャンルさえ飛び超え、文学として論ずべきレベルに達していました。また、絵柄は大友克洋に似てクールで緻密。山岸涼子の挑んだ絵と、青池保子の持つ骨太さとエンターテイメント性を兼ね備えた、真にジャンルを超えた作品が生まれたのです。ある意味、マンガという表現が到達しえた最高地点が、この『BANANA FISH』だと言っても過言ではないでしょう。

 そして今、吉田秋生は新作『YASHA』において、自ら生んだ『BANANA FISH』をも超えようとしています。絵もストーリーもさらにクールに進化し、マンガを少女だ、少年だ、青年だとジャンル分けすることの無意味さをよく示しています。この作品の全貌は未だにつかめませんが、新しいマンガ表現の地平に立つ作家吉田秋生の凄みを感じさせる迫力に、僕はいま無限の期待を抱いています。