幹事クリタのコーカイ日誌2008

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2月29日 ● 唯一の両リーグで首位打者。

 日本のプロ野球でセ・リーグ、パ・リーグの両リーグでタイトルを獲得した選手は意外に少なく、打撃三部門で言えば、本塁打王こそ落合、ローズ、昨年の山崎と3人いますが、打点王は落合だけ。そして首位打者は昨日亡くなった江藤慎一ただ一人。落合もできなかった偉業です(ローズを除く3人が全て中日の選手なのは何かあるのかな?)。

 江藤のピークは1960年代。中日ドラゴンズの主砲として全盛時の長島、王に対抗したバットマンでした。僕がプロ野球を見始めたのは1968年のシーズンからで、当時の中日は出塁率が高く足も速い中、高木の1、2番を4番江藤の豪打で返すという個人技に頼ったチームでした。ところがV9時代に入っていた巨人は、ドジャースから仕入れた組織的な近代野球と、ONの卓越した個人技を有機的に結びつけていて、とても中日の野武士野球では対抗できませんでした。

 そこでかつての巨人軍監督だった水原茂を中日監督に招き、野球の近代化を中日も進めたのですが、その時に野武士の象徴だった江藤はロッテへと放出されてしまったのです。今ほど選手の移籍が一般的ではなかった時代ですから、生え抜きの4番を放出した外様の水原に対してはかなり強い反発が地元ではあったようです。しかし、結果として江藤はロッテで首位打者を獲得し、中日も改革が成功して次の与那嶺監督時代についに巨人の連覇を止めることになったのですから、水原の決断は正しかったのでしょう。

 僕は江藤が放出された1970年にはまだ小学校4年生だったこともあり、その意味がよくわかってはいませんでした。ただそれ以前の中日が低迷していたことは知っていましたし、変わるために必要な犠牲であったことも何となく感じ取っていました。過去に対する知識も拘りもない子どもだったからこそ、水原監督の「変えよう」という強い意志を素直に受け止められたのかも知れません。

 そして移籍先のロッテで翌1971年に見事に首位打者を獲得した江藤という選手にも尊敬の念を抱きました。名古屋を離れて他の土地で活躍する人に、名古屋の人はいつも温かい眼差しを注いで応援します。それは信長、秀吉、家康の三英傑が揃ってこの土地を離れていったからかも知れません。今年からシカゴ・カブスでプレーする福留にも、江藤と同じように活躍してもらって、イチロー以来の日米での首位打者を獲得してもらいたいものです。そう言えば、そのイチローも名古屋出身でした。