畑繋堤物語はたつなぎつつみ

 

 柳津町丸野二丁目、羽島高校柳津分校のすぐ南に畑繋大神宮があ
り、畑繋堤(はたつなぎてい)の築造(ちくぞう)に功労(こうろう)の
あった尾張北方奉行(おわりきたがたぶぎょう)酒井七左衝門(さか
いひちざえもん)及ぴ四人の地元犠牲者(ぎせいしゃ)の霊(れい)をま
つってあります。
 柳津町では薩摩藩の宝暦治水(ほうれきちすい)工事完成(一七五
五年)以来、たぴたぴ水害(すいがい)に悩(なや)まされてきました。
それは、大樽川(おおくれ)洗堰(あらいぜき)のため長良川の水位が高
くなり出水時には長良川の濁流が境川へ逆流するようになり、無堤地
帯の柳津村や足近村へ水が、流れ込むようになったのです。 そこで
丸野地区では、自然堤防が断続して畑になっていましたので、畑と畑
の間にある田を埋めたてて畑に直し、さらに置き土をして小堤の役目
をさせようとしました。
 これが畑繋堤のおこりです。
 しかし、畑繋堤ができると、柳津村の対岸にある厚見郡(稲葉郡)
に水害が広がることから、築堤(ちくてい)がなかなか許されませんで
した。
 地元の水害を見るに見かねて、時の村役人柳津村奥村元右衛門・渡
辺藤左衛門・伊藤丹蔵・足近村字北宿の野田勘右衛門の四人が円城寺
奉行所に陳情(ちんじょう)しましたが、捕(とら)えられ、獄死(ごく
し)しました。時は天明三年(一七八三年)頃でした。
 その後、水害の苦しみを繰り返すうちに円城寺奉行は廃止(はいし
)となり、柳津村は尾張北方奉行所の支配をうけることになりました。
そして、文化二年(一八〇五年)時の奉行酒井七左衛門に築堤を訴
えたところ、「流れた土を元通りにする。」という名目で築堤を許
されました。
 柳津村をはじめ松枝輪中の人々は歓喜(かんき)し、ただちに工事
を始め、対岸と対等の堤を築き上げました。
 なお、その畑繋堤は今では残っていません。