宝暦治水工事に関する年表



1753
宝暦三年
           5月        勘定奉行神尾若狭守の内申により、
                    代官吉田久左衛門が木曾・長良・揖斐三川普請個所を視察見分。(〜7月)

                    輪中の村々より、工事請願書40余通が提出される。

           8月13日     濃尾地方大洪水、三川の各地で堤防が決壊する。

          12月 6日    勘定奉行一色周防守、濃・勢・尾三州川々普請をお手伝いとすべく
                    老中堀田相模守正亮に内申する。

          12月20日    8月洪水の破損ヶ所見分結果を笠松郡代青木次郎九郎より勘定奉行に報告。

         12月25日    将軍家重、薩摩守重年にお鷹の鶴を賜う。

                    幕府、木曾三川治水工事お手伝い普請を薩摩守重年に命ずる。

         12月27日    老中西尾より勘定奉行一色周防守に普請御用を仰せ付けられる。

                    幕臣石野ら4人に、普請お目付を仰せ付けられる。

                    薩摩藩岩下左次ヱ門が一色の用人高坂専右ヱ門を訪ね、
                    工事の時期、人員等について尋ねる。

                    薩摩藩佐久間源太夫が石野ら目付の屋敷を訪問し挨拶をする。

         12月29日    薩摩藩江戸家老が、書簡で情報を国家老に送る。

                    幕臣青木、吉田、室田金左ヱ門らに普請御用を仰せ付けられる。

1754
宝暦四年
          1月 2日    薩摩藩岩下が、一色に箇条書きにして工事について質問する。
                    これに対して一色は一々張紙を付して回答する。

          1月 4日    薩摩藩江戸家老が、1月2日の逐条問答を書簡で情報を国家老に送る。

          1月16日    家老平田靱負をお手伝い普請工事の総奉行に、
                    大目付伊集院十蔵を同副奉行に任命する。

          1月21日    薩摩守重年、お手伝い普請の請書を幕府へ送る。

                    江戸藩邸から先発隊として、
                    御留守居役山沢小ヱ門、普請奉行川上彦九郎らが、美濃へ向け出発。

                    お鷹の鶴が鹿児島に到着。即日に謝恩使ら決まり、江戸へ向け出発。

          1月25日    江戸藩邸より愛甲源左ヱ門らが、美濃へ向け出発。

          1月26日    代官吉田久左ヱ門が普請御用のためらが、美濃へ向け出発。

          1月29日    総奉行平田靱負、薩摩藩士の一隊を率いて鹿児島を出発する。

                    普請目付石野三次郎ら4人が、美濃へ向け出発。

          1月30日    副奉行伊集院十蔵、残りの薩摩藩士の一隊を率いて鹿児島を出発する。

          2月 1日    薩摩藩は藩債募集を発表。

          2月 2日    江戸藩邸より用人諏訪甚兵衛らが、美濃へ向け出発。

          2月 5日    江戸からの先発隊が美濃大牧に着く。

          2月 6日    薩摩藩江戸家老が、目付石野らの発令や江戸からの出発等を書簡で国家老に送る。

          2月16日    平田靱負ら大坂に着く。平田は金策のため大坂にとどまる。

          2月18日    藩主薩摩守島津重年、総奉行以下14人の役職名を幕府に報告。

          2月22日    美濃、水行奉行東高木家の家臣ら誓詞起請文を主人に差出す。

          2月24日    伊勢桑名郡五明村庄屋ら、水行奉行高木新兵衛家臣内藤十左ヱ門に請書を差出す。

          2月27日    鍬入れ式が行なわれ、春の工事が始まる。

         閏2月 2日    藩主薩摩守島津重年の夫人、お村の方が死去。享年20歳

         閏2月 9日    平田靱負、工事費七万両を工面して美濃大牧に着く。

         閏2月22日    岩下、一色に宛てお手伝い方役人平田靱負以下14名の名簿を提出。

         閏2月24日    高須など4輪中58ヶ村が、七郷輪中の掘割及び油島締切を出願。

          3月 5日    秋の工事の設計変更について合同会議、五の手工事が中止となる。

          3月 8日    薩摩藩が藩内に藩費節約を申し渡す。

          3月 9日    薩摩藩が藩内に人別・牛馬船舶税増徴を布令する。

          3月12日    一の手定式普請竣功、四の手急破普請竣功。(〜13日)

          3月16日    高木三家、青木、吉田ら、七郷輪中等の設計変更を一色勘定奉行に伺う。

          3月26日    一色勘定奉行、老中堀田に稟議の上、
                    青木らに七郷輪中、五明輪中以外の設計変更を認める旨の指令を発する。

          4月14日    永吉惣兵衛、音方貞淵が切腹し、薩摩方の最初の犠牲者となる。

          4月15日    七郷輪中掘割について、青木、吉田ら5人、普請方、堤方が、
                    高木新兵衛宿舎で会議して中止を決定する。

          4月16日    永吉、音方両名を桑名海蔵寺へ葬る。

          4月22日    水行奉行高木新兵衛の家来、内藤十左衛門が切腹する。

          4月24日    平田靱負、難場外請けのことを申請する。

          4月29日    青木郡代ら高須など4輪中58ヶ村に七郷輪中掘割中止を通知する。

          5月 2日    幕府が難場の箇所を列挙して外請け申請するようにと薩摩藩に指示する。
                    薩摩藩は即日に38ヶ所を申請する。

          5月11日    藩主薩摩守島津重年が参勤のため、世子重豪をともない、鹿児島を出発する。

          5月21日    町人請負で、秋の工事用の石集めを始める。

          5月22日    春の工事が終わる。幕府役人ら江戸へ引きあげる。

          5月26日    一色勘定奉行、難場6ヶ所につき外請けを認めると通知する。

          6月 8日    薩摩藩山沢が青木・吉田に対して、残りの難場についても外請けを申請する。

          6月11日    濃尾地方大洪水、薩摩方に復旧工事が命ぜられる。

          6月17日    高木、青木、吉田ら5人が、石寄せについて協議する。

          6月29日    高木ら5人連署で、石寄せ状況を一色に報告する。

          7月 5日    藩主薩摩守島津重年、一の手の工事場を巡視する。

          7月11日    揖斐川・木曽川洪水(〜12日)

          7月17日    薩摩藩家老伊勢兵部が、参勤随行の途中、国家老に美濃の状況を書簡で報告する。

          7月22日    濃尾地方大洪水、薩摩方に復旧工事が命ぜられる。

                    藩主薩摩守島津重年が江戸に到着。

                    平田靱負が国家老に美濃の状況を報告する。国元へ増員の要請。

          7月23日    青木郡代が、薩摩藩平田善太夫に対し、
                    外請け32ヶ所の件につき、村方得心の分は外請け可と通達。

          7月27日    一色の命を受け勘定組頭室田金左ヱ門が、薩摩藩邸に岩下と会い、石寄せを督促する。

          8月 2日    青木郡代が、各務郡岩田村役人を笠松に呼出し石搬出を厳命する。

          8月 8日    平田靱負の増員要請承知を国家老が回答する。

          8月 9日    平田靱負が、京大坂のお留守居に借入金の調達を申渡すも、不調。

          8月13日    勘定組頭倉橋武右ヱ門を総場所見廻りに任命する。

          8月16日    一色が七郷輪中掘割中止・油島締切について老中堀田に報告する。

          8月18日    高木新兵衛が大垣藩役人に対し、石搬出を書簡をもって督促する。

                    幕府側は、薩摩藩平田善太夫に対し、石寄せを書簡をもって督促する。

          8月19日    高木水行奉行が佐久間源太夫を呼出し、書簡を手渡して石寄せを督促する。

          8月25日    薩摩方に病人続出、薩摩方は幕府に秋工事の延期を願う。

                    この月、薩摩方は幕府から石集めの厳しい督促をうける。

                    代官吉田久左ヱ門が江戸より現地に到着。(秋普請のため)

          9月 9日    総見廻り倉橋武右ヱ門が笠松に到着。

          9月11日    薩摩藩佐久間源太夫が石寄せ状況を届け出る。

          9月12日    老中堀田が七郷輪中掘割中止、油島締切の中あきは評議次第と指令する。

          9月18日    秋の水行普請について、4工区の分担を決定。

          9月24日    油島堤防の下埋め工事が始まる。秋の工事の開始。

         10月 5日    薩摩藩家老伊勢兵部が死去。享年43歳。

         10月13日    松之木村より40間の下埋め着手。

         10月26日    目付新見又四郎・水行奉行高木玄蕃、一色あてに油島の工事進捗状況を報告する。

         10月30日    青木郡代・倉橋総見廻・吉田代官、一色あてに油島の工事進捗状況を報告する。

         11月 4日    平田靱負が国元へ送金依頼。

         11月 7日    石野ら4人の目付連名で、
                    油島締切は中間からも施工して、工事の推進を図りたいと一色に伺う。

         11月17日    一色より石野ら4人に、中間よりの施工は認めずと回答。

         11月19日    青木・吉田・倉橋連署で油島締切の方法について一色の意見を伺う。
                    同時に、薩摩藩に対し石寄せ方督促を請う。

         11月29日    一色、青木ら3人に「油島分流堤は中あきとして施工し、
                    1、2年の水行の様子を見ることにする。なお現場一統の評議で決定せよ。」と返書がある。

         12月18日    二の手の工事が完成。この頃、大榑川洗堰の工事着工。

         12月23日    二の手目付大久保荒之助の内検(清見)始まる。(24日まで)

         12月25日    御用納め。

1755
宝暦五年
          1月 4日    工事始め。

          1月 5日    平田靱負が二の手の竣功、清見終了等を国家老に報告する。

          1月 7日    幕府方現地の全員「大藪川は洗堰で」と決定して、一色に申請する。

          1月 9日    老中堀田が一色に「油島は中あき締切」を指令する。

          1月13日    幕府役人竹中伝六が切腹する。

          1月16日    二の手出来ばえ見分が始まる。見分使山口民部ら到着。(20日まで)

          1月25日    木曽川で26日まで出水。被害が生ずる。

          1月27日    老中堀田が、「大藪川は洗堰施工」を指令する。

          1月28日    一色より、「大藪川は洗堰施工」と現地に通達。

          2月 1日    木曽川出水。石田村の普請ヶ所に被害。

          2月 2日    洪水被害につき、現地より一色あてに報告する。

          2月 5日    薩摩藩山沢小左ヱ門が江戸に出張し、災害の報告をする。

          2月10日    老中堀田、「石田村の災害復旧は籠猿尾とする」よう指令する。

          2月15日    山口民部・大久保荒之助帰府復命。

          2月19日    薩摩藩山沢小左ヱ門が江戸より帰着。

          3月24日    三の手内検始まる。(〜4月10日まで)

          3月27日    一の手、四の手の工事が完成。

          3月28日    三の手の工事完成。一の手の内検始まる。(29日まで)
                    大藪洗堰竣功。

          3月29日    四の手の内検始まる。(4月6日まで)

          4月11日    平田靱負、国許へ工事竣功、内検等を書面にて報告をする。

          4月15日    幕府目付牧野織部が出来栄見分役として到着。

          4月16日    一の手出来ばえ見分が始まる。(21日まで)

          4月24日    三の手出来ばえ見分が始まる。(5月10日まで)

          5月13日    四の手出来ばえ見分が始まる。(22日まで)

          5月24日    平田靱負、国許へ工事完成終了を書面にて報告をする。

          5月25日    平田靱負、美濃大牧の本小屋で切腹する。

          5月26日    副奉行伊集院十蔵らが江戸に向け大牧を出発。

          5月27日    平田靱負を京都伏見の大黒寺に葬る。

          6月 1日    薩摩守島津重年が工事終了を老中に届ける。

          6月 6日    伊集院十蔵、江戸藩邸に帰り着く。江戸家老に就任する。

          6月13日    幕府が藩主薩摩守島津重年の功を賞す。
                    一色以下幕府役人に功を賞す。

          6月16日    藩主薩摩守島津重年が死去。享年27才。

          9月 5日    幕府が伊集院十蔵ら薩摩藩士13人に功を賞す。
1756
宝暦六年

         11月 7日    伊集院十蔵が死去。





1899
明治三十二年
                    金森吉次郎らが桑名海蔵寺にて薩摩義士の追弔会を催す。





この年表を作成するにあたり、薩摩義士(鹿児島県薩摩義士顕彰会)・滔々記抄(黒葛原 祐)などを参考にしました。