濃尾平野を作る木曾三川 |
美濃の国は濃尾平野の最南端にあって木曾、長良、揖斐の三大川が緩やかに流れている。 昔は三つの大きな川に、中小さまざまの支流が233程あって本流、支流網の目のように入り乱れていたと云われている。 そのうえ木曽川の標高が一番高く、順次西の長良川、揖斐川の順に傾斜し、その差は2メートル60cm程に及んでいる。 従って美濃の国は一たび雨が降ると、低い揖斐川に向かって平押しに流れ、田畑はもちろん家屋も流され、時には、 大切な命まで失うこともあり年々悲惨な繰返しが続いて実に哀れなものであった。 |
輪中の由来 |
木曽川の上流から運ばれた土砂は、勾配の少ない下流で順次堆積し、三角洲を形ち作って次第に大きくなった。 平安時代に始めて新田開発が行なわれ、洲の高い処に移住した農民は集落を成し、農耕をもって生計を立てた。 農民は洲の外側に堤を作り、上流から来る水を防いだ。 この半円形の堤を、「尻無堤」と呼んだが、時代が移り変わって鎌倉時代に入り、始めて下流に向かって堤を作り 「潮除堤」と呼んだ。尻無堤と潮除堤で丸い輪となり、その堤の中に人が住んでいる形を「輪中」と名付けたのである。 |
巧妙な政略 |
時代が移り変わり徳川家康が天下を平定したが、その頃大阪にある豊臣の勢力を警戒して、家康は自分の子供を尾張に 配属し大阪に対して前衛の役割を果たさしめた。そのうえ木曽川左岸に一大堤防を築き、「お囲い堤」と称して今尚有名である。 愛知県の犬山市から弥富町まで延々48kmに亘る堅牢無比の大堤防は、軍略上にも又治水上にも尾張は非常に恩恵を 受けることとなった。 反面、お囲い堤から西一帯の美濃はいよいよ水害が増し、塗炭の苦しみに喘いだのである。その頃、外様大名の筆頭である 薩摩に対し、幕府は美濃の水普請を仰せ付けた。勢力を抑える為、「お手伝い」の名をもって多額の費用を遣わせたのである。 |
忍び難きを忍ぶ薩摩藩 |
美濃とは縁もゆかりもない薩摩では、お手伝い普請の命令に驚きのあまり騒然として、上を下への大騒ぎとなった。 「薩摩に沢山の金を遣わせて自滅させる目的であるから、決然としてこれを退け、一戦交えるべきである。」という 強硬な意見が続出した。ところが家老平田靱負は、沈着冷静に順々として一同の者を諭した。 「日本の国は顔は知らなくても皆兄弟である。兄弟の中で水に苦しむ者があると知ったら、どんな犠牲を払っても 助けてやるのが、先祖以来培われた薩摩の仁義の精神である。この際忍難きを忍んで水に苦しむ兄弟を助け、後世まで 薩摩武士の名誉を伝えるべきでなかろうか。」家老の諭しに、決死難にあたり誓って工事を仕遂げることになったと伝えられる。 |
大阪商人からの資金調達 |
幕府の作った計画では、完成までに30万両(換算して約240億円)の費用がいると推定された。平田家老は部下の 中馬源兵衛を遣わし、大阪商人から金を借りることにした。その頃薩摩では、度重なる幕府との交渉をしていた。 大阪ではすでに莫大な借財があったので、源兵衛は金を借りることが出来なかった。 一方平田家老は947名を選び、自ら総奉行となって美濃に旅立った。宝暦4年2月16日に大阪に立寄り、 砂糖を送ると誓約書を提出して、取敢えず商人から7万両を借り受け、閏の2月9日美濃に到着したのである。 以来度重ねて商人から借りた金は合計して22万298両であった。 |
広範な工事の区域 |
幕府の設計は一の手から四の手まであり、伊勢湾の河口から上流へ概ね60km、東西は約40kmもあり、 関係の村は193ヶ村に及んでいる。 平田家老は揖斐川右岸養老町大牧の鬼頭兵内の納屋を借り受けて本小屋とし、直ちに部下を工事場所に付かしめて 2月27日一斉に着工した。 幕府方では江戸表から吉田久左衛門他37名、笠松郡代及び多良水行奉行所から29名加わって監督や指示をした。 |
工事監督の厳しさ |
幕府の役人たちは、先ず薩摩義士の待遇について宿主に厳しいお触れを出し、食事は一汁一菜と定め、蓑、草鞋も 安く売らないように指示した。 こんな辛い環境の中で、先ず第一番に堤の切れ所の修理や、堤の上置き(嵩上げ)、堤の外側の腹付け、内側の腹付け、 砂浚え、蛇籠、石堤み、根杭などの工事を行なった。 薩摩藩士も剣を取っては誰にもひけを取らないが、土工にかけては手も足も出ず、工事場の各所で間違いもあれば失敗もあり、 腹をえぐるような皮肉や罵倒もしばしば浴びせられた。 |
最初の割腹者 |
着工して1ヶ月半経った4月14日に永吉惣兵衛、音方貞淵の2人が腹を切って亡くなった。 永吉と音方の2人は四の手の工事に従事したが、着工してから今まで血みどろになって行なった工事が壊されているのを発見した。 直ちに修理したが夜、再び幕府の役人が地元の人夫を使って壊しているのを眺め、講義も出来ず歯を食いしばって我慢した。 やがて2人はこのむごい仕打ちに抗弁すら出来ない悔しさに死を選び、以後は人間味のある監督をしてほしいと祈りながら 腹を切って相果てたと伝えられている。 |
続出した犠牲者 |
夏には材料集めを命ぜられたが、これまた悲痛切烈の限りを尽くし、各所に手違いが出て、度毎に罵倒せられ、 悲憤のあまり多くの人が腹を切って亡くなった。 工事完成までに割腹した者51名、病気で亡くなった者33名に及んだ。 病を得ても看病は許されず、薬は与えられず精根尽き果てて遂、亡くなった人の胸中を思えば実に哀れである。 |
犠牲者の心を偲んで |
薩摩藩士の痛ましい模様などをしみじみと思い浮かべてみるに、藩士は尊い身でありながら土工姿となって美濃の工事に従事し、 朝早くから晩遅くまで血みどろの奮闘をされたのである。 一日疲れ果てて宿に帰れば一汁一菜、板張りの部屋に煎餅布団を敷いて身を横たえられた胸の内はどれほどであったことだろう。 一日の工事の辛さや悔しさ悲しさが、頭に満ちて茫然となり、やがて遥か故郷の父母、妻子を幻に画き、思わず不覚の涙を枕に 落とされたことであろう日毎夜毎のご心労、涙なくして拝察することが出来ない。 工事場では意地悪い役人が、威張れるだけ威張り、責めるだけ責めようという腹で監督し、その命令は絶対に服従しなければならない。 只黙々と工事に従い、役人どもの嘲笑に耐え、屈辱を忍ぶ辛苦は、言葉や筆に尽くせるものではない。 |
莫大な工事の量 |
工事の中で四の手の油島締切堤や、三の手の大藪川洗堰の工事は最も苦心せられたもので、特に油島締切堤は 昔のまま保存され有名である。 工事に使用された材料は実に膨大なもので、主なものでも木材が約12万本、唐丈172万8千本、石材約26万立方米、 砂利約121万立方米、空俵16万3千俵、この外粗朶、縄などの資材や大工、石工、人夫等も巨額にのぼり この工事が如何に大掛かりなものであったかが伺える。 工事費の総額は詳らかではないが、大阪の商人から借り受けた外、薩摩から増税して取り寄せたお金を 合わせ約40万両余りと伝えられている。 |
工事の完成 |
幕府の厳しい監督にもひるまず、千辛万苦に耐え、堅忍不抜の精神を以って、宝暦5年3月28日に工事の総てが完成した。 続いて4月16日から5月22日まで幕府の見分を受け、滞りなく全部を終了した。 ところで真心を込めた工事は、幕府の非道な役人でさえ「結構な出来にしてござる。」と褒め称えたと伝えられる。 |
平田家老の最後 |
平田家老は5月24日付の報告書を部下に託して薩摩に帰らせ、5月25日の早朝、大牧の本小屋で総ての責任を 一身に負い腹を切って相果てた。 こと細かに書かれた報告書の末尾には「先づもって頂上の儀に存じ奉り候。」と結ばれている。 思えば家老は、1年1ヶ月の工事期間中、部下の死や役人の無理な仕打ちなどで、腸を八つ裂きにされる思いの日々を 過ごされた人である。その憤りを文に表さず工事の功績を誇らずに只淡々として「先づもって頂上の儀に存じ奉り候。」と 述べられたその心中は、凡人の推察し得るものではない。 そして割腹にあたり「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」と侘しい辞世の歌を残された。 家老の業績は正に鬼神を泣かしめるものにして、忠魂義魄は凛として千載の後まで精気を発することであろう。 |
国の史跡「千本松原」 |
工事中最も苦心せられた油島の締切堤に九州から松の苗木千本を取り寄せ千mに亘って植えられた。 植えるにあたり薩摩の侍は、工事中のさまざまな苦痛を頭に浮かべ、同僚の死や莫大な借財のことなどを思い、 胸の張り裂ける思いで小さな松を植えられたことであろう。その松の根元に侍の涙が雨のように落ちたと思われる。 悲しい涙を吸って二百四十数年生き続けた松は今日も梢に風を受け、松籟が昔の物語を語り伝えるかのように哀調の響きを発している。 |
薩摩義士の精神 |
薩摩義士の成し遂げられた偉業は工事の困難なことにおいて、また精神を貫かれたことにおいて前代未聞であり、将来もまた あり得ないことと思う。 薩摩義士は工事中千辛万苦によく耐えて国土の安全を図り、水に苦しむ数十万の同朋を救済しながら従容として腹かき切って節に準じ、 薩摩に伝わる仁義の精神を全うしたものである。 つまり身を殺して仁を成した行為は、実に人間業では出来ない難中の難事を成し遂げたもので、あの有名な赤穂義士の私怨を 晴らした壮挙などとは全く本質を異にし、日本においても、外国においても、又将来においてもあり得ない世界唯一つの義士で、 これこそ正に義士中の義士と申すべきであろう。 |
後世の人の心構え |
私たちはこの崇高な精神を尊び、治水に対する関心を強め、治水を考えるとき薩摩義士の映像が浮き彫りに成るほど 人の心の中に薩摩義士を生き返らせるべきである。そしてこの精神を鑑とし感謝の真心を捧げながら、絶えず心の洗濯を行ない、 たゆまず心の成長を願って行くべきであると、強く願うものである。 人の心が成長してゆく処に社会の潤いと、人の幸せがもたらせられるものと信じて止まない。 |
薩摩義士顕彰のゆえん |
ところで今の社会は大きく進み、限りない物質の恩恵を受けている。その反面、他を省みない自己中心の風潮がみなぎり、 人の心は公害を受けて殺伐の気が次第に広がりつつある。 今こそ薩摩義士の身を殺して仁を成す精神を深くかみしめ、心の原点に帰って社会の有難さを味わい、心の成長を図ってゆくべきではなかろうか。 これこそ薩摩義士顕彰のゆえんと云えよう。 |