千本松原 岐阜県海津町 | 薩摩藩士達が堤防に植えた日向松の並木 |
当時は木曾・長良・揖斐の流れが、ここ油島で合流し、一面は海のようであった。 宝暦治水工事ではここに締切堤を作り その流れを二つに分け、水の勢いを弱めた。しかしその計画は尾張藩の圧力で完全な治水工事と言えなかった。 工事完成を期して、薩摩藩士達が堤防に植えた日向松の並木がその威容を今日に伝えている。 木曾・長良・揖斐の三川を完全に分流し、現在の流れのようになるのは、幕藩体制の終わる明治になってからである。 |
隼人橋 昭和29年架橋 岐阜県海津町治水神社 |
平田橋 昭和30年9月架橋 鹿児島市平之町 |
慷慨松(こうがいまつ) 岐阜県海津町油島 |
薩摩焼焼酎徳利 三重県桑名市海蔵寺 |
宝暦治水工事の内容は実に熾烈なものでした。工事着工後 2ヶ月ほどして、四の手に従事していた薩摩藩士の永吉惣兵衛 と永吉貞淵は工事現場での幕府役人との軋轢や、工事の遅れ の責任をとって現場で切腹して相果てたと伝えられる。 工事の完成後油島締切堤に植えた松が二股に分かれ、また つながり笄(かんざし・こうがいとも言う)に似た姿で成長し、2人の 霊魂が松に顕れたものと人々が噂をして、いつからか慷慨松と 呼ばれていた。 昭和34年の伊勢湾台風で倒壊して現存しない。 |
油島の農家でしょうゆ入れとして使われていたが薩摩義士の 遺品として発見され、昭和3年4月桑名の海蔵寺に収められ 以後、寺宝として伝えられている。 薩摩焼きの焼酎徳利で高さ1尺5寸(約45センチほど)容量は 二升四合入り。表には「御用 御膳酒」、「枡太」と筆書きされ 裏には「戍五十」と書かれている。 「枡太」とは運送途中の中味の減少を加味して少し多めに中味を 詰めたことを言う。 「戍五十」は宝暦4年が甲戍の年にあたり、この年に50個詰めら れたことを言う。 宝暦4年7月、藩主薩摩守島津重年が世子重豪(幼名善次郎)を ともない江戸参勤の途中、美濃に立ち寄り工事現場の視察をし、 藩士達を見舞っている。 その時に郷土の芋焼酎を差し入れたのだろうと言われている。 |
役館跡義士使用の井戸 岐阜県養老町大牧 |
蛇 籠 岐阜県海津町 |
平田靱負等がいた大牧本小屋役館で使われた井戸。 現在は大牧役館跡の裏手、個人宅の庭の中にある。 |
川を埋める時に石を使うが、水の勢いによって流されてしまう。 これを防ぐため、竹で細長いかごを編んで、その中に石を詰めこみ 川に沈めた。石の入った蛇籠を隙間なく並べ、その隙間にも石を 詰めていくことによって、流れに負けない石の壁を作っていった。 |
義士埋葬の甕(天照寺) 岐阜県養老町根古地 | |
洪水で根古地で堤防が決壊し大きな被害が出た。 昭和35年6月県道復旧工事の際、道路の下から発掘された。 |