遠い国として(誤解がいっぱい)

 イスラムやアラブ,砂漠や砂漠の生き物に対する誤解,文化風習の違いによる誤解・・・様々な誤解があるようです。私が聞いたことがある誤解について,理解している範囲で考えを述べさせてもらえればと思います。

1.男の人は妻を4人までもてるなんてとんでもない!

2.女の人がベールをかぶらなくちゃいけないなんて,差別だ!

3.女性の社会への進出が阻まれている!

4.男同士が手をつないで歩いていて気持ち悪い!

5.イスラム原理主義は危険な集団である!

6.イスラム教は暴力的である!

7.アラブ人は怖い

8.やっぱりイスラム教は窮屈だ

9.アラブ人はターバンを巻いている

10.らくだのこぶには水が入っている

11.1日に5回もお祈りするのって暇なんじゃない?

12.スンニ派とシーア派はけんかをしている

13.イラクが2003年3月20日に攻撃を受けたのは,9・11の報復である。

 

1.男の人は妻を4人までもてるなんてとんでもない!
 

 イスラムでは4人まで妻を持つことが認められています。このことについて,日本でいう妾のことだとか,愛人だとか言う人がいます。とんでもない誤解です。

 このルールが生まれた背景には,戦いの多い時代に「どう女性を救うか」ということがあるように思います。どうして妻となることが救われることになるかというと,イスラムの元では生活費はすべて男性が負担することになっており,夫がどれだけ苦しくて,妻が金を持っていたとしても女性が出す必要はないことになっていることや,婚約時には離婚時の慰謝料まではっきりさせることなどがあります。つまり,妻となることによって,女性は生活に困らなくなるということなのです。愛が先か生活が先かなどという話になるとこれは別の話になってしまいますが,とにかく,一人で生活に苦しみながら生きていく女性を少なくしよう,という発想だと捉えてください。

 なぜ,女性が苦しまないようにするか。女性人類全体の母として捉えられているからです。人はみな母親から生まれてきます。つまり女性が人類にとってはとても大切なのです。その女性を大切に考えることについては,何も無理がない話ですね。

 さらに,妻を複数持った男性は,どの妻も平等に扱うことが決められています。一人に家を買ったならば,同じ程度の家を他の妻にも買い与えます。誰かに車を買ったなら他の妻にも。飛行機を買ったなら,全員に飛行機を1台ずつ買います。

 全ての妻を平等に扱い,金銭的にも精神的にも苦痛を与えない。これが妻を4人持つことの裏側にあるものです。

 そう,簡単なことではないのです。「いいなあ,モスリムは」なんて,口が裂けても言ってはいけません。

 

2.女の人がベールをかぶらなくちゃいけないなんて,差別だ!

 成人女性の多くの方が,黒いベールを着用されています。ここでは「アバヤ」と呼んでいるシルク等でできたマントのようなものです。さらに頭から黒い布をかぶられたり(つまり顔も覆われている),スカーフのようなものを巻いたり,目だけを出すように頭と口元を覆ったりされています。アメリカがアフガニスタンに戦争を持ち込んだときに,アフガニスタンの女性の多くの方が青色の布をかぶっていらっしゃいました。あの姿も同様の意味合いのものですね。ああいった姿を見て,「女性には服装の自由がない」「女性は隠れていなくてはいけない」などという声を聞くことがあります。

 女性は守られている,と上に書きました。昔から男はどうしても誘惑に負けて女性に気がそそられてしまうようです。その弱い男どもから女性を守らなければならない,というのが根本にあるのではないでしょうか。どんな顔をしているか分からなければ,またどんな姿をしているか分からなければ,とりあえず近づきようがない。女性にとってもいろいろな男に声をかけられ,わずらわしい思いをせずにすむというわけです。女性に自由な服装をさせないためにベールがあるわけではないことを理解しなくてはなりません。

 UAEでは黒色,アフガニスタンでは前述したように青と色も形もいろいろなのですが,実はアバヤは民族衣装なのです。モスリムが着用するものでも,義務でもありません。そこが一番誤解されているところ。モスリムの話をするならば,男性女性を問わず肌を見せることは伝統的にあまりしないようで,人種を問わず真夏でも長袖長ズボンが一般的です。

 

3.女性の社会への進出が阻まれている!

 「女性は閉じ込められている」「男性だけに特権がある」などと聞くことがあります。一体どこからこういう感覚を持たれたのか不明ですが,一般的に女性は家庭に閉じ込められているように捉えられているようです。アメリカのタリバン攻撃の材料として「女性には教育も受けさせない」というのが強調されていたことによるのかもしれません。逆に言えば,女性に働かせなければ生活を維持できない男性の方がふがいないともいえます。また家庭を守り子どもの成長を支える役割が母親にとっての大きな仕事であると考えていたのかもしれません。

 しかしアブダビで見る限り,電話局にも水道局にもどこにでも女性が働く姿が見られ,町を闊歩し,ショッピングモールでは夫に大きな紙袋を持たせて買い物に歩く姿があります。女性校長もいます。確かに大臣に女性はいませんが,社会への進出が阻まれているとか,家庭に閉じ込められているという様子は感じられません。

4.男同士が手をつないで歩いていて気持ち悪い!

 街中では男性同士が手をつないで歩いている様子がよく見られます。おっちゃんどうしの自転車二人乗りとか,肩を組んで座っている姿とか,よくあります。それらを見て,「同性愛ばかりだ」「気持ち悪いわね」と口にする人がいます。

 心理学の本などを読むと「他人との距離が45cm以上近づくことができたら,それは親近感を持っているということである」などと書いてあります。この「45cm」という数字は,どの文化・風習・生活習慣・生活様式から生まれた数字なのでしょう。心理学の本がどの文化の下で書かれたものか分かりませんが,世界中のどこでもそれが通用するわけはないですよね。親近感を持っている状態が1mの文化もあれば,0cmという文化もあるでしょう。1kmかもしれません。

 手をつないでいるおっちゃんたちは仲良しなのでしょう。異国の地で安心感を得るための行動について,我々が口をはさむことはできませんね。

 知り合いのエジプト人から言われたことがあります。「私達はどうしても自分を基準に判断してしまう。毎日風呂に入るのが当然だとか,服を着替えるとかいうことも,基準はその人たちにある。収入にしてもそう。日本人は収入が多い。それを基準にこの国で働いている人を見てはいけない。私たちの感覚で「貧しい」「かわいそう」「ひどい」などと思うのは間違っているし,実際そうではない。気をつけなさい。」  手をつないでいる話とはずれてしまいましたが,私たちの狭い価値観で世の中を見つめてはいけないということについては,共通していることだと思います。

5.イスラム原理主義は危険な集団である!

 大学生の頃「原理につかまると危ないぞ」などと言われました。当時何のことだかさっぱり分からなかったのですが,最近新聞やニュース上で「イスラム原理主義集団による犯行」「イスラム原理主義指導者暗殺」などというタイトルを見かけたり,タリバンがらみで原理主義者が武装などという記事を読んだりします。そういった記事等から,イスラム原理主義=危険集団という図式があるようにみえてしかたありません。

 イスラムは7世紀におきました。「人は弱い存在である」ことを基本理念としてその弱さに負けないようにいろいろな約束ができました。酒を飲まないというのもその一つでしょうし,不倫などは死刑にも値する罰が待っているのも,窃盗は手首切断という罰則があるのもそれに因るものでしょう。しかし考えてみれば,自分が神との契約のもと,質素で他を慈しむ生活をしていれば,天国にいけるという発想は清らかなものです。どの宗教でも,勃興当時の発想は同じようなものでしょう。荒れた生活を戒め,欲にかられず,自分を高めることを求めるために,神に祈るようなものです。

 そのイスラム勃興当時の質素な生活に戻ろう,競争や欲にかられた生活の中で他人を蹴落とすことばかり考えるような生活はやめよう,豊か過ぎる生活の中でものを大切にしたり他人を大事にする心を取り戻そう,というのが原理主義だと考えればいいと思います。この「原理主義」という言葉自体はキリスト教の中での運動からきているようですが,言葉がどうというより,考え方としては以上のようなものです。この考え方自体は危険でも何でもありませんね。

 偶像崇拝が禁じられているのは神を人のように扱うことへの畏れであったり,天上の神をあちこちにおかないということであったりするのだと思います。中にはこのことを極端にとらえ,映画や仏像も偶像としてしまうことがあり,無理が生じてしまいました。しかしこれらの行動には,純粋な原理主義の考え方だけではなく,アメリカを代表とする物質主義の国々や帝国主義の国々への警鐘が含まれていると思います。砂漠で生まれ育った宗教には,現代のようなあふれんばかりの物質や,性産業,過剰な企業競争などといった発想はなかったでしょう。それらが流入することで,人々を取り巻く環境が大きく変わりすぎているのは事実です。帝国主義を掲げるアメリカ等の国々は世の中のものさしは自国にあるため,それは理解できません。私たち日本人もほぼ同様でしょう。そういった国々に対し,イスラムはイスラムに任せておけという鐘を鳴らしているのかもしれません。違うものさしで計った場合どちらかに合わせないと話は通じませんね。だったら,大国ではなく,その地域に任せるべきです。その大国が使う「原理主義」という言葉に,私達はごまかされないようにすべきですね。

6.イスラム教は暴力的である

 現在の世界の様子を見ていると,「対イスラム教」という図式が盛んなようです。世界のあちこちでモスリムが迫害を受けています。または「モスリム」がデモ行進を行ったり,アメリカ国旗に火をつけている映像が流され続けます。どうも「イスラムの暴力を許すな」的なプロパガンダがあるような気がしてなりません。

 イスラム教では,防衛のための争いは認めていますが,侵略行為や専制攻撃といったものは認めていません。現在問題となっているイラクについても,クェートへの侵攻はそれ以前にクェートが産油パイプをどこに伸ばしたかを調べれば,理由も見えてきますし,単にイラクのわがままだけでもありません。アメリカがけしかけなければ起きなかった問題だったとも思います。「目には目を,歯には歯を」という言葉を聞いて暴力的なイメージを持たれる人もいるでしょうが,防衛であることに目を向けるべきです。

 イスラム教では自殺も禁じています。「自爆テロ」と呼ばれている行為については,それ以前に多くの身内や親族,仲間が殺され,家を焼かれ,街を壊され,ミサイルを打ち込まれていることを考えれば,自殺には相当せず,防衛のための戦いということになります。アメリカが中心となって創りあげた「国家」に対する,「国際的に認められない国」による戦いを「テロ」と呼び,報道し,「イスラム教徒による暴力」を非難するのは,大きな間違いがあるような気がしてなりません。

7.アラブ人は怖い

 職場にも貼ってありました。アラブ人らしき軍人か警察官がカメラを一杯に抱えた日本人旅行客らしき人を両側から抱えて連れて行こうとしているポスターが。日本のどこかの省庁がつくった「安全管理」のポスターでした。

 どうも日本では「アラブ人は怖い」というイメージがあるように思えてしかたありません。省庁が率先してこんなポスターを作るほどですから。日本で「あっちは怖いんでしょ」「よく無事で」「何にもなかった」と聞かれるのは,アラブ諸国に行くとポスター通り,強引に何かされるという思いがあるからなのでしょう。

  ある日,リワ砂漠にある「fish farm」に行きました。そこにはエジプトから持ってきた魚(テラピアと思われます)の養殖場があります。砂漠の真ん中に水を貯め,卵から育てていきます。そこを見学していたら,オーナーらしきローカルが着ました。そして,次から次へと水槽や水溜,孵化場などを案内してくれます。「すごいだろ,これで商売するんだ」と話してくれます。そして「ちょうど昼時だから,うちへ来て飯食べていきなよ」と誘ってくれました。

 これまた砂漠の中。スタックしている私たちを助け,道案内をしてくれるローカル。

 街の中で道を譲ってくれるのも,迷っている私たちを案内してくれるのも,順番を譲ってくれるのも,ローカルの方が多かったですねえ。

 ひげを生やし,身体が大きく,色が少し黒いことへの偏見なのでしょう。あのポスターも日本人の感覚も。つるつるした顔で,身体も小さく,色が黄色いことが標準なんでしょうね。

8.やっぱりイスラム教は窮屈だ

 「酒を飲んではいけない」「ラマダン中の昼間は何ものどを通してはいけない」「1日5回お祈りをする」・・・という話をすると、多くの日本の方が「やっぱりイスラム教は窮屈だ。日本人でよかったよ」とおっしゃられます。

 「もともと人は弱いもの。世の中の多くの誘惑に負けてしまいがちだ。誘惑に負けてしまったとき、本来の自分を失ってしまうことがある。この生き方はよくないのではないか」という発想がイスラムにはあります。酒を飲まないようにしているのは、もともとこうした「弱い存在である人」を意識したものなのです。アメリカで以前行われていた禁酒法などと同じではありません。確かに夜の街にはびこる、多くのくだを巻いている日本人たちを見ると、「こうした発散の仕方しかないのか」と情けなくなります。弱い人間だからこそ、その弱さから目をそむけてはいけないのですね。

 あるモスリムは断食について「夏場のラマダン(第9の月)は確かに苦しい。道路わきに立っている飲み水の看板を見ながら、気持ちが負けそうになる。しかし、私たちの生活はいつまでも豊かではありません。また昔の人たちは、私たちのように豊富な食べ物に囲まれて暮らしていたわけでもありません。それを忘れないように断食をしています。」と話してくれたことがあります。また別のモスリムは「ラマダン中は余分なものを口にしないので、胃袋も体も軽くなり、体調もよくなる。ラマダンは自分にとってはとても大切な月。君も是非やるといいよ。」とアドバイスしてくれました。飽食の世の中、見習わなければならない態度ではないかと思うのです。

 本質的には難しい話なのですが、イスラム教は宗教というより、生き方そのものなのです。アッラーに帰依する態度をとりながら、向き合うのは常に自分自身であり、モスリムの生活リズムそのものを形成しています。1日に5回お祈りをすることは、生活リズムを整え、体調を計り、気持ちの有り様を落ち着かせるための大切なポイントです。夜明け前に自分と向き合い、朝に神と語り、昼に呼吸を整え、夕に心を落ち着かせ、夜に感謝の気持ちを持つ。このようなリズムを私たち日本人は持っているでしょうか。妙なリズムはありますよね。正月には神社で参り、結婚式をキリスト教会で挙げ、葬式は寺の坊主に頼む。ただこの私たちのリズムには何の信念も感じられないということだけです。

 窮屈かどうかというのは個人的な感覚だとしても、窮屈だという理由で排斥してしまうようなことがあったら、それは余りにも悲しいことだと思うのです。

9.アラブ人はターバンを巻いている

 アラブ人の男性のイメージは「ターバン」という方も多くいらっしゃるのでしょう。「アラジンと魔法のランプ」などのアニメーションやアトラクションを見れば,確かに大きなターバンを巻いていますね。で,実際はというと,右の写真のおっちゃんたちのような姿が多いと思います。UAEでは頭に巻く布のことを「ガトゥラ」と呼んでいますが,写真左の方のように頭に巻きつけると「ターバン」のように見えますね。ガトゥラはこうして巻きつけたり,両肩に長く垂らしたりして,つけ方は各自の自由です。右の肩のように,帽子をかぶったり,綿の「帽子下」のようなものだったりする方も多くいらっしゃいます。もちろん何もかぶらず,洋服の方も多くいるし,地域的な風習によるものが多いようです。UAEなど湾岸地域はガトゥラを身に着けることが多いのですが,エジプトあたりだと西洋風の服装が一般的だし,アフリカあたりは帽子が多いような気がします。

 アラブ人がアラジンのような服装をしている,というイメージは,日本人は着物を着て刀を差している,というのと近い気がしますね。

 そうそう,ガトゥラの巻き方も年齢によって流行りがあるらしく,比較的若い人は写真のように巻きつける事が多く,年齢が高い人は垂らすようです。垂らし方も両肩に垂らしたり,片方は頭に巻き上げたりして,各自で「格好のいいつけ方」があるらしく,興味深く見る事ができます。

10.らくだのこぶには水が入っている

 らくだのこぶには水が入っていると思っている人も多いようです。

 右にらくだのパーツを示した写真があります。(写真たち(砂漠にて)参考)

 一番上にこぶの写真が入っていますが,これは基本的に脂肪の塊だそうです。水がちゃぷちゃぷしているのではなく,人間と同じように,脂肪として栄養を蓄えています。水や食料がない場合,このこぶは小さくなっていってしまいます。写真では毛が生え変わる時期で,こぶのてっぺんだけに毛が残っていますね。

 ちなみに,らくだは水や食料がなくても,砂漠の中で10日間は生きていられるということです。

 らくだには,こぶと同じように,砂漠で生きるためのしくみがいくつかあります。その一つが,写真一番したの足にあります。らくだの足は丸型で大きな平面となっています。砂に足が沈まないようになっているのです。さらに,足首のところは大変柔らかくなっていて,歩くたびに車のサスペンションが動くように,ショックを吸収しています。長く砂漠を歩くための,実にすばらしい機能を備えているといえます。

 らくだの背に乗って,優雅に歩くベドウィンの写真を見た事があるかもしれません。らくだの背中って,実は揺れも大きく,短気ならくだはすぐに喧嘩をしだすし,よだれは垂らすし,慣れるまで少々時間がかかったものです…。

11.1日に5回もお祈りするのって暇なんじゃない?

 イスラム教徒には1日に5回お祈りすることが義務付けられています。モスリムは「すべきこと」としてお祈りを受け止めています。特に日本人と話をすると,そのお祈りが「暇だから」しているように見えるらしいです。法事も形式化している日本では,仕方のない感想なのかもしれません。しかし「義務」のとらえ方も,少々異なるかもしれません。日本で言う「義務」とは「仕方ないもの」「逃げられないもの」という感覚ではないかと思います。しかしモスリムたちの「義務」は「果たすべき自分の役割」という感覚だと思います。だから,1日に5回のお祈りをきちんと果たす事は「実にすがすがしく」「しっかりできたという充実感」を感じるものだと聞きました。暇だからするのでもなく,仕方ないからするのでもなく,自分がすべきことをきちんと果たそうとする能動的な動機でお祈りに通う事になります。仕事でその時間がない時には,あるべきものが欠けたような気持ちになってしまうのです。

 お祈りが終わったあと,互いにあいさつを交わす事があるそうです。そのときは「ハラマン」と声をかけ,「ジャマァ」と答えるそうです。これは「メッカにある大きな神殿でお祈りができるといいですね」という声かけであり,「あなたこそ,そうあるといいですね」という返事になります。こういったやりとりにも,日本では感じられない「共同体」としてのモスリムのあり方を感じることができます。

 お祈り中の言葉の中には「ラーイラッハイッラッラー モハンマドン ラッスルッラー」(アッラーのほかに神はない。モハンマドは神の預言者である)というものがあります。こういう言葉を唱えるとき,右手の人差し指を伸ばすことがあります。これは,「死後神の審判を受けるときに,この人差し指が,祈りを続けた事を証明してくれる」というような意味があるそうです。

 宗教としてイスラム教を考えるのではなく,彼らの生き方そのものとして考えないと,私たちは大きな誤解をするような気がします。モスクの中には,日本人が無くしてしまった「よりよき生き方を求める姿勢」があると思います。

12.スンニ派とシーア派はけんかをしている

 イラクにアメリカが侵攻して,「サダムがスンニ派だから,シーア派は虐げられている」などといった記事を目にすることがあります。この2つは,大雑把に言って,預言者モハンマドを支持するか,アリーを支持するかという党派の違いで,基本的な考え方としては異なりません。スン ニ派が全体の90%程度を占めているとは言え,互いを否定するわけでもなく存在しています。

 私の知り合いはスンニ派です。その彼にシーア派との関係を聞いたことがあります。彼は次のように話してくれました。

 スンニだシーアだと言い合っても,何も生まれるものはない。「ああそうなんですか」と受け止めるだけ。お祈りの仕方で,少し違うところはある。お祈りの最後に,私たちは両肩の天使に向かってあいさつを交わすが,シーア派は片方だけ。間違ってシーア派のモスクでお祈りをしたことがあり,そのとき自分は間違えてしまったが,それで何をとがめられる事もなかった。確かにモスクの作りも少々違うし,お祈りで額の下に小さな石を置くなど,作法に違いはある。でもそれで,お前は間違っているという事もなかった。そんなことでいがみ合うより,認め合って生きるほうがどれだけ幸せかわからない。

 対立しあった関係として説明したほうが,分かりやすいのかもしれません。しかしシーア派のイランをイラクが攻撃したのは,イラクのシーア派撃退の意思というよりアメリカのイスラム勢力拡大抑制の意図の方が強かったですし,そのためにサダムに援助をしていたのですね。「シーア派の拡大を恐れるサダムは・・・」などという報道は間違っているのだと思います。

 イスラム教は基本的に異教徒を受け入れます。アブダビ市内にはキリスト教会もあり,立派に機能しており,様々な人種の人が十字架に対してお祈りをささげています。それもモスクの横にあったりするのです。アラブの勢力拡大とイスラム教の教えとを混同してはいけません。イスラムは他を受け入れ,強要しないのです。モスリムが入った地域の人たちが,イスラムの教えに共感し自発的に改宗したと考えたほうが自然です。そのイスラム教の中で,スンニだシーアだと区別し,対立しているように示す事自体が間違っていえると思います。

13.イラクが2003年3月20日に攻撃を受けたのは,9・11の報復である。

 これを書いている2004年10月現在の話です。最近,「イラクが2003年からの戦争に巻き込まれたのは,9・11の報復のために,サダム・フセインを殺すためだ」という認識が一般的に多いことに気づきました。特に子どもの中に多いと思われます。「テロを支援するサダムを放置していてはいけない」「サダムが生きていたのでは,世界は平和にならない」などという宣伝が効いたのでしょうか。9・11とイラク戦争が頭の中でスムースに結びついていることに驚きます。9・11以降,「テロ」という言葉がひとり歩きしているような感があります。宣戦布告がなかったり,巨大な力を持たない側の攻撃だったりすると,それらは「テロ」と呼ばれています。第2次世界大戦も,ベトナム戦争も,確か宣戦布告はなかったはず・・・。

 「9・11はテロである」→「イラクはテロを支援している」→「イラクを無力化すればテロは鎮圧できる」→「危険な国だからやっつける」→「イラク戦争を始める」こんな「風が吹けば桶屋がもうかる的発想」で9・11とイラク戦争が結びついてしまっているのでしょうね。

 イランのイスラム勢力を抑えるためにアメリカがイラクに武力支援をしていたこと,サダムがクルド人制圧でガスを使ったことを見逃したこと,アフガニスタンでイスラム戦士としてソ連と戦うウサマにアメリカが勢力支援をしていたこと,イラクの石油パイプラインをアメリカが必死に勢力下に置こうとしていること・・・。こういった事実が抜け落ちてしまっているのです。

 現代の大国が行う戦争に大儀などないでしょう。「自由で民主的な国家を建設するために,戦争をする必要があった。」というプロパガンダの下,多くの人の目は真実から遠のいてしまっているのだと愕然とする思いです。