〜 薩摩藩士・総本部 役館跡〜

▲大牧 薩摩工事役館跡

(総奉行平田靱負終焉の地)
宝暦3年2月25日(1753)  徳川9代将軍家重が薩摩藩に木曽川治水工事御手伝普請を
申し伝え、宝暦4年1月21日(1754)には江戸から先発隊が美濃に向けて出発。
一方薩摩からは宝暦4年1月29日、平田靱負(ゆきえ)一行が出発。宝暦4年2月9  
日岐阜県養老郡養老町大牧(宝暦当時は牧の字を使用)に到着した。大牧到着後、治水
工事総本部の地として予め選定してあった大牧の豪農、鬼頭兵内の建物を借り受け修繕
して役館とし、これを本小屋(もとごや)と呼んだ。               
 本小屋は鬼頭兵内の屋敷の中にあり敷地は約4900坪。現在は当時の3分の1の面
積となっています。本小屋以外に、羽島郡下中島村石田・庄屋金太夫方、桑名郡木曽岬
村西対海地・百姓平太夫方、海津郡海津町金廻・庄屋源蔵方、海津郡石津村・庄屋武平
次方、安八郡輪之内町大薮・渡辺勘右衛門方の五カ所に出張小屋を設けて、馬廻12人
歩行士36人、足軽若干を置き、直接工事の監督をすることにした。また、薩摩側の出
役人数は届出人数に追加派遣された人数を合計する947人と言われている。    
                                                                              
 その他工事で土地の者を雇いいれた人夫を加算すると総計2,000人にも及んだと
伝えられ、薩摩・幕府方で取り決め計画した四ヶ所の工事区間は下記の通りである。  
                                                                              
 一の手  愛知県祖父江町・神明津輪中〜羽島市桑原町・小薮輪中        
                                                                              
 二の手  愛知県海部郡弥富町・森津輪中〜三重県桑名郡木曽岬町・田代輪中   
                                                                              
 三の手  安八郡墨俣輪中〜海津町・本阿弥新田輪中              
                                                                              
 四の手  海津町・金廻輪中〜桑名市地蔵口                  
                                                                              
 宝暦4年2月22日作業に着手し、翌5年3月28日工事が完了した。そして5月24日平
田靭負は薩摩にいる国家老ヘ宛て、5月22日をもって工事は総て滞りなく終り、幕府ヘ
引渡し済みとなった主旨の書面を認め、これを薩摩の守ヘ報ずるとともにその翌日25日
任地大巻の役館に於て東天に出初めた日の出をふし拝み、西方に向かって主家の隆盛を
心から祈念しつつ、                              

「住みなれし 里も今更名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃の大牧」

という辞世の句を残し全ての責任一身におい、悲壮なる最後を遂げたのである。   
享年52才平田靱負の遺骨は揖斐川を下り桑名に降り立ち、安龍院(三重県桑名市堤原)
にて一晩安置され、翌朝直ちに東海道を上り京都伏見の大黒寺に運ばれ埋葬された。 
安龍院は以後に廃寺となり、同じ曹洞宗の海蔵寺に改葬になっている。       



メールの宛先はscogaki@mb.gi.net.or.jpまで