宝暦治水にまつわる悲話

▲薩摩義士像(治水神社内)

刀を鍬に持ち替えて

 宝暦3年(1753)12月 幕府より「美濃の国ヘ出向き治水工事をせよ」工費14万両
用意し、すぐ出向けとのお達しでした。                     
薩摩77万石の参勤交代費、先代将軍(徳川吉宗)の娘、竹姫の押し付け結婚により多
額の結婚費用や住居費などで莫大な負債により勢力を削ぐことが、幕府の目的でした。
 特に薩摩は、関ケ原戦には西軍に付き、西軍の負けが決まると引き上げるとき大胆に
も敵のまん中を通ってしりぞいたこともあり 幕府は薩摩を危険と考えていた。   
 9代将軍(徳川家重)時、徳川三代納言の一人尾張、徳川宗勝の娘二人を縁談に差し
出したが 一人は早死に、もう一人は島津公が破棄し その恨みが、吉宗死後始まり治水
工事をやらせて薩摩の財産を空にいたし自然に滅亡させるのが目的でした。     
 薩摩では、企みがわかり77万石をもって徳川800万石を打ち倒す! 涌きたつ藩
士たちを制して、平田靱負は、「幕府と戦えば、この地は戦場となり罪のない子供、百
姓までが命を落す。ならばこの治水工事を受けることによって美濃の民百姓の命は救わ
られ、仁義の道にも添いひいては家安泰につながる」と皆を説得し、藩主島津重年も決
断した。かくして薩摩藩士一行は、美濃まで約1,200km総奉行平田靱負以下947名、宝暦
4年1月悲壮なる決意で旅立った。                       
宝暦4年閏2月美濃の国に着き、木曽川/木曽郡針盛山を源が発し川長227 km・長良川
/高鷲村大日岳を源が発し川長 166km揖斐川/徳山村冠山を源が発し川長121km 。この
三川の安八郡墨俣付近〜桑名市・愛知県弥富町まで堤防延長 120kmを堤防修復や堤防新
築などを土工姿で約1年半かけて前代未聞の工事をやりました。          
 しかし、厳しい屈辱の日々でした。例えば、物品は決して安く売るな! 藩士たちが
身を寄せる宿泊先の村人たちに食事は、「一汁・一菜だけ・酒や魚は禁止」病気になっ
ても必要以上に手当はしなくてもよい!など過酷な控でした。             
また、石積みをして、その結果を役人に申しでると「これでよい!」と答えたのに代官
が、「こんな積み方ではいけない」と言い0Kを出した役人も同様に「私の指示通り積
んでいない!」と責任を回避。藩士たちは何も言えません。            
 また、逆川(羽島市)の工事完成間近になると密令された者によって破壊されるなど
非情なものでした。ですので予算以上に莫大な費用を費やし、屈辱・忍に絶えられず 
再び「あの噴煙たなびく桜島を眺める」こともなく自害する者、家族・家庭・子を思い
ながら、必要以上の手当もしてもらえぬ為病死する者。風土・言葉・徒労感や責任感・
失望感も理由ではないでしょうか。平田靱負は、自害者を「病死にせよ!」と願い出ま
した。これは、武士社会での割腹は「お家断絶に処する」と定められていたのです。そ
う判断した平田靱負の苦悩が偲ばれるのではないでしょうか。           
 ついに宝暦5年5月すべての工事区域が完成。幕府の検査も終りさすが幕府側も工事中
は罵声を浴びせた人も「日本中どこを探しても、この工事ほど素晴らしいものはないと
ほめ讃えました。                               
そして、5月25日/平田靱負は、島津重年公に工事完成の書簡を出し、養老町大牧の
役館にて東の日の出を拝し西方に向かい                     

「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞ わずらふ 美濃の大牧」

という辞世の句を残し自害・病死にて散って行った若き藩士達・工事の全責任を取り自
害致しました。 享年52才。                         
死を聞き、藩主島津重年公の病気もそれ以後急激に悪化し6月16日、27才の若さで
この世を去りました。                             

   割腹52名・病死33名   総費用約40万両(約300億円)      

残った藩士たちは、この苦闘に耐えて治水工事を成した完成記念及空に散っていった亡
き藩士たちの弔いと言う複雑な気持を込めて薩摩から日向松を取り寄せ油島に植え付け
ました。                                   
いまで言う千本松原、あの松こそ薩摩の人たちが血と汗と涙と感情が混ざった遺品なの
です。                                    

余談                                     
薩摩のいままでの総借財約271万両は、幕府をあてにせず砂糖を製造し、泡盛酒・陶
器などを製造して20年有余年かけ中国・韓国ヘ輸出して返済したとも言われています



メールの宛先はscogaki@mb.gi.net.or.jpまで