〜四の手工事〜

▲治水観音堂(千本松原治水神社内)

(毎年10月25日 秋季法要が行われている)

海津町・金廻輪中〜桑名市地蔵口迄

 四の手工事は、木曽川と揖斐川の川を二つに分けるのがメインの工事でした。   
また、この油島の締切工事が宝暦治水工事の中でも難工事でもありました。     
では、どうして難工事なのかと言うと木曽川と揖斐川の川低の差が約3メートルもあり
水深も深く、その急流を分断することは当時は不可能と考えられていました。    
 地元の庄屋などの強い要望により、油島から松の木までの締切り堤防の工事が   
1754年9月24日より開始しました。                    
 工事は、まず下埋めからです。ボロ舟に石を積んで沈め、あるいは大木の枝に石を縛
り付け、定められた所へ運んで切り落し、泳いで帰るなど大変危険な作業です。   
だんだん下埋めが出来、そこに地形と呼ばれる枠を沈め、川底に並べることから本格的
に堤防工事が始まりました。地形は(枠1辺4・2メートル)重さはとても重く、激流
の川の流れの中で真直に立てることは大変な労働でした。             
この枠作りも地元大工に作らせたのだが、賃金は幕府が負担の取り交しが結局薩摩藩が
負担の羽目になった。                             
10月13日からは松ノ木の方からも工事が始まりました。            
1755年1月堤防は締切らず中間をあけておくことになりました。どうしてかと言う
と付近の輪中の人達の締切ったら水位が上がるという心配があった為です。     
ですので油島堤防は締切堤防ではありませんでした。この時松の木側360メートルに
油島側990メートルに変更。最終案は2月に決定。完成は3月27日でした。   
完成記念及自害者を弔う為、この堤防に薩摩より取り寄せた日向松を植えたことは余り
知られていない。                               



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