〜三の手工事〜

▲薩摩堰遺跡(安八郡輪之内町)



安八郡墨俣輪中〜海津町・本阿弥新田輪中迄

 三の手工事の難工事の一つである大榑川洗堰は、今の安八郡輪之内町大薮付近から長
良川から分流して海津郡平田町今尾付近で揖斐川(長良川に比べると2m以上低い)に
合流するところでした。長良川が増水すると、水は、八尺(2,4m)も水位が低い大
榑川におしよせ、流域に多大の被害およぼしていた。大榑川は、それ以前に長良川の洪
水に悩んだ高須輪中の村々が願い出て、自分たちでつくった(1619年)人工の川で
長良川の水害は少なくなっていたが、今度は大榑川や揖斐川の流域に被害が出るように
なっていたのである。大榑川の堤防工事は(当初設計)長良川の分岐点に完全に締め切
る堤防にするか(設計変更)水勢をやわらげるだけの洗堰か決まらないままお手伝い普
請(秋譜請)に加えられたのである。                      
 大榑川堤防工事は、本堤で締切れば下流長良川の水量が増え洪水の恐れありとの判断
で、宝暦五年二月、洗堰とすると決まり、工事を急いだ。長良川と分流する喰違堰から
250m下流に長さ98間約180m幅23間約42m(上流から水請3間、洗堰5間
、水落とし水敲き5間3段)を造り、その全面を石の上葺蛇籠でおおう。出水1.2m
まではこの石堰で水を堰き止め、それ以上に増水すれば、水がこの石堰を乗り越え流れ
るようになっていた。                             
そしてこの石堰によって水の勢いは著しく緩やかになるように設計されていました。し
かしこの場所は、水底も深く流れも速いために、仮締切を行う事すらもたいへんな難工
事となった。進まぬ工事に人柱を立てたといわれている。苦心と努力の末、宝暦5年3
月28日この難工事は見事に完成した。その見事な出来栄えは近隣の噂を呼び、以来そ
の業績を讃え『薩摩堰』と呼ばれた。                      
 その後の三川分流工事の完成により、大榑川洗堰は福束輪中と高須輪中の間の低地 
(水田)として姿を変え、『大榑川洗堰碑』と『薩摩堰遺跡』の記念碑が薩摩義士の偉
業を語りかけている。                             



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