〜二の手工事〜

▲宝暦治水薩摩義士墓所海蔵寺

(三重県桑名市北寺町10番地)


愛知県海部郡弥富町・森津輪中〜三重県桑名郡木曽岬町・田代輪中


 二の手工事区域は、愛知県海部郡弥富町鎌島〜桑名郡木曽岬町田代輪中迄で、木曽川
河口付近にあたります。この周辺の工事の理由は、木曽川の流れを変えるためで、河口
にいくつも作られた輪中を水害から守るために、木曽川の水をうまく海ヘ流せるかであ
りました。                                  
 この二の手の工事は、筏川の川ざらえが主となり、筏川の川上(上流部分)を巾90
mに切り広げ、河口付近までの長さ1・5kmにわたって、川ざらえをすることであっ
た。(土砂を取り除き水の流れを穏やかにする)木曽川の河口には全面に州が出来てい
たため、中央部に掘割を作り、猿尾(一の手参照)を作って水の流れを良くすることた
った。                                    
 現在の筏川は、位置は変わっていますが、明治24年オランダ技工師、ヨハネスデレ
ーケの改修により締切られ、当時の面影はない。その他の二の手工事は、筏橋新田を守
る為に猿尾や杭並べもあった。                         
 二の手工事区域の本拠地となったのは、鐙玄寺(しょうげんじ)でその寺には、内藤
十左衛門の自刃之墓がある。内藤十左衛門は美濃国在住の水行奉行高木家の家来であり
幕府方のたった一人の切腹者であった。                     
彼は工事をしている土地の庄屋との折り合いが悪く、その工事の不備を指摘され、高木
家に責任が及ぶのを恐れ、自らの責任として、宝暦4年4月 22日宿所としていた弥
富町百姓彦八方で自害しました。墓所は、岐阜市岩崎の霊松院。二の手工事区域は、宝
暦4年2月7日に御鰍始めがなされ、工事は正式に始まり4月には完成しました。各々
の担当区域では、一番早く完成し自害者及病死者も意外に少ないとのことでした。  
 木曽三川の流域に住む人々には、毎年春役といって堤防等の保全作業に従事にしなけ
ればならない義務がありました。春譜請は当然無償のものですが、今回は、薩摩藩のお
手伝いに組入れた為、無償なものが有償労働となったそうです。矛盾しています。  
 
海蔵寺について
 薩摩藩士たちは、幕府の冷酷極まる圧迫に自害したり、はやり病で、病死した者が多 数いたが、治水工事の場で死んだ者ゆえに、寺々も幕府を怖れて葬いを拒否しました。 たまたま海蔵寺に来てその事を言ったところ早速弔いをと、快く承諾し真夜中に寺の裏 の竹薮の中に埋葬しました。海蔵寺には、平田靱負(供養塔)など24名の二の手と四 の手の薩摩義士の墓があります。                        



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