猿尾と言うのは蛇行した川の曲がるところ、台風・豪雨時川の流れが強く当たるとこ ろに、流れを弱めるため岸から川中ヘ幅約5メートル、長さ約100メートル程突出た 堤防の事で、今でもその原形を止めているのが石田の猿尾です。(羽島市石田町)細長 い竹の篭に石を詰め一つの帯び状にしてそれを幾つも川底に積み重ねて作られている。 川底は、石ころの無い砂地でやわらかく、いくら石を入れてものみこんでしまいます。 そこで藩士たちは竹篭に石を入れそれを沈め猿尾を作るわけですが、豪雨時は石も流さ れるため流されないために細長い竹篭(蛇かご)に石を入れて用いました。竹篭、直径 30センチ長さ5〜6メートルが基本です。水深にもよりけりですが、完成までに竹篭 約4千個〜6千個必要でした(推定)。川底の基礎ができると次は水中作業です。水上 に姿を現わすまで積み上げていくわけです。 当時は、技法もないため木曽川の水の締切りはできず竹篭が流されないように水中で 杭を打ち溺れかかる者、幕府からのお達しで負傷しても必要以上に手当がしてもらえぬ など過酷なものです。一の手工事はいち早く完成はしましたが、その逆川(羽島市)が 流れている村人達にとっては、それが必ずしも良い工事と思わない者達もおりました。 (木曽川の水は西の低い長良川の方に流れ込む)また幕府の密令を受けた者達によって 出来上がった堤を度々破壊された事もあった。 ここの一の手工事は猿尾を作る水工事だけで終るものではありませんでした。 薩摩藩のお手伝いによる水工事のなりゆきを見守っていた庄屋たちは、工事に余裕があ るとみると、村々が連合して、代官や、水奉行と交渉し、自分たちの田んぼの仕事を工 事にくみ入れさせました。現在の羽島市桑原町小薮(田畑掘り・約64ヘクタール)が それです。薩摩藩士たちは、治水工事にやって来たのに、農業の手伝いまでもさせられ ることに、誰もが納得いきません。 何より薩摩藩士たちが理解できないのは、ここの百姓を制圧支配する庄屋たちの力が 強く地元の奉行も、彼らの力におされていることでした。
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