成道への路 熊野へ
 

 一遍上人は、四国菅生の岩屋での修行の後、初めて布教の道を歩み始めました。布教の方法は、「賦算」(ふさん)というもので、「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」と刷ってある札を、

「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給うべし」

といって諸国行脚の先々で出会う人々に配って歩くという方法でした。


賦算札
 当時、高野聖や善光寺聖らによってなされていた布教方法と同一の方法ですが、札に書かれた六十万人決定往生というところが、一遍上人独自のものです。
 この六十万人とは、単に数を表すばかりではなく、次のような意味が込められています。

字名号一遍法
(訳:六字の名号は一遍の法、絶対不二の法である)
界依正一遍体(訳:仏も衆生もすべて絶対不二の名号体内の徳のあらわれである)
行離念一遍証(訳:あらゆる自力の行も、念仏申して執着の念を離れるとき、絶対不二のさとりとなる)
中上々妙好華(訳:このような行者こそ人中の最上の人、あたかも泥中の白蓮華にもたとえるべき人である)

 一遍上人は、伊予を出てから四天王寺へ向かい、この地から賦算を行いながら高野山を目指します。平安時代中期頃より高野山は浄土教色が濃厚になり、念仏聖達が大勢集まっていました。ここでの一遍上人の行動について、聖絵は詳しく語っていません。
 その後、一遍上人は熊野大社を目指します。 詳しくは紀行文内で書きますが、ここで「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」といわせしめる決定的な開眼をみます。 この時こそ、真の一遍上人、時宗が産まれた時だったのです。

 一遍上人が布教した鎌倉時代も今も、ほとんどの人々は高尚な仏典を理解することはかないません。もしも、その深遠な教理を我がものとする事ができなければ成仏(真のやすらぎ)できないとするなら、僕は自棄になって暴れ回るほかありません。頭がクラクラするほど仏典の言葉を反芻しても、言葉が身に消化されてこないのです。生まれた時に決定づけられた頭脳(理解力)によって成仏が決まるなら、もう仏法は人の世に存在する価値などないと思うのです。
 しかし、釈迦は「一切衆生ことごとく仏性あり」と述べています。また、法蔵菩薩は成仏への四十八の誓願の第十八で、

「もし我、成仏せむに、十方の衆生、我が名号を称して、下十声に至るまで、もし往生せずば正覚を取らじ」

と誓い、その後、正覚を得たのですから、唱名するすべての人が成仏できることが明らかにされているわけです。
 これを、どこまで信じるかは別として、僕はそこに広く暖かい救いの手を感じずにはいられません。一遍上人の目指した念仏は、こんなあまっちょろいものではないでしょうが、そのきびしい透徹した教えの奥底にこういう暖かみを感じるのは間違いでしょうか?


 四天王寺----->高野山------->熊野古道(中辺路)----->熊野本宮

 一遍上人の熊野への足跡は上記のようです。今回は、大阪四天王寺をはずし高野山からの路を辿ってみようと思います。
 高野山にしても熊野にしても、あまりに巨大で深い対象なので、巨像の一本の毛先さえも得る事ができないでしょうが、とりあえず第1回目という事で (^^;;

熊野ツーリング行程表(レポートを見るには日付をクリックしてください)
日程 行程
2002.10.18 自宅--->東名阪自動車道---->R24---->高野山---->
高野竜神スカイライン---->竜神温泉---->R425(小辺路)---->
熊野本宮大社---->速玉大社---->太地YH
2002.10.19 太地YH---->那智大社(那智の滝、青岸渡寺)---->R42---->
大台町---->伊勢自動車道---->東名阪自動車道---->自宅

行程図
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