森田草平が描いた岐阜
森田草平の自叙伝「輪廻」にも岐阜のことは書かれていますが、
この頁では出世作「煤煙」で岐阜を偲んで見ましょう
| 郷里の風景を筆にとどめる「煤煙」 |
森田草平は、明治14年3月方県郡鷺山村(現 岐阜市鷺山)の農家に生れ、明治28年岐阜市高等小学校(現 京町小)を卒業し、14歳の若さで上京。東京帝国大学英文科に入学後、25歳の時、自作の小説を読んでもらおうと夏目漱石を訪ね、門下生として師事することになりました。
ところがその3年後、草平は心中未遂事件を起こします。相手は、日本女子大の学生であった平塚明子。のちに女性解放運勤の先覚者として活躍した平塚らいてう。二人は文学研究会を通して親密になり、雪の尾花峠で心中を図ったのです。エリート同士の心中未遂は当然マスコミに騒がれ、草平は世間の非難を浴びることに。漱石はそんな草平を守リ、事件を題材に作品を書くよう勧めました。こうして自らをモデルにして、真相を暴露したのが長編小説『煤煙』。明治42年から朝日新聞に連載され、草平は一躍有名作家となりました。
冒頭の舞台は岐阜市。主人公の小島要吉が三年ぶりに帰省し、岐阜駅より人力車に乗って鷺山村へ婦る場面から始まります。 |
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左
は
煤
煙
の
冒
頭 |
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| 当時明治40年頃の岐阜市の略図 |
明治39年の冬か、40年初の頃、岐阜駅は長住町十六銀行あたりの位置にあって、そこから北へ八間路が延ぴていた。今の神田町通りである。路幅が8間(15m)あった。何しろ、車か、馬車以外に大きいものは通らない時代だ。15m幅員は立派な通りであった。そこにはずっと柳並木が両側に植わっていた。
「煤煙」の主人公要吉は、久しぶりに郷里の八間路を人力車て通る。人力車もゴム輪の出来ない前のだから「りんりんと轟く」わけだ。
作中、「間もなく芝居小屋の幟だの看板だのがごたごたした人通の劇しい十宇街へ出た」とあるのはいうまてもなく柳ケ瀬である。
今の中日ビルのあたりに朝日座という小屋、東側、今の美殿通りを這入ったあたりに美殿座という小屋があった。
又、神田町通り、朝日座の裏手の位置に勧工場と称して今日でいうデパートがあって、それに並んで色物小屋があった。この小屋は後には電気館といって、活動写真の常設館になったが、「人通りの劇しい」盛り場てあった。
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| 明治42年頃の岐阜 |
ここを突ききって「滑川に沿うて行くと暫く監獄の裏手になる」とある。滑川というのはどうも川の名前ではないようだ。鶯谷から出て初音町裏あたりの瑞竜寺山を迂回し、美園町通りを突ききり、川端町を西流、今の市庁舎の南を流れる小川であることはたしかだ。今はコンクリートて蓋をして道路になっている。
現市庁舎の敷地に裁判所があって、その裏一帯、今の裁判所、中電の位置に監獄があった。長く高い板塀が頑丈にしつらえられ、小川の流れの一部は、たしがその塀に沿うていた。
小島要吉の人力車は八間路から監獄の塀にしたがって、今の金華橋通り附近の道を四屋町に出て、その見附から堤の上にあがり、堤防上の道を長良橋へ出たのであろう。
四屋の下流に「番場の渡」」というのがあった。行人はこの渡船によって鷺山へいったのだが、人力車だから上流の長良橋まて迂回するのである。
八間路を伊奈波通りまで北進、未広町を北へ、公園附近を通って長良橋へ出る連路もあったであろうが、四屋から、堤上を行った方が幾分近い距雛だったのだろう。
長良橋は当時は帛り橋だった。人が通っても揺れるのだ。まして人力車が通ったりすると相当ひどくゆれたに違いない。
なお、番場の渡しのほぽ同じ位置に、昭和39年秋竣工した金華橋だ。
別の、草平の「初恋」という小説に、主人公の少年亮 (一人称の私)が船で釣りに来て、ここから金津遊廓(当時柳ケ瀬の西方今の大富町附近一帯)へ田毎という女郎に逢ううため仁通った。その船を繋いだのが、この番場の渡し附近てあった。
長良橋を渡って、今はなくなったが旧堤肪の上の道を川に沿って下り、崇福寺の少し下流から北へそれて更に西進すると、要吉の故郷鷺山村である。要吉の人力車は草深い田舎道を辿る、勿論、村の入ロには水草小舎などがあって、夜もことんことんという杵の音をぴびがせていたにちがいない。
(以上
「岐阜文学どらいぶ」から) |
| また、後段には左のようなところがある。 |
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長良川は以前は崇福寺の前から二筋の広い河川敷が見られ、洪水のときの遊水地になっていた。古川、古々川である。
草平の時代、今の鷺山本通りから南を見ると、左のような光景だった。
その墓地のある枯野は、今の金華橋北西詰めの辺りであったろう。住宅地化した中に一画、墓地が今も残っている。鷺山村が岐阜市に合併したのは、昭和10年(1935)であった。 |
草平の岐阜を描いた小説には『十字街』というのもある。研究家は「じゅうじがい」と訓むが、草平自身は他の文の中で「よつつじ」とルビをふっている。伊奈波神社前の十字路が当面の題の由来らしいが、人生の町角という思い入れもあったかもしれない。この作品の女主人公おしほのモデルは、草平の最初の妻森田つね。四ツ屋、伊奈波神社、長良橋、馬場の渡し、木場(今、材木町の名をとどめる)などの地名がぷんだんに出てくるし、お年寄しか便えなくなってしまった「ヤットカメダナモ。御機嫌エエカェモ。」(久しぷりですね。御機嫌いいですか)とか、「待ットッテチョウダェシタカナモ。」(待っていてくだざったのですか)というような岐阜弁が、どんどん出てくる。
現在の徹明町あるいは金宝町交差点付近から南を眺めた場面では、
「間もなく、二台の人力車は八間路を驀地に駛つた。停車場の黒い建物が正面に見える。両側の柳の樹も暑さに萎れて白い葉の裏を反して居た。」と記している。 |
また『初恋』は、今の西柳ケ瀬にあった遊廓金津園が主な舞台である。主人公は、大川と呼ぷ長良川本流を舟で下って通う。没落していく旧家の暗ざと、何か鬱屈した情熱の中で、年上の女郎に溺れていった青年期の草平の姿が浮かんでくる。金津遊廓は、昭和19年(1944)戦争が激しくなって、長森手力へ疎開し、戦後五年めの昭和25年(1950)に岐阜駅南へ移転した。「ふと見ると、正面のやや黄ばんだ森の外れにぼかぼかと煙が湧く。つづいて轟と地面を撼がすような音が聞こえた。「あゝ、汽車が−−J私は思わず口走った。そして此方の森から彼方の森迄、田圃に沿ってうねうねと馳る汽車を見送った。」(『初恋』)
明治の未ごろ、西柳ケ瀬辺りからは汽車が見えた。その辺りが岐阜市のはずれで、周囲には田んぼや、薮しか無かったのであろう。今では想像のめぐしようもなく、ただ隔世の感にぷけるばかり。郷土の姿が筆に留められたこれらの作品の責重さに、改め思いを致すのである。(以上 島尻尚子から) |
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