●追記 2

2022.4.5

昨日は、タルコフスキーの誕生日でした。
狙ったわけではありませんが、きりがいいので、「追記」までの更新は行わないことにしました。

どうしても書きたいことがあったので、「追記 2」を作ることにしました。
今後は、こちらに文章を追加することにします。

クリスの夢の中で、母は言います。
「あの人たち、また遅れるのね、呼んでくるわ」

「また」、とは、どういうことか?考えてみました。

2022.4.6

「また」、というのは、過去にもあった、ということです。
しかし、映画の時間の並びは、無限ループしません。
AもBもCも、最初で最後です。
だから、「また」、というのは不自然です。

クリスのこの夢は、ステーションではなく、水草が揺らめく流れる水の中から、生成される時に見る夢です。
映画の時間の並びではCでしたが、物語の時間の並びのAでも、クリスはこの夢を見ています。
物語は無限ループするので、母は、「また」と言っているのです。

そして、夢の中のランチボックスを、Aでクリスは必ず持って生成されます。
Aの家の中で、母の写真が映された後、クリスはランチボックスを窓際に置きます。
ランチボックスは母の置換です。

『惑星ソラリス』という映画は、今まで無限ループしていた物語を、異常終了で終らせる映画です。
無限ループの後に、Cが例外処理として呼び出されたので、「また」と言っています。

物語の時間の並びと比べて、映画の時間の並びのCは、メタ的な意味の時間で「2時間」遅れます。
映画の時間の並びと比べて、物語の時間の並びのAは、メタ的な意味の時間で「2時間」遅れます。

映画の時間の並びのCは、ステーションへの「旅」の後です。
物語の時間の並びのAは、ステーションへの「旅」の後です。

「母さん、僕、少し変なんだ、母さんの顔を忘れてる」
ここは、生成時に記憶がリセットされたから、とします。
リセットされた後、デフォルト値が設定され、母の顔も思い出します。

ビデオ映像の中で母が抱く子犬は、犬の寿命から考えて、地上の犬とは別ですが、親子かもしれません。
地上の犬が、母であることに変わりはありません。

2022.4.7

鏡の部屋のシーンの前に映るモノクロの家の中は、出発の朝です。
そして、ブルーのモノトーンの母の夢は、
物語の時間の並びでは出発の前日の朝で、映画の時間の並びでは出発の前日の焚き火の後です。

時間が未来へも過去へも同時に進んでいます。

ブルーのモノトーンの母の夢は、水草が揺らめく流れる水のから、生成される時に見る夢です。
ステーションで見る夢の中に現われたのは、時間が逆流して、メタ的にフィルムが巻き戻されたからです。

ステーションで見る夢は、カラーです。
クリスはステーションで、モノトーン(モノクロ)の夢を見ていません。
だから、母の夢から覚めて、ハリーの心配をしたのです。
母が作ったランチの入ったランチボックスのことも、ここではまだ知りません。

母はテーブルの上にあった本を手に取り、頁をパラパラとめくって言います。
「あの人たち、また遅れるのね、呼んでくるわ」

母が手に取った本は、『惑星ソラリス』のシナリオです。

『惑星ソラリス』から約半世紀後、
ジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』が、ようやくタルコフスキーに追いついた。

2022.4.8

本文の誤りを訂正。
地上にブランコはありません。ブランコがあるのは父が撮ったビデオの中です。
と書きましたが、地上にブランコはあります。
冒頭、バートンと息子が車から降りて、父と家に向かうシーンで映っています。
ブランコの方向に、クリスが歩いています。
但し、鎖の付き方が、ビデオの中と少し違います。

ビデオの中のブランコの背景は、焚き火のシーンで、伯母が見る地上と同じ場所です。
ビデオの中はホンモノですが、伯母が見る地上は、『雪中の狩人』が絵であるように、幻です。
伯母が見る幻の地上の方角は、水草が揺らめく流れる水の中から、クリスが生成された方角です。

水草、森林、都市、国家、家族、ステーション、主人公、記憶、
すべてはその最初からソラリスの海の幻だったのかもしれません。(2005.1.20)

「すべては幻と笑おうか」(THE BLUE HEARTS『月の爆撃機』より)

映画はスクリーンに、映像という幻を映します。
映画は何度も上映され、無限ループします。(2022.7.25追加)
『惑星ソラリス』という映画は、全ての映画を包含し超越するメタ映画です。

映画フィルムの現像はしたことがないのですが、
アナログ写真の現像は、現像液に浸けた印画紙から、幻が浮かび上がってくるようです。

タルコフスキーが、『惑星ソラリス』でやりたかったことの一つは、映画のルールを壊す、ということです。
しかし、それが巧妙に隠され、時代が早すぎて、当時の誰も気づくことが出来ませんでした。
タルコフスキーとの喧嘩が、”やらせ”でないとしたら、原作者のレムさえも。

今後のタルコフスキー研究に期待します。

2022.6.24

ステーションの廊下の凹面鏡はソラリスの置換で、
地上の家にある気球の絵はソラリスが浮かせているステーションの置換です。

本文で以下のように書きました。

ランチボックスの中には、最初は土と種子が入っていたのです。
ホンモノのギバリャンは、ソラリスに木を植え、花を咲かせ、果物を実らせようとしたのかもしれません。

ソラリスが地上を物質化させたのは、ギバリャンのこの思いからかもしれません。

2022.6.28

もう一度、ラストシーンを見てみます。

カメラが上空に移動して、地上が映し出されます。
地上は3回、雲に隠れます。

2回目の雲が晴れた後、地上が狭くなり、島がソラリスの海に浮かんでいます。
島は海底が隆起しているのではなく、平らな物質を浮かべているのだと思います。

この地上が狭くなったことで、島が消えていくことが分かります。
狭くなる前にあった地上は、物質化ではなく幻と考えていいでしょう。

幻は地上からは見えますが、ステーションからは見えません。(2022.6.29追加)

3回目は雲が晴れずに、そのまま画面が白くなってエンドクレジットです。

問題は1回目の雲が晴れた後です。
よく見ると家の前にあった機械の部品のようなものが消えています。
つまり、水になってソラリスの海へ還っています。
この機械の部品のようなものは何でしょうか?気になります。
確実な証拠はないので想像の域を出ませんが、考えてみました。

この機械の部品のようなものは、映画が始まった最初からあります。
上で、本文の誤りの訂正でも書いた、ブランコの方向に、クリスが歩いているシーン。
機械の部品のようなものは、半分以上が木に隠れていますが映っています。

生前のハリーが映っているビデオの中は、石に隠れてよく見えません。
しかし、10年以上も家の前に、機械の部品のようなものを放置しておくのは不自然です。

ホンモノの地上にあった、とも考えられますが、そうだとしたら、ラストで家より先に消す必要はありません。

考えられるのは、ニセモノの地上が現われた後に、過去のループのどこかで置かれた、ということです。

置かれたのではなく、落ちてきたと言う方がいいでしょう。

機械の部品のようなものは、ステーションの部品と考えられます。

水になる前に空から落ちてきて、地上と一緒にそのまま残ったのです。

しかし、そうだとしたら、もっと部品の数があってもよさそうで す。
家に落ちてきてもいいはずです。
壊れた家の屋根や壁は、復旧作業で元に戻りますが、部品はそのままです。

他には考えられないでしょうか?

空から落ちてくるものは、もう一つあります。

ハリーを乗せたロケットです。

毎回のループで地上から、ロケットが落ちてくるところが見えたと思います。

ソラリスは、ロケットを適当に浮かせて、適当に落としていて、
大部分は幻の地上、つまり海に落ちたのですが、その一つが物質化された地上に落ちてきた、ということです。
ロケットは落ちた衝撃で破壊され、飛び散った細かい部品は処分され、大きな部品だけが残った。

物質化された地上に落ちる確立を計算すれば、過去に最低何回ループしているかが分かるはずです。

ハリーも一緒に落ちてきたのかもしれません。
そして、ソラリスの海に還って、再びクリスの前に現われたのでしょう。

2022.6.29

この映画は、起承転結がはっきりしています。
Aが「起」、Bのハリーの自殺と復活までが「承」、
その後から母の夢のシーンまでが「転」、夢から覚めてラストまでが「結」、です。

「転」の母の夢のシーンを、もう一度、見てみます。
ブルーのモノトーンのシーンです。

上でも書いたように、このシーンは、水草が揺らめく流れる水の中から生成される時、
つまり、ステーションから地上へ移動する時に見る夢です。
だから、ステーションのクリスの部屋と、地上の家の部屋が混在しています。

夢の中のベッドは壁から離れています。
ステーションのベッドは枕元が壁に取り付けられていますが、
鏡の部屋のシーンの後、クリスの部屋のベッドは壁から離れています。
段階的に混在が進行します。

夢の中のベッドと壁の一部が透明ビニールで覆われているのは、時間が逆流しているからです。

出発の朝の地上の家にあった、スプレーボトルが夢の中にもあります。
しかし、出発の朝のスプレーボトルの方が汚れているので、
夢の中のスプレーボトルは、それよりも昔のものです。
人体解剖模型は、出発の前日はカウボーイハットを被っていますが、夢の中では被っていません。
壁の色や絵も違います。

夢の中のステーションのクリスの部屋は、クリスがステーションへ到着した日の部屋です。
夢の中の地上の家の部屋は、母が生きていた時代の部屋です。

ランチボックスは、本文でも書いたように、常に過去から未来へと時間を進めます。
だから芽が出ています。
このランチボックスの時間は、クリスがステーションで夢を見ている時間と同じです。

このブルーのモノトーンのシーンは、二つの空間と、三つの時間が混在します。

しかし、夢の外は、水草が揺らめく流れる水の中から生成される時、
ステーションから地上へ移動する時なので、
それも含めると四つの時間が混在することになります。

2022.6.30

ランチボックスの時間は、メタ的な時間です。
上でも書いたように、水草が揺らめく流れる水の中から、生成される時に見る夢が、
ステーションで見る夢の中に現われたのは、時間が逆流して、メタ的にフィルムが巻き戻されたからです。

2022.6.29

夢の中にある、ステーションのクリスの部屋のものは、ベッドと丸いテーブル、
そして、銀色の大きな収納ボックスです。

この収納ボックスは、クリスがステーションに到着した日に、クリスの部屋で最初に触ったものです。
そして、このシーンはブルーのモノトーンです。
ギバリャンの自撮りビデオを観るシーンも、ブルーのモノトーンです。
そして、夢の中のビデオモニターの前で、クリスと母が会話します。

スプレーボトルがある出発の朝も、ブルーのモノトーンです。

出発の前日の焚き火のシーンも、ブルーのモノトーンです。
焚き火で燃やしているものは、クリスの大学時代の研究書類で、母が生きていた時代のものです。

2022.6.30

本文でも書きましたが、夢の中の母だけが食事をすることが出来ます。
夢や幻の方が、物質化されたニセモノよりホンモノらしい場合があります。

銀色の収納ボックスもそうです。
夢の中の収納ボックスは、留め具を外して蓋を開けることが出来るでしょう。
しかし、物質化されたニセモノの収納ボックスは、蓋を開けることが出来ません。
ハリーの服と同じです。

クリスがハリーを、スナウトとサルトリウスに紹介するシーンで、ハリーが廊下にある何かの装置から、紐を引き抜きます。
この紐も、ハリーの服の紐と同じようなものでしょう。
その紐をサルトリウスが取り上げて、廊下を歩く横で、スナウトが収納ボックスに座って、ボックスの留め具を触っています。
これは、スナウトが何気なく留め具を外そうとして、出来なかったからだと思います。

本文で以下のように書きました。

ソラリスは、幻を見せることが出来ます。
映像は幻です。
Aの最後で伯母が見る広々とした地上も、『雪中の狩人』が絵であるように、幻です。

ビデオの映像も、ラストシーンの物質化され島以外の地上も、幻です。
だから夢の中のビデオモニターに、『雪中の狩人』があるのです。
この絵も映像と同じように幻でしょうか?
しかし、夢の中なので、全てが幻のようなものです。

夢の中の、ベッドとテーブルとビデオモニターは、同じ部屋にあります。
母は、「あの人たち、また遅れるのね、呼んでくるわ」と言って、部屋を出ます。
クリスも母を追って、部屋を出ます。
しかし、同じ部屋に戻っています。

夢の中で部屋から出ることは出来ません。
物語が無限ループしていることの置換です。

部屋から出るには、夢から覚めることです。
無限ループした物語を終わらせるには、メタ的に異常終了させることです。

2022.7.1

水草が揺らめく流れる水は、タルコフスキー的な水です。
タルコフスキー的な水から生成された時にクリスが見る夢はメタ的です。

タルコフスキー的な水が何の隠喩(メタファー)か?というと、究極的な答えは、映画です。

本文でも書きましたが、島は消滅しないので、父と伯母と女の子の記憶は累積されます。
そして、犬と馬も。

伯母と女の子は、父の孤独を癒すためにいます。
女の子はバートンの息子に癒されます。

では、伯母はどうなるのでしょうか?
伯母には何の罪もありません。
無限ループの中で、死ぬことも出来ません。

しかし、伯母はそれが苦痛ではないようにも見えます。
父はバートンのビデオを、「もう何度も見た」と言って、見ません。
しかし、伯母は見ます。

毎回のループで分かり切っていることなのに、伯母は父に、「お客様の泊まるお部屋は?」と聞きます。
父は伯母をじっと見て、「二階がいい」と言います。
他に何か言いたいような表情にも見えます。
そして、最後は少し怒ったように、「部屋で待っててくれ」と言います。

伯母は前のループの記憶が、あまりないようです。
伯母は軽い認知症ではないか?と思います。

犬(母)は罪を償うためにいます。
馬は復旧用の記憶データをバックアップするための媒体です。
馬は、バートンの息子を「じっと見て」、何かを言いたげです。
見た目は馬ですが、人間と同じです。
ギバリャンの想像物である馬が、この映画で最も悲惨です。
癒しも救いもありません。

ハリーは図書室で、「私は人間になります」と言いますが、馬は人間になれません。

上でも書いた、クリスがハリーを、スナウトとサルトリウスに紹介するシーンで、
ハリーが子どもの写真を見て、サルトリウスに「あなたのお子さん?」と聞きます。
サルトリウスは、「スナウトのだ」と答えます。
この写真は実験室で撮ったような写真なので、スナウトの”お客”は、息子ということになります。
娘かもしれませんが、クリスがスナウトの部屋を出るときに見た”お客”は、髪の毛が短いので息子ということにします。
サルトリウスの”お客”も息子のように見えます。

2022.7.2

地上の女の子は、誰の娘なのかはっきりしません。
そして、女の子は最初の、バートンの孫と遊ぶシーンにしか登場しません。(2022.7.25修正)
バートンの孫は、女の子と遊ぶため、女の子を癒すためにいる、と書きましたが、(2022.7.25修正)
むしろ、女の子が、バートンの孫と遊ばせるために、付けたされたようにも見えます。(2022.7.25修正)

この映画には、父と息子・孫が4組も登場します。(2022.7.25修正)
生きた形で物質化された男性の登場人物全員の8人が、この4組の父と息子・孫です。(2022.7.25修正)
バートンのビデオの中の話に登場するフェフネルと、バートンが見た赤ん坊の幻も含めると、5組になります。
死んだ形で物質化されたギバリャンはクリスなので、父と息子・孫の組にギバリャンも含めることが出来ます。(2022.7.25修正)
これは極端に思えます。

クリス(ギバリャン)以外の”お客”は息子です。
生成の象徴は子ども、子は宝。
そうしたシンプルなメッセージもいいでしょう。
しかし、子どもに女の子は含まれていません。

これは、タルコフスキーが「男性中心主義」だからでしょうか?
それとも、わざと極端にして、何かを言いたかったのでしょうか?

ハリーとスナウトに両脇を支えられ、母の夢を見る少し前のクリスが、朦朧として廊下を歩きながら言います。
ギバリャンは「恐怖じゃない、恥のために死んだ」。
クリスはギバリャンなので、これは本音のようにも聞こえます。

「恐怖」とは、本文で書いたように、10年前に殺した妻が目の前に現われ、
殺しても殺しても、生き返って、再び目の前に現われることです。
「恥」とは、愛人の存在です。
ここでも女性が軽んじられ排除されて、男の身勝手さを感じさせます。

しかし、「恥のため」だとしたら、ギバリャンは部屋にあったピストルで自殺すればいいはずです。
妻を殺した同じ方法で、自殺する必要はありません。
「恐怖」から逃れたくて、許しを請うたのです。

2022.8.17

タルコフスキーは「男性中心主義」でしょうか?
『ストーカー』では、ゾーンは「母なる大地」でした。(再考察 I)

『惑星ソラリス』では、母は犬です。
水以外の全ては、ソラリスの海の物質化と幻のニセモノです。
それらの大部分は、ギバリャンの記憶によるものです。
だから、ギバリャンの考え方も再現されているはずです。
「男性中心主義」はギバリャンです。

ギバリャンはクリスです。
クリスは言います。
「非道徳でも目的は遂げられます、ヒロシマのように」

非道徳でも目的を遂げるのが、ギバリャンの考え方のようです。

2022.8.19

ハリーが1回目に現れた時、「あなたこそ髪を振り乱してスナウトみたい」と言います。
クリスは不思議に思い、「どうして彼を知っているんだ」と言います。
これは本文で書いたように、記憶の初期化は生成と同時に行われず、少しタイムラグがあり、前の記憶が残っているからです。

その後、宇宙服に着替えるために、ハリーは服を脱ごうとしますが、ハサミで切らなければ、服は脱げませんでした。
しかし、2回目に現れた時、ハリーは服の脱ぎ方を知っていたので、初期化のタイミングは、服を脱ぐ前のはずです。
服を脱いだ後に初期化されたら、服の脱ぎ方まで初期化されて、2回目に現れた時に分からないはずです。

それに2回目に現れたハリーは、青いシャツを着ている時もあるので、この服がどういうものか知っているはずです。
だとしたら、やはり服を脱ぐ前に初期化されたはずです。
(ループしているので2回目は1回目の前になります。1回目→2回目→1回目→2回目・・・、と交互にループします)

従って、1回目の初期化は、「スナウトみたい」と言った後から服を脱ぐ前までの、短い時間の間に行われたことになります。
初期化されて、スナウトのことも、服の脱ぎ方も、2回目のループ内の記憶は全て削除されました。

しかし、ここで気を付けなければならないのは、前の記憶が残っていても、自分が誰かはっきりしない、ということです。
初期化される前に、ハリーは自分の写真を見ても、すぐに自分と気づきませんでした。

これは、帰還後のクリスの状態の伏線になっています。


2022.6.25

本文を書いている最中の3月16日に、私の昔の友人、池田修が急逝した。
彼が亡くなったのを知ったのは6月17日、
彼のお別れの会、 池田修を偲ぶ6日間『都市に棲む―池田修の夢と仕事』 に参加した友人からの知らせだった。

彼と最後に会ったのはいつだったかはよく憶えていない。
1987年5月の横浜での 「ネガアーキテクチャープロジェクトNO.2」へ行ったことは憶えている。
2階へ上がると、田中信太郎さんと、福岡から山野真悟さんが来ていて、皆で一緒に酒を飲んだ。

彼を誘って、横浜から吉祥寺にあったライヴハウス「ギャティー」へ、メルツバウの演奏を聴きに行ったりもした。

廃屋とノイズは彼を魅了した。

彼と山野さんを最初に引き合わせたのと、彼に秋田さんを紹介したのが、私の自慢だ。

現代美術の勉強をしていた時、彼と私はすぐ近所に住んでいた。
彼とはよく話をした。
話の中にはタルコフスキーのこともあった。
タルコフスキーはまだ存命だった。
私のタルコフスキーについての文章を彼に読んでもらって、感想を聞かせてもらいたいと思っていたが、
叶わない夢になってしまった。

彼が「僕は長生きできない」と言っていたことを、人づてに聞いたことがある。
それが現実になってしまった。

遅ればせながら、ご冥福をお祈り致します。