「ただいまぁーっ」
もう陽の落ちかけた夕暮れの頃、楊ゼンが転がるように楽しげに、家の中に走り込んでくる。こんな様子にも、もうすっかり馴れてしまっていた。
初めて玉泉山に来たときには一言も話そうとしなかった子供が、些細なことをきっかけに少しずつ表情を見せるようになっていく過程は、玉鼎真人にとって非常に興味深いものだった。そんな事も手伝って、(もちろん、楊ゼンが非常に警戒心の強い子供だということもあったのだが)かなり長い間、玉鼎真人は楊ゼンを洞府の外に出そうとはしなかった。
しかし、いつまでもそうしているわけにもいかなかった。
この年頃の子供にはよくあることだが、楊ゼンは非常に好奇心が旺盛で、最近では陽の出ている時間帯は洞府にいることが珍しいほどになってしまっている。
「おかえり、楊ゼン」
小さな体をひょいと抱き上げる。今日は風が強かったせいか、髪の毛には砂が混じっていた。
「先に風呂に入っておいで」
玉鼎が言うと、楊ゼンはうなずいて、子犬のように走り去っていく。そんなしぐさの一つ一つが、玉鼎にとっては微笑ましく、愛おしい。思い起こせば、手足もここに来たときよりも一回り以上大きくなっているような気がする。
そんな事を考えているとふと、甘い香りが玉鼎真人の鼻をくすぐった。
「おや…?」
桃の香りだった。
「おかしいな…今このあたりに、桃のなっている場所はないはずだが…」
一番近い桃園にしても、とても子供の足が1日で往復できるような場所ではなかった。
思い違いだろうか、と呟いて、あることに玉鼎真人は思い当たった。
楊ゼンは、ここ1週間ほど、行き先を玉鼎に告げてはいない。子供にはよくあることだと思っていたのだが、特に3日前からは、楊ゼンは夕食もそこそこに寝台に潜ってしまうようになっている。
もしかしたら、何かを隠しているのかも知れない。
そこまで考えたところで、足音に気が付いて玉鼎真人は顔を上げた。
「ししょー、お風呂あがりましたっ」
楊ゼンがまだ濡れた髪のまま走り寄ってきて、いつもの通り玉鼎の膝の上にすわる。タオルで髪を拭いてやりながら、玉鼎は楊ゼンに尋ねた。
「楊ゼン、最近はどこへ出掛けているんだ?」
一瞬、楊ゼンの動きがぴたりと止まったような気がした。
「楊ゼン?」
顔をのぞき込むようにして名前を呼ぶと、慌てて頭の上のタオルで顔を隠そうとする。
「べ、べつに、そのあたりで遊んだりとか…」
上目遣いに見上げてくる様子が可愛くて、嘘だと分かっているのに、追求が出来ない。ついつい口調は笑いを含んだものになってしまう。
「ししょぉ、僕、もう眠いです…」
目をこすりながら言われれば、
「ああ、それじゃあおやすみ」
と、笑って言葉を返す以外に道はない。
楊ゼンが小走りに寝室の方へ向かった後に、玉鼎師匠はふとため息を付いた。
「…まんまと騙されてしまったな」
それでも、やはり悪い気はしないのだった。
「楊ゼン!こんな遅くまで、どこへ行っていたんだ!」
ところが次の日の夜、楊ゼンは怒鳴り声で迎えられることになってしまった。
もう月が出て一刻が過ぎたかという頃に、おそるおそる扉を開けて家に入ってきた楊ゼンを、玉鼎はこれ以上ないと言うほどに叱りつけたのだ。
「で、でも…」
楊ゼンが涙目になっても、玉鼎は怒鳴るのをやめない。けれど、玉鼎は芯から怒っているというわけではなかった。もちろん、怒っていないと言えば嘘になる。しかしそれよりも、楊ゼンを心配する気持ちの方が強かった。
「私がどんなに心配したか分かっているのか?こんなに遅くなって…もし何かあったら、どうするつもりだったんだ」
とうとうその勢いに耐えかねて、楊ゼンはしゃくり上げてしまった。
「し…しょ……ごめ…な…さい……」
その様子に、何か自分の方が悪いことをしているような気持ちに、玉鼎はなってしまった。もう少し叱ってやろうと思っていたのに、思わずかがみ込んで、小さな頭を撫でてしまう。
「ししょ…」
「楊ゼン、怒鳴って悪かった。だけど、私は本当にお前のことを心配していたんだ。これは、わかってくれるね?」
優しく話しかけると、少し落ち着いたのか楊ゼンが小さくうなずく。
「それじゃあ、聞かせてくれるね?一体、こんな時間までどこにいたんだ?」
その声に促されるように、楊ゼンはおずおずと後ろ手に隠していたものを玉鼎の前に差し出した。
「桃の…木?」
小さな楊ゼンの手には、小さな桃の木があった。大切に運んできただろう事が、根の様子から見て取れた。
「師匠が…好きだって言ってたから…竜吉公主さまのところの、一番おいしい桃をもらってこようと思って……」
再びうつむきながら、楊ゼンが言う。
「竜吉公主って…それじゃあ楊ゼン、もしかして鳳凰山まで行ったのか!?」
驚きの余りだした大きな声に、楊ゼンがびくりと肩をすくめる。
「ごっ、ごめんなさっ……」
「いいよ、楊ゼン、別に怒ってるわけじゃない」
大きな瞳が、上目遣いに見つめてくる。
「今日はもうおやすみ、楊ゼン。明日、一緒に桃の木を植えよう」
やはり自分は楊ゼンに甘いのだと、玉鼎真人は心の中で苦笑した。楊ゼンは、そんな玉鼎の心を知ってか知らずか、すでに腕の中で寝息を立てていた。
楊ゼンを寝台に寝かせてからしばらく後。玉鼎真人は、ふとある疑問に思い当たった。
「そう言えば楊ゼンは、何で鳳凰山の桃がおいしいと知っていたんだ?」
しばらく考えてから、玉鼎真人は思わず声を上げて笑ってしまった。
「また、楊ゼンに騙されてしまったな…」