Lilly

           
さぼさぬけ

 真っ赤なくちびるからは、血の味がした。

 ボクが人を好きになる感情を知ったのは、まだ幼い、幼稚園の頃だ。ボクたちはまだ子供で、男女の区別すら付かない年齢だった。胸もなければ、声変わりもない。自分がどちらの性に属しているのか、うっすらとしか理解できていない。
 それでも、人間の本質、異質な者を排除するような嫌らしい気持ちだけは心の底にこびりついていて、何とはなしに男の子同士、女の子同士で固まるようになる。
 異質なものに対する嫌悪と、羨望。同質のものに対する安堵と、嫉妬。そんな理由もなく湧き上がってくる感情が入り交じったもの。それが、ボクの恋情だったのだと思う。

 その感情を意識したのは、ハーモニカを吹いている彼を見た時だった。ボクの家も彼の家も共働きで、迎えが来るのは随分と遅かった。けれども、ボクと彼とは違うグループに属していて、お互いにどことなく距離を取ってしまう間柄だった。だから、ボクと彼が親しく話をすることはなかったし、わざわざ近寄っていこうとは思わなかった。
 けれどボクは時折彼を見る。彼は夕日の当たる教室の隅っこで、道具箱に入っているハーモニカを吹いていた。あまり上手くはない。それでも、彼はハーモニカを吹く。彼は楽器が好きなのだ。ボクよりも。
 その日は、彼が先に帰った。彼はハーモニカを道具箱に押し込むと、鞄を引っかけて外へと駆けていった。先生も彼について行く。夕日の教室の中、ボクは彼のハーモニカと取り残される。先刻まで、彼のくちびるが触れていたハーモニカ。
 唾液が付着していて、きっと不潔だ。そう思えば思うほどボクの心臓は跳ね上がり、知らぬ間にボクは彼のハーモニカを手に取り、そこにくちびるを押し当てていた。ハーモニカの穴からは彼の匂いがするような気がした。ハーモニカは何も音を立てず、ボクはただそうしてハーモニカとくちびるとを触れ合わせていた。紅い夕日の色が彼のくちびるを連想させて、どことなく犯罪者めいた気持ちをボクは抱く。

 ボクがハーモニカにくちづけたことを彼は知らない。翌日も彼は変わらぬ表情でハーモニカを手に取り、そのくちびるに押し当てる。ボクはそれを見て、背中にゾクゾクとした感情を走らせる。
 夕日の染める教室に、今日も、ボクと彼は取り残されている。それはもういつものことだ。教室の端で自分の仕事を始める先生や、4時からずっとつけっぱなしになっているテレビ。時折外を通り過ぎていくトラックの音や、そんなもの。ボクと彼を取り巻くもの。それらが一瞬遠ざかったような気がした。この教室だけが世界。ボクと彼とは二人きり。彼の奏でるハーモニカだけがこの世界の音。不器用な音。それでも、ボクはその音だけを聞く。
 ハーモニカの音が止まった。彼がボクを振り返る。黒い瞳がボクを見る。ボクは彼を見つめる。彼は目線を逸らす。再び、ハーモニカにくちづける。ボクは彼へ手を伸ばす。初めての、接触。
 ボクの手は彼の頬に触れ、彼の頬はボクの心に触れ、激しい心臓の鼓動がハーモニカの音をかき消して、ボクはもう何にも考えられないのだ。
 彼のくちびるは真っ赤に腫れあがっていた。瞬間、触れて離れたボクの舌先には、酷く甘い彼の吐息と、苦い血の味が残った。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。
 どうして彼がそんなにもハーモニカに執着していたのかボクは聞かなかったし、彼もまた、ボクの行為の意味を聞かなかった。全てはそれだけで。彼は再びハーモニカを吹き始め、ボクはまた何をするでもなく外を眺めた。
 その日は、ボクの方が先に帰ることになった。今日は彼のハーモニカにこっそりくちづけることができないのだと、それがボクは少し悲しかった。

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